幕間 神魔ゾルムネム、ロドネアにて
空に夕闇が落ちる、わずかに手前の時分。
ゾルムネムは、目前にそびえるロドネアの城壁を見上げた。
ここは、ただの一都市に過ぎない。
魔法を学ぶ人間が少し多くいるだけで、強大なモンスターを狩る冒険者や、帝国軍の精鋭が常駐しているわけでもない。
勇者も、まだ子供であるはずだ。
強者を集めたこのパーティーの脅威になる者はいない。
だからこの恐怖は――――おそらく、重圧によるものだろう。
いよいよ旅の目的を果たす時が来たのだ。
自分にもこのような感情があったことを、ゾルムネムは長らく忘れていた。
手はずは、すでに全員が把握している。
学園の四方から生徒を追い込み、中央の本棟付近で合流した後、そのまま更なる殺戮を行う。勇者らしき者を見つけた場合、その時点で各人が専用の魔道具で合図を送る。見つけられなくとも、騒動が起これば武勇に優れる者をおびき出せるだろう。
あまりに不確かな作戦ではあるが、仕方がない。勇者はわかりやすく玉座に座してくれているわけではないのだ、かつての魔王と違って。
諜報の術があればと、ゾルムネムは思う。
情報が重要なのは理解していたが、必要な人員を確保できなかった。
ただロドネアと学園の地図だけは、出入りしている商人を何人か捕まえて描かせ、照らし合わせることで信頼できるものを作った。これを元に、ガル・ガニスの転移魔法で、各々を予定の場所へと送り込む。
商人の荷や、彼ら自身が予定にない補給となったことは僥倖と言えるだろう。
後は、成否を天運に委ねるだけだ。
「僕、なんだかうまくいくような気がしてきたよ」
緊張による沈黙を、ロ・ニが破った。
「ディーたちやミーデもやる気満々だし、それに……僕たちなら、誰にも負けないよ」
「うむ、よい心持ちであるな」
ムデレヴが兎人の言葉に続く。
「心をこそ堅に保つ。大事を為すには必要なことよ。心が脆なれば、武に限らず何事もうまくいかぬでなぁ」
「ムニャ……それ、六回は聞いた……」
「もうみんなわかってるッスよ」
ゾルムネムは、口元に小さく笑みを浮かべた。
きっと、成し遂げられるだろう。このパーティーならば――――。
「行こう」
神魔の男が、仲間たちに告げる。
それから数瞬後。
魔族たちの姿は、魔法陣の残光と共にかき消えた。
****
魔法学園の西端へと転移したガル・ガニスは、二つのことを覚った。
一つは、自分を含めた全員の転移が成功したこと。
そしてもう一つは、この予定外の霧だ。
城壁の外からはまったくその気配がなかったにもかかわらず――――魔法学園は、濃い霧に覆われていた。
気象に明るくないガル・ガニスでも、夕暮れ時の霧が、極めて希な現象であることは理解していた。それも城壁の中だけという狭い範囲で、このような濃霧など聞いたこともない。
道に迷いそうなほどだ。
だがこの程度の問題で、今さら計画は変えられない。
「チッ……」
ガル・ガニスが、空中に無数の炎を生み出した。
その周りだけ、わずかに霧が薄くなる。
気温が上がれば霧は晴れる。だがさすがに、魔法で生み出す程度の炎では焼け石に水だった。この辺りは建物もまばらで、火を付けたところで延焼が狙えない。炎は、せいぜいが光源程度にしかならなかった。
しかしそれでも、ないよりはマシだ。少なくとも周囲の様子はわかるようになる。
驚いたことに、付近には人間の気配があった。
道を歩く者。立ち止まって談笑を交わす者。
ここの生徒だろうか。この霧に動じている様子もない。ひょっとすると、彼らにとってはありふれた現象なのか。
ガル・ガニスは舌打ちをする。
「チッ、平和ボケしてやがる……悪く思うなよ」
無茶な言い草だと、自分でも思った。
悪く思わないわけがない。何の咎もなく突然に殺される運命を、誰が呪わずにいられるだろう。
今さら過ぎる感傷だ。
兄が果たせなかった使命を継ぎ、勇者を倒して魔族の未来を救うと決めた時、すでに恨まれる覚悟はできていた。
それに、この場所は――――敬愛する兄の斃れた地なのだ。
自分にも復讐の道理がある。
ガル・ガニスは、談笑する一人の女子生徒を狙い、炎の一つを転移させた。
それは肺と心臓を灼き、口から火の粉を散らしながら、わずかな時間でその命を奪う――――はずだった。
だが。
「あぁ……? なんだ、これは」
****
ロ・ニとピリスラリアが転移したのは、魔法学園の南端だった。
「うまくいったみたいだね。でも……すごい霧だな」
「ムニャ……」
兎人の少年が、続けて明るく言う。
「ま、これくらい全然平気だけどね」
ロ・ニは獣人の特性として、極めて優れた方位感覚を持っていた。
この程度の視界不良は問題にならない。
「ロ・ニ君、頼りになるね……」
「ピリスラリア? 起きてるの?」
「うん……」
背後を振り返ったロ・ニに、両の目を薄く開けたピリスラリアがうなずく。
彼女がなんでもない時に起きているのは、珍しいことだった。
きっとまた、すぐにまどろみへと戻るだろう。それでも戦闘はきちんとこなすから、どうなっているのかとロ・ニは思う。
「でもなんだい? 君が僕を誉めるなんてさ」
「ロ・ニ君は……強くなったよ……」
「僕が……? 何言ってるんだよ」
兎人の少年は苦笑いを浮かべる。
「僕は変わってないよ。がんばっているのはディーやミーデたちだし、僕自身は、今でもみんなの中で一番弱いままだ」
「ううん……ロ・ニ君は、強くなった……もう、わたしより、強いと思う……」
ロ・ニとピリスラリアが組まされたのには、理由がある。
ロ・ニは多数のモンスターを扱える一方で、それ以上の強さを持つ敵には為す術がない。ピリスラリアの邪眼は強力だが、極端な能力ゆえに弱点も多い。
だから、互いに補い合う必要があった。
異様な精度で転移と炎の魔法を操るガル・ガニスや、圧倒的な武を持つムデレヴ、そして魔法も剣も極めたゾルムネムに比べると、二人は弱かった。
しかし、それでも。
ピリスラリアは、呟くように続ける。
「モンスターの使い方が、上手になったし……心の方も……」
「あはは、そう? でも心は多少、マシにはなったかな。僕、村じゃ一番の使い手だったんだ。誰にも負けないと思ってた。だけど隊長やムデレヴに会って、旅に出ていろんなことがあって……性根を叩き直された気分だよ」
初めはそれを認められずに、よくピリスラリアに食ってかかっていた。
彼女にだけは負けていない、パーティー最弱では決してないと、よく敵愾心を燃やしていたことを覚えている。
結局、それも間違いだったが。
「わたしも……すこし、自信を持てるように……なった」
「君が? 君だって、故郷では一番の使い手だっただろう?」
ピリスラリアが、ゆっくりと首を振った。
「こんな力……平和な場所では、なんの役にも立たない……いつも眠ってるわたしは……みんなに、迷惑ばかり……かけてた」
「……」
「でも……今日でやっと、胸を張れる、気がする……お父さんとお母さんに、早く言いたい……勇者を……倒したんだ、って」
「……そうだね。じゃあ……早く済ませようか」
ロ・ニの影が大きく広がり、シャドーウルフの群れが次々に地上へと現れる。
すぐ先に、複数の人の気配があることはわかっていた。
おそらくは、この学園の生徒だろう。
「いけっ、みんな!」
シャドーウルフが疾駆し――――人影に襲いかかった。
このモンスターは、等級の高い冒険者でも苦戦する。素人ではとても太刀打ちできない。
これは始まりだ。狼の群れは、人の集団など容易に追い込んでいく。
だが――――ロ・ニは、違和感を覚えた。
霧のせいで様子がわからないが、妙だ。上がるはずの悲鳴が聞こえない。
シャドーウルフたちも戸惑っているように見える。
「っ、なんだ……? 戻れ!」
やがて、シャドーウルフたちが戻ってくる。
その口に咥えられている物を見て、ロ・ニは目を眇めた。
「これは……?」
****
魔法学園の東端に転移したムデレヴは、周囲の景色を見回して、まず呟いた。
「うむ、霧が濃い。だがなんとかなるであろう」
あやふやな言葉とは裏腹に、足取りに迷いはない。
周囲の景色すら不確かな中で、行く先を決めるのはただの勘だ。
だがムデレヴは、その戦士の勘をこそ大事にしていた。これまでの経験から、それは信頼のおけるものだった。
付近に、人の気配はない。
ムデレヴの担当した東端は研究棟の並ぶ区画だったが、自身の勘では、建物の中にも人間がいるようには思えなかった。ひょっとするとこの場所は、普段はあまり使われていないのだろうか。
「それはそれで良いが……ちと困ったな」
ムデレヴも、無闇に人間を殺めたいわけではなかった。
自らが全力で臨むにふさわしい、強き者。加えて、自身が食べる分だけ。手にかけるのは、それだけで十分だと考えていた。無益な殺生は人にも獣にも避けるべきだ。
ただ今ばかりは、そうも言っていられなかった。
騒ぎを起こし、勇者を炙り出す必要がある。
それには、人間たちに悲鳴を上げてもらわねばならなかった。
「しかし、いないのではどうしようもない。これはゾルムネムの計算違いと……」
独り言を止め、ムデレヴは唐突に棍棒を構えた。
巨木に斧を叩きつけるような音と共に――――二本の投剣が、ムデレヴの棍棒に突き刺さる。
「おおっ……!」
ムデレヴは、自身の棍棒に目をやって感嘆の声を上げた。
かつて切り倒した古の妖樹から彫りだしたこの棍棒は、これまで剣でも槍でも魔法でも、傷つけられたことなど数えるほどしかなかった。
だが、どうだろう。ムデレヴの指程度しかない小ぶりなナイフが、今わずかにではあるが突き刺さっている。棍棒から伝わった衝撃といい、尋常な技ではない。それが魔法によるものだということは、すぐに察しがついた。
「堅なる者よ、さあ名乗られよ」
ムデレヴは口元に喜悦の笑みを浮かべ、その相手へと呼びかける。
それは小さな人間だった。
女で、子供。珍しい灰色の髪に、手にはその小さな体に似つかわしくない大ぶりな戦斧を提げている。
少女は名乗らず、訝しげに問う。
「あなた、なに」
「これなるは鬼人、ムデレヴ。お主を打ち倒す者よ」
「……どこで雇われたの。商会に、あなたみたいなのはいなかった」
「商会? ガハハッ、何を言っているのかわからぬ!」
「……なんでもいい。ここから先には、進ませない……ッ!」
少女が一気に間合いを詰め、戦斧を振りかぶる。
一連の動きをムデレヴは予期していたが、それは想定よりもずっと速かった。
振り下ろされる戦斧を、掲げた棍棒に嵌められた、補強用の金輪部分で受けた。体の芯に響く衝撃。金属同士が打ち合わされる重い高音が轟く。
もし剥き出しの木地で受けていたら、刃が深く食い込んでいたに違いない。
少女がすばやく戦斧を引くと、次いで足を狙った地を這うような一撃が振るわれる。
棍棒を石畳に立て、再び防ぐ。そのまま薙ぎ払うように放った拳は、身を伏せるようにして躱された。
少女は、今度は跳ね上げるように戦斧を振るう。やはり速い。加えて、人の頭を粉砕する鬼人の拳にも、まったくひるむ気配がない。
「ガハハッ! 防戦一方であるな!」
ムデレヴは笑う。
少女の猛攻をしのぎながら、鬼人の武人は冷静に思考していた。
この技は、ありえない。
一撃が重すぎる。その一方で身のこなしは軽く、武器の重さに振り回される様子がない。
筋力は魔力で補えるが、体重は別だ。少女はあまりに小さい。体に鉛でも詰めていなければ、実現できない動作だろう。普通ならば。
ムデレヴの面貌に、笑みが深く刻まれる。
なんのことはない。
鬼人の武人は、このような尋常でない技を持つ、強き者との闘争をこそ望んでいた。
少女の戦斧が、斜めに振り下ろされる。
ムデレヴは、今度はそれを――――あえて、棍棒の木地部分で受けた。
「っ……!」
ミシリ、という音と共に、戦斧の刃が棍棒に食い込む。
切断には至らないが、決して浅くはない。そんな深さ。
少女の表情が、わずかに歪んだ。そして戦斧から感じていた重さが、ふと微かに軽くなる。
ムデレヴはすかさず――――食い込んだ戦斧ごと、棍棒を大きく振るった。
「ヌンッ!!」
戦斧が少女の手から引き剥がされ、霧の向こうに飛んでいく。
柄から手を離したのがわざとかどうか、それは今考えるべき事ではない。
後ろに跳び、距離を空けた少女の手には、いつの間にか投剣が握られていた。流れるような動作でそれが放たれる。
正確に首を狙う投剣を――――ムデレヴは、左腕で受けた。
刃は、その太い腕の肉にも届かず止まっている。
鬼人は口元に笑みを浮かべながら、少女を見据えて言う。
「甘いわッ! この程度の……」
「甘いのは、あなた」
左腕に突き立った投剣から、突如無数の影が噴出した。
帯状の影はムデレヴの全身に巻き付くと、強く締め付け拘束する。
鬼人の武人は、わずかに困ったような顔で呟いた。
「むぅ……」
「私も、これくらいできる。大人しくして」
「いや、悪いのだが……」
ムデレヴが腕を強引に開くと――――影の拘束は、あっけなくちぎれ飛んだ。
大きく目を見開く少女に、鬼人は言う。
「ゾルムネムが言うところには、我には全属性の魔法耐性があるようでな。ガハハッ! 搦め手など使わず、力で来るがよい。そのような技を持ちながら、よもや徒手は不得手とも言うまい?」
少女はすかさず腿の収納具に手を伸ばすと、投剣を掴んで投擲する。
ムデレヴは、すでに大きく踏み込んでいた。
棍棒を跳ね上げるように振るい、宙の投剣を打ち払う。
そして切り返したそのままに、豪速の棍棒を、少女の頭へと振り下ろした。
表情を強ばらせる少女に、動きはない。もはや躱す時間もない。
金輪の嵌められた太い棍棒が、必然の流れで少女の小さな頭を叩き割る――――はずだった。
「むっ!?」
棍棒が空を切った。
勢いのままに叩きつけた先の石畳が、派手に砕け散る。
少女の姿はない。
忽然と消えてしまった。
反撃が来るかと周囲を見回したが、そんな様子もない。人の気配など、どこからも感じられなかった。
あとに残っていたのは、一枚の呪符だけ。
「むぅ……面妖な」
ムデレヴはそれを拾い上げる。
その呪符は――――奇妙なことに、人の形に切り抜かれていた。
****
ゾルムネムは足を止め、辺りを見回した。
周囲に建物のない、ひらけた場所だ。予定していた合流地点ではない。
霧の中、慎重に現在地を確認しつつ進んできたはずが、どういうわけかこのような場所にたどり着いてしまった。
奇妙なことは他にもある。
ある程度はいると予想していた、生徒や教師の姿が見当たらないのだ。
代わりにあったのは――――、
「ゾルさん?」
聞き慣れた声に振り返ると、霧の中から現れたのはガル・ガニスだった。
悪魔族の青年は、戸惑った様子で言う。
「ここ、本棟の近く……じゃないっスよね? なぜか、こっちに足が向いちまったんスけど……」
「ああ、私も同じだ」
「むっ、そこにいるのはゾルムネムか?」
「あれ、隊長?」
「スゥ……なんで……?」
声と共に、ムデレヴにロ・ニ、ピリスラリアの姿が現れる。
ゾルムネムは、疑念を深める。
「お前たちもか」
「みんないるの? ここ、予定の場所じゃないよね?」
「むぅ、おそらくそう離れてはいないと思うのだが……」
「ムニャ……それより……人間が、なんか変……」
「……やはりか。こちらもだ」
ゾルムネムは、そう言って衣嚢から紙片を取り出した。
それは真っ二つに切られた、人の形をした呪符だった。
「人を斬っても、何一つの手応えがない。代わりに、このような呪符が落ちているだけだ。何か魔法の類であるのだろうが……」
「我も同じよ。強者と対峙し、いざ仕留めたと思った時には、この呪符に変わっていた」
「あっ、それ僕たちの方もだったよ!」
「オレもっス」
ムデレヴに続き、ロ・ニとガル・ガニスも、牙に貫かれたり焼け焦げたりした呪符を取り出した。
ロ・ニが不安そうな声音で言う。
「隊長、どうする……? なんか、普通じゃないよ。これ……」
ゾルムネムは逡巡する。
異常な事態が起こっている。それは確実だ。
おそらく……待ち構えられている。何者かに。
今勇者を討たなければ、まず次はない。補給のない敵国の地で、次の機会を待つなど不可能だ。この旅は失敗に終わることになる。
だが、それでも――――この状況で作戦を強行すれば、きっと命取りになる。
ゾルムネムの勘は、そう告げていた。
撤退だ。
不名誉ではある。故郷に帰れば、同胞からそしりを受けるかもしれない。
しかし、仲間の命を無為には散らせられない。
ゾルムネムは、皆に告げるべく口を開いた。
そして――――、
声が、聞こえた。
「――――誰そ彼に、来る客人は戒めよ、童が牙出だし、鬼火纏ふもや」





