第二話 最強の陰陽師、実家に帰る
それから三日経って、ぼくたちを乗せた馬車はロドネアを発った。
学園へ出てくる時に通った道を逆に辿り、七日。
ぼくはちょうど二年ぶりに、ランプローグ領へと帰ってきた。
屋敷の前で馬車から降りると、見知った顔に出迎えられた。
「おかえり、セイカ」
「……ただいま、ルフト兄。なんだか雰囲気変わったね」
微笑みながらそう告げると、今年で十九になるルフトは、照れくさそうに笑った。
「そうかい? 少しは次期領主らしい威厳が出てきたかな」
「多少はね」
「セイカは……あまり変わらないね。背は伸びたけど」
そりゃあ、これだけ生きていれば今さら内面なんて変わらない。
「兄さんの婚約者には会えないのかな」
ぼくが何気なく訊くと、ルフトは苦笑しながら答える。
「生憎、しばらくはこっちに来ないと思うよ。ほら、今は例の逗留客がいるから……」
「それは残念だ。将来の義姉さんに挨拶したかったのに」
「またの機会に頼むよ」
それからぼくは、ルフトの傍らに控えていた長身の中年男性に目を向ける。
「やあ、エディス。忙しいだろうに、わざわざ出迎えに来てくれたのか。うれしいよ」
「とんでもございません。おかえりなさいませ、セイカ様。見ぬ間にご立派になられました」
長身の男が慇懃に礼をする。
エディスは、ランプローグ家に仕える解放奴隷だ。
栗色の髪に口髭を生やした表情の乏しい男だが、その実相当有能らしく、ランプローグ領の経営のほぼすべてを任されている。ブレーズが自身の研究に没頭できるのも、ほとんどエディスのおかげと言ってよかった。
それだけにかなり多忙なはずなんだけど……。
「仕事は大丈夫なの?」
「下の者に任せております。多少無理をしましたが、ぜひ直接お迎えに上がりたく」
と、堅苦しい口調で答える。
エディスは昔からこんな感じだが、誰に対しても同じ態度なので、屋敷の中では好ましい方の人間だった。
まあ今日来たのは、ぼくのためではないだろうけれど。
「それより、セイカ一人かい?」
「ん、あれ? みんな降りてきていいよ」
ぼくは顔だけで振り返り、馬車に向かって呼びかける。
遠慮でもしていたのか、それを合図に彼女らがぞろぞろと馬車の中から出てくる。
「ル、ルフト様。お久しぶりです……」
「ああ、イーファか。久しぶりだね。綺麗になってて驚いたよ」
「あ、ありがとうございます……」
「イーファ。ほら」
「う、うん」
それから、イーファはエディスを見上げてはにかむように笑う。
「えっと……ただいま、お父さん」
「ああ」
エディスが、口数少なく頷いた。
「変わりないか?」
「うん、元気」
「セイカ様に迷惑をかけていないか?」
「ええと……たぶん?」
と、イーファがこっちを見てくるので、ぼくが代わりに答える。
「イーファはよくやってくれているよ。学園での成績もいいんだ。主人として誇らしいよ」
「娘にはもったいないほどの言葉ですが……それならば、送り出した甲斐があります」
と言って、それきりエディスは口をつぐんだ。
仕事では有能だけど、不器用な父親なんだよな。少しブレーズに似ているところもある。
まあこの親子は置いておこう。
ぼくはルフトに向き直り、近くで固まっている赤髪の少女を手で示す。
「ルフト兄。こちら、アミュだよ。あの」
「ああ、彼女が」
ルフトはアミュに顔を向けると、穏やかな笑顔で手を差し出した。
「はじめまして。ランプローグ家次期当主のルフト・ランプローグです。この度はロドネアからはるばる我が領地へようこそ」
「ど、どうも。お招きにあずかりました……」
アミュがぎこちなく握手に応じる。なんだかいつもとは全然違うな。
ルフトは、どこか人好きのする笑みで続ける。
「どうかな。ロドネアと比べると、やっぱりここは田舎かい?」
「ええと、少し……けっこうそう、かも?」
「ふふ、どうりでセイカが帰りたがらないわけだよ。帝都には何度か行ったことがあるけど、ロドネアはなくてね。食事の席ででも、学園や街の話を聞かせてくれないかな。セイカは自分の成績とか功績のことばかりで、普段の生活のことはあまり手紙に書いてくれないから」
「別に、書くこともないだけだよ」
それからぼくは、アミュのそばで同じように突っ立っていたメイベルを示す。
「えーこちら、クレイン男爵家令嬢のメイベルだよ。手紙、見てくれてた?」
「もちろん見ていたよ。はじめまして。お目にかかれて光栄です、メイベル嬢」
と、ルフトは、今度はメイベルに貴族の礼を行う。
「実は、貴女の伯父上には学会で一度挨拶させてもらっているんだ。もし会う機会があったら、その時はよろしく伝えていただけると助かります」
「……!」
メイベルは無言でこくりとうなずくと、焦ったようにキョロキョロと周りを見回して、それからあわてて同じような貴族の礼を返した。
メイベル……。
作法は大丈夫とか言っていたのに、全然慣れてないじゃないか……まあそんなことだろうとは思ってたけど。
と、その時アミュが、腕の辺りを指でちょんちょんと突いてきた。
小声でささやきかけてくる。
「ね。このイケメンが、上の兄?」
「そうだよ」
「あんまりあんたに似てないわね」
「それ、遠回しにぼくをばかにしてるのか?」
「なんか、貴族って感じ。別にこれは嫌みじゃなくて」
アミュが、他意のない様子でそう呟いた。
二年前はそうでもなかったんだけどな。若者はあっという間に変わっていく。
ぼくは一つ息を吐くと、ルフトに声をかける。
「とりあえず荷物を置きたいから、みんなを部屋に案内してくれるかな。兄さん」
「そうだね。ではこちらへ」
馬車に積まれていた荷物を侍女や使用人に任せ、ルフトが屋敷の敷地内を先導していく。
ぼくは隣に並んで話しかける。
「部屋は離れの方?」
「いや、屋敷の空いている部屋になる。離れにはもう客人がいるからね。ほら、例の……」
「ああ……」
と――――その時。
「――――セイカァァァッ!!」
聞きたくなかった声が、耳に飛び込んできた。
「げっ……」
思わず足を止めてしまう。
顔をしかめながら声の方を見やると――――案の定、そこには二番目の兄がいた。
「とうとう帰ってきやがったな! ははっ、今日この日をどれだけ待ちわびたか!」
庭に仁王立ちしたグライが、不敵に笑いながらそう言った。
ぼくは引きつった笑みで答える。
「や、やあ兄さん……まさかそんなに歓迎されるとは思わなかったよ。ちょっと見ない間にずいぶん……なんというか、でかくなったね」
二年前もルフトと同じくらいの身長があったが、今では完全に超している。
おまけに軍で鍛えられたのか、体格もかなりがっしりとしていた。
今も稽古をしていたのだろう。手には模擬剣を提げ、少し汗をかいているようだった。
こっちも変わったなぁ……。
「……元気そうで何よりだよ。そんなに軍での生活は楽しい?」
「ああ、楽しいとも」
あれだけ嫌がってたはずだったのに、意外にもグライは肯定する。
「自分でもまさかここまで性に合っているとは思わなかったぜ。机に座っているより、ゲロ吐くほど剣振って理論なんて考えずに魔法ぶっ放つ方がよほど楽しい。学園に行くよりもずっとよかった。セイカ、お前には感謝してやってもいいくらいだ。だがな……おれをコケにした恨みは忘れてねぇ!」
と、グライが手に提げていた模擬剣を差し向けてくる。
「勝負しろ、セイカッ!!」
「……へ?」
「ずっとこの日を待っていた! 今日こそ屈辱を晴らす時だ!!」
ぼくが呆気にとられていると、グライの傍らに立っていた初老の男が焦ったように諫める。
「坊ちゃま! いけませんぞ、国の危機に戦うべき貴族とはいえ、武の心得のない子供に対してそのような!」
「うるせぇ坊ちゃまって呼ぶんじゃねぇ! おれは今日この日のために地獄の訓練を耐えてきたんだ、邪魔すんな!」
グライが負けじと言い返す。
知らない人だけど、誰だろう。軍の関係者、もしかしたら部下かな。
グライの場合ただ里帰りしたのではなく、軍務の一環で、一部隊を率いてきているから。
グライが今や小隊の一つを任せられていることを、ぼくはルフトから手紙で聞いていた。
元々親戚の部隊に配属されたから待遇はよかっただろうが、ここまで早く出世したのはやはり才能があったんだろう。剣や魔法だけじゃなく、部隊を率いるには軍略を解し、荒くれ者の兵の心を惹きつけ、鼓舞する力が必要になる。
そういえば、屋敷にいた頃は街で柄の悪い連中とつるんでいたりしていた。そう考えると、やっぱり向いていたのかもな……。
と、その時アミュがまた、腕の辺りを指でちょんちょんと突いてきた。
「ね。あの人が、二番目の兄?」
「そうだよ」
「あんたとイーファをいじめてて、学園に来る前にボコボコにしてやったっていう?」
「そう。で、今は帝国軍の地方部隊で小隊長やってる」
「……軍人が、学生に剣で勝負挑むわけ? 何考えてんのよ」
「まあ冷静に考えると非常識なんだけど……そういうやつなんだよ」
「ふん」
荒い鼻息を吐いて、アミュが一歩前に進み出た。
それからグライを見据えて宣言する。
「ちょっとあんた! セイカの代わりにあたしと勝負しなさいよ!」
「えっ、ア、アミュ?」
突然のことに動揺するぼく。
言われたグライも、はあ? みたいな顔をしてアミュを見た。
それから、ぼくに視線を戻して言う。
「おいセイカ。なんだこいつは」
「ぼくの同級生なんだけど……」
「あんたね、剣士が素人相手に勝負を挑もうとか恥ずかしくないわけ?」
アミュは構わずに続ける。
「あたしが相手になるわよ! 決闘に代理人立てるのは普通でしょ?」
言われたグライが、めんどくさそうな顔でしっしっ、と犬を追い払うように手を振る。
「学生なんかがおれの相手になるか。お呼びじゃねぇからどいてろ」
「セイカも学生でしょ!? それにこっちはお貴族様になめられるような鍛え方してないのよ!」
「あのな、そういうのいいから……」
「あー……勝負してやってよ、グライ兄」
ぼくは少し迷って言った。
たぶんグライも、剣で負けた方が大人しくなるだろう。
「代理人ってことで。アミュは、少なくとも剣はぼくより確実に強いからね」
「剣なんてほとんど握らないお前と比べてどうする」
「アミュにもし勝ったら、その時はぼくが相手してやってもいいよ」
「はーん……それなら話が早え」
グライが、アミュを見据えて言う。
「受けてやるぜ、ガキんちょ。さっさと剣を構えな」
「構えな、じゃないのよ。模擬剣よこしなさいよ」
「めんどくせぇな。その腰のご立派なのを抜けよ」
グライが模擬剣の剣先で、アミュの提げるミスリルの杖剣を差す。
「お前もそっちの方がやりやすいだろ」
「こっちだけ真剣でやれって言うの?」
「寸止めで決着なら同じだ。だが、殺す気でかかってきてもいいぜ。軍の訓練では模擬剣を使ってもたまに死ぬやつがいるんだ」
「……そう」
アミュが、ゆるりと杖剣を引き抜く。
「でもそれ、冒険者でもよくいるわね」
「冒険者……? まあいい。ローレン! 立会人をしろ、隊長命令だ!」
「坊ちゃま……仕方ありませんな。お嬢さんにお怪我などさせぬよう、くれぐれも気をつけるのですよ。それとお嬢さんの方は杖剣をお持ちですが、この立ち会いにおいて魔法は一切禁止とします。双方、よろしいですな」
初老の男が間に立ち、両者が対峙する。
ぼくは思わず渋い顔になる。アミュの側だけとは言え、真剣での立ち会いになってしまった。
だがまあ……大丈夫だろう。
アミュならば、きっと手心を加えても余裕で勝てる。グライ程度では勇者には敵うまい。
それにもし死にそうな怪我を負ったら、その時は仕方ないから治してやらないでもないしね。
「では――――始めッ!」
ローレンと呼ばれた男が、意外にも張りのある声で開始の合図をする。
「っ!」
アミュが地を蹴り、一息に距離を詰めた。
そしてそのまま、上段からミスリルの愛剣を振り下ろす。
「……!」
重量感のある金属音が響く。
剣術の定石に従い、柄に近い部分でアミュの一撃を受けたグライは、わずかに目を見開いて左手を模擬剣の背へと滑らせた。そうしなければ受けきれなかったのだろう。
しかし、受けきった。
レッサーデーモンに膂力で勝るアミュの馬鹿力だ。そのまま倒されて勝負が決まるかと思ったけど……。
メイベルも以前アミュの振り下ろしに耐えていたが、あれは重力魔法があってのことだ。グライの方から力の流れは感じない。魔力による身体強化と純粋な技術で、あの怪力に抵抗している。
鍔迫り合いの状態から、アミュが押し込んでいく。
しかしグライは、うまく力をいなしながら攻めの緩急に耐え、隙を作らない。
むしろ表情は冷静で、いくらかの余裕まで見られるほどだ。
「ああもうッ!」
アミュが焦れたように、鍔迫り合いから強引に間合いを開き、激しい攻めに転じた。
しかし、やや無理筋だ。流れを掴みきれていない。剣には重さも速さも乗っているが、グライはそのすべてを落ち着いて受けきっている。
と、その時グライが、突然バランスを崩した。
小石でも踏んだのか。転倒まではいかないものの、大きな隙ができる。
当然アミュもそれを見逃さず、追撃の態勢に入った。
あそこからだと、グライは打ち合えてせいぜい二合。それで決着だ。
なんだか拍子抜けする終わり方だが、まあこれで……、
「燃え盛るは赤! 炎熱と硫黄生みし精よ――――」
その時、グライが突然叫んだ。
呪文詠唱。
「っ!?」
アミュが踏み込みの足を止め、剣を引いて、身構えるように一瞬体を硬直させた。
追撃の姿勢から急に攻め気を消したために、どうしようもない隙ができる。
それで、終わりだった。
グライが嘘のように一瞬で体勢を戻し、その剣を振るう。
アミュの手から、ミスリルの杖剣が弾け飛んだ。
そして、尻餅をついた少女剣士へと――――模擬剣の切っ先が突きつけられる。
「はい、おれの勝ち」
アミュを見下ろしたグライが、気だるそうに宣言する。
場が静まりかえる中、我に返ったアミュが叫ぶ。
「はあ!? ひ、卑怯よ! 魔法はなしって言ったじゃない!」
「おれがいつ魔法なんて使った?」
言われたアミュが目を見開く。
へぇ……。
「騙し討ち!? あ、あんた、それでも剣士なの!?」
「戦場にはお行儀のいい勝負なんてないんでね。その雑な実戦剣、お前冒険者かなんかだろ。モンスター相手にも同じこと言ってんのか?」
そう言って模擬剣を下げるグライに、アミュが歯ぎしりしそうな顔をして言う。
「も、もう一回!」
「やだね」
「はあ!?」
「次やったら負けそうだ」
「な、な、な!」
「お嬢さん」
ローレンと呼ばれた初老の男が、アミュに手を差し伸べながら言う。
「坊ちゃまが躓いたのは、わざとですよ」
「えっ……?」
「このローレンも驚きました。お強いですな、お嬢さん。それだけに、坊ちゃまも勝ち方に困られたのでしょう。このような場でお客人相手に、まさか荒っぽい決着をするわけにもいきませぬからな」
「……」
「坊ちゃまは、あれでもペトルス将軍の麾下では随一の使い手なのです。魔法でも剣でも。この二年でそうなられました。もっとも、軍略に関してはもう少しお勉強が必要ですが」
「うるせぇぞローレン! 余計な事喋るんじゃねぇ!」
「おっと、これは我が軍の機密でしたな」
グライとローレンのやり取りを眺め、ぼくは思う。
やっぱり、グライも変わったみたいだ。見た目だけではなく、中身の方も。
「待たせたな、セイカ! 約束通り勝負してもらおうか」
腰に手を当てたグライがぼくに告げる。
息を切らした様子もない。余裕があったのも本当なんだろう。
ぼくは、溜息をついて答える。
「勘弁してよグライ兄。今のグライ兄に剣で勝てるわけないだろ」
「誰が剣で勝負しろなんて言った。なんでもありだ。お前はあの妙な符術でもなんでも使え。おれもこいつを抜かせてもらう」
と、グライが模擬剣を投げ捨て、腰の剣を抜いた。
杖剣のようだ。無骨な造形ながらもその丁寧な拵えから、上等なものであることがわかる。
「坊ちゃま! いけませんぞ!」
「うるせぇ! お前にもこの勝負だけは邪魔させねぇぞ、ローレン!」
「坊ちゃま……」
「受けるよなぁ、セイカ! 聞いたぜ、帝都の武術大会で優勝したそうじゃねぇか。おれにはわかる、お前にとってはどうせ取るに足らないやつばかりだったんだろう。だがな、今のおれは違うぞ! あの日の屈辱をバネにここまで強くなったんだ! おれと決闘しろ、セイカ! 二年前の再戦だ!」
「まったくやかましいなぁ……はぁ。わかったよ、グライ兄」
やれやれと、ぼくは前に歩み出る。
負かしてやればとりあえずは大人しくなるだろう。
「一応、約束したからね。ルールはどうする?」
「武術大会と同じでいい。お前もその方が都合がいいだろう」
「別になんでもいいけどね。ただ護符がないから、そうだな……魔法は一発当たったら負けで。ただし、制限はなし。中位以上の魔法だって使っていいよ。じゃないと、実力なんて出せないんだったっけ?」
「はっ……言ってくれるじゃねぇか……!」
グライが不敵に笑い、杖剣を肩に担ぐ。
「ローレン! 勝敗の判定はお前がしろ! 隊長命令だ!」
「坊ちゃま……わかりました。あまりそうは見えませぬが、こちらのセイカ殿は、坊ちゃまがそこまでの覚悟を持って挑むほどの強者なのですね……。であるならば、これ以上部外者が言えることは何もありませぬ。このローレン、此度の決闘をしかと見届けると誓いましょう!」
「セ、セイカ、ほんとにやる気なの?」
「ん?」
思わず振り返ると、アミュが不安そうな目でぼくを見ていた。
「昔はどうだったのか知らないけど……あいつ、今はたぶん本気で強いわよ。もしかしたら、帝都の武術大会に出ていた誰よりも……」
「はは、珍しいな。アミュがこういうことで心配してくれるなんて」
「笑い事じゃないわよ! 万が一って事もあるかもしれないし……」
「ないよ」
「え……?」
「万が一なんてない」
そう言って、ぼくはグライに向き直った。
グライがぼくを倒すには……試行回数が万では、とても足りない。
どれ、軽く思い知らせてやろう。今生の兄よ。
ローレンが声を張り上げる。
「此度の決闘は、いずれかの名誉や仇討ちのためではなく、純粋に強さを決するもの。互いに剣を止め、致命な魔法は用いぬよう努めること。勝敗はこのローレンの判定によって決します。双方、よろしいですな? では――――」
「まあ、決闘」
澄んだ音色の笛のような、場違いな声が響いた。
皆一斉に、そちらに目をやる。
いつのまにか、屋敷の庭に一人の少女が立っていた。
「わたくしの聖騎士が決闘だなんて、なんということでしょう。これを見届けることが、きっとわたくしの定めなのでしょうね」
少女が陶然と呟く。
神々を象った彫像のような、人間離れした美貌を持つ少女だった。
鋼のような鈍色の瞳も、うっすら水色がかった髪も、前世では見たことがない。まるで化生の類だが、身に纏っている普段着用のドレスは上等なもので、その言葉遣いも含めて高貴な身分の人間であることがわかる。
ローレンやルフト、エディスや使用人たちが、うやうやしく姿勢を正す。
ぼくと向かい合っていたグライは……ものすごく苦い顔をしていた。
「な……なんだよ、殿下。あまり一人で行動するなって言っただろ」
「うふふ、仕方ないでしょう? 皆、どこかへ行ってしまったのですから……あるいは、どこかへ行ったのはわたくしの方かもしれませんが。うふふふ」
「おれの部下を困らせるんじゃねぇ」
「そのようなこと、どうでもいいではありませんか。さあ、はやく決闘を始めなさい、グライ」
何を考えているのかよくわからない目のまま、少女は口元に笑みを浮かべる。
「たとえなに一つ得ることのできない戦いであっても、あなたにとっては意味があることなのでしょう? わたくしには、ちょっと理解できませんけれど」
言われたグライの表情が歪む。
「おれが負けるって言うのか」
「まあ、あなたの勝負の行く末を口にするだなんて……うふふ、そのような残酷なこと、わたくしにはとてもできませんわ。ですが、敗北にも意味はあるのではなくて? あくまで一般論ですけれど。たとえ相手の実力すら引き出せないほどの大敗であっても、気持ちの整理はつくのではなくて? あくまで一般論ですけれど。うふふふ」
「……そうかよ」
グライが肩を落とし、杖剣を鞘に収めた。
「やめだ、セイカ」
ぼくは思わず目をしばたたかせる。
なんだ……? 立場が立場だろうけど、あのグライが、あれほど素直に言うことを聞いた理由がわからない。
「それとな。怒ってるならもっと普通に言えよ」
「まあ。では、怒っています」
「……」
「……」
「……なんでだよ」
「わたくしの聖騎士が、勝手に決闘するなど許しませんわ」
「まだなってねぇだろうが」
「先の定めならば同じこと。それはそれとして、はやくお客人にわたくしを紹介なさい。いいかげん待ちくたびれてしまいましたわ。この場での定めを、はやく済ませてしまいたいのです」
「おれも挨拶がまだなんだが……はぁ、わかったよ」
グライが少女へと歩み寄り、ぼくらに向かい、その姿を手で示す。
「あー、こちらにあらせられるは、フィオナ・ウルド・エールグライフ――――」
実際のところ、ぼくはその少女の正体に見当がついていた。
この場にいる高貴な身分の少女など、ルフトからの手紙にあった彼女以外にあり得ない。
「――――皇女殿下だ」
 






