第二十二話 最強の陰陽師、むたび山へ向かう
窓から差し込む朝日に、目を覚ます。
翌朝は、昨夜に比べいっそう冷え込んでいた。
体を起こし、無言のまま着替える。
そして部屋を出ようと、扉を開けた時だった。
「わっ!」
扉のすぐ前にいたイーファと、ぶつかりそうになった。
わずかに驚いて、ぼくは訊ねる。
「イーファ? どうしたんだ、そんな慌てて」
「セ、セイカくん、大変なの!」
焦ったように、イーファは言う。
「メローザさんが!」
****
イーファに連れられ正殿へ向かうと、そこにはアミュとメイベルの姿もあった。
二人とも、長椅子の上に横たわっている人影を、心配そうに覗き込んでいる。
「……まさか」
ぼくはその人影に近づく。
それは、メローザだった。
長椅子の上で、穏やかな表情で目を閉じるその姿は、まるで眠っているかのようだ。
「今朝起きたら……外に倒れてたのよ。たぶん、井戸に水を汲みに行ってたんだと思うんだけど……」
アミュが、メローザに視線を落としたまま言う。
「これって、もしかして……異変の影響?」
「……おそらく、そうだ」
神殿に張っている結界も、外にはおよばない。
生活していれば、霧に身をさらさなければならない場面もある。
だがそれでも、普通に暮らしているよりも影響は大きく抑えられるはずだったのだが……。
「防ぎきれなかったか……」
それは、予想していたことではあった。
夢に囚われる者の条件は、すでにわかっている。
取り戻したい、過去のある者。
ぼくらの来訪は……メローザに、余計なことを思い出させてしまったのだろう。
まだ鮮やかに色づいていた、亡き夫との日々を。
「セイカ」
メイベルが、顔を上げて言う。
「治せる? メローザのこと」
「そ、そうよ。まだ眠ったばかりだろうし……あんたなら、なんとかならない?」
アミュもまた、切実な表情で問いかけてくる。
ぼくは……わずかに間を置いて、心に浮かんだ思いをそのまま答えようとした。
「いや……彼女は、このまま……」
だが言い終える前に、自らの意志で口を閉ざした。
彼女らと目を合わせないまま、ぼくは問いかける。
「……彼女を、頼んでもいいか?」
「うん。任せて、セイカくん」
そう言ってはっきりとうなずいたのは、イーファだった。
聞いたぼくは、小さな笑みとともに踵を返す。
「じゃあ、行ってくる」
「行くって……どこへ?」
困惑気味に訊ねてくるアミュに、ぼくは振り返ることなく答える。
「あの山だ」
今はそこ以外に、向かうべき場所などない。
「この異変を、鎮めてくるよ」
****
山頂へ向かうはずの道は、すでに崖のようになっていた。
地面ではなく、空中のヒトガタを踏みながら、ぼくは霧に陰る暗闇の底へと降りていく。
この場所に、もはや陽光はほとんど届いていない。
まるで宵闇の中を進んでいるかのようだ。
「あのまま眠り続ける方が、彼女にとっては幸せなのだろうと思う」
山頂へ落ちていきながら、ぼくは呟く。
「空虚な余生をあと百年過ごすよりも……異変が自然に収まるまでの数十年、かつて過ごした幸せな日々の記憶を夢に見続ける方が、ずっと」
妻の蘇生が叶わないと知った頃のぼくが、仮に同じ選択肢を提示されていれば……目覚めることなど、願わなかったかもしれない。
ユキが、静かに問うてくる。
「ならばセイカさまは……なにゆえ今、異変を鎮めようとなさるのでございますか」
「それでもぼくは、生きることを選んだからだ」
ぼくは、はっきりとそう言う。
「もちろん彼女とは状況が違う。だが一度生きる選択をしたぼくが、彼女の幸せを勝手に推し量り、決めることなど許されないだろう」
絶望の後にも、様々な者たちの存在によって、ぼくは救われてきた。
姉を亡くした後は、親切な兄弟子に。
兄弟子を亡くした後は、妻との出会いに。
妻と死別した後には、旅の途中で出会った様々な者たちに。
妻の蘇生が叶わないと知った後には、弟子や友人たちの存在に。
過去を見せられ、今さらのように気づかされた。絶望と絶望の間の、ほんの一時のことだったかもしれないが……ぼくは確かに、幸せな日々を過ごしていたのだ。
メローザにも、そんな可能性がある。
それを、ぼくが否定することなどできない。
「ならば、お行きくださいませ」
ユキが、そう言い切った。
「お心のままになさいませ、セイカさま。その結果にきっと間違いはないと、ユキは思います」
「……ああ」
わずかに笑って、ぼくはうなずいた。
その間にも、落ちていく。重力による奈落の、その最深部にして、この山の頂上にまで。
「さあ、巫国の女王よ」
先の暗闇を見据えながら、ぼくは呟く。
「其の方は最後に、どのような選択をした」
国の滅びに殉じたのか。
それとも――――。
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眼下では、国が燃えていた。
長大な城壁に囲まれた巫都。その各所から、火の手が上がっている。
魔族の混合軍による包囲の末に、巫都は陥落した。
巫国は、滅亡の時を迎えたのだ。
『……ああ』
ぼくはその光景を、山の上から為す術なく見下ろしていた。
巫都には、王族が逃げるための隠し通路が存在する。
ぼくはそれを使い、滅びゆく国からの脱出を果たしていた。
『御上。行きましょう』
背後から、従者の女性の声がかかる。
今やぼくに付き従っているのは、少数の従者のみだった。
『そうだな。行こう』
踵を返し、ぼくは再び山を登り始めた。
だがほどなくしてまた足を止めると、魔族に蹂躙される巫都を、視界に捉える。
『……案外、心動かぬものだ』
響く声は、虚ろだった。
山頂へ続く道へと向き直る。疲労の溜まる足を、一歩踏み出す。
『国を滅ぼした巫王として、吾の名は歴史書にすら刻まれず、巫国とともに消えゆくだろう。だが……』
ふと、視界が一瞬、霧に陰った。
奥歯を噛みしめて呟く。
『……吾の使命は、まだ終わっていない』
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場面が変わる。
眼下に広がる雄大な光景に、ぼくはわずかに驚く。
そこはどうやら――――この山の、山頂であるようだった。
『×××が死んだ』
唐突に、ぼくは呟いた。
『すでに備蓄の食糧は尽きた。×××の体力では、耐えられなかったのだろう』
視界は、微かに霧がかっている。
『×××の死体は、吾の魔力源とした』
女王の声に、抑揚はない。
『順調だ』
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場面が変わる。
場所は同じだ。この山の山頂。
だが眼下の景色には、うっすらとだが雪化粧がなされていた。
あれから、それなりの日数が経過したようだった。
『××××が死んだ』
ぼくは虚ろに呟く。
『狩りに出ていた中、馬足どもの追っ手に討たれたようだ。あやつがいなければもう、禽獣の肉を得ることは叶わんだろう』
視界の霧は、さらに濃くなっている。
『×××の死体と、馬足ども二頭の死骸は、吾の魔力源とした』
抑揚の失われた声で、ぼくは呟く。
『順調だ』
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場面が変わる。
場所はまた同じだが、雪化粧は濃くなっていた。
『××が死んだ』
淡々と呟く。
『この寒さに耐えられなかったのだろう。これで、吾の従者は皆死に絶えてしまった』
一人変わらない声で、女王は呟き続ける。
『××の死体は無論、吾の魔力源とした。また予想どおり、吾の存在に引き寄せられるようにモンスターどもが集まり始めた。今後は、あれらを魔力源としていこう』
そう言って、ぼくは空を見上げた。
上空にはワイバーンらしき影が飛行していたが……その視界は白く煙っており、見えづらい。
山頂に、広い範囲で霧が立ちこめているようだった。
ぼくは呟く。
『順調だ』
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場面が変わる。
目の前には――――巨大なドラゴンが横たわっていた。
『予想外だった。まさか、これほどのモンスターが引き寄せられてくるとは』
ドラゴンは微動だにしない。
すでに死んでいるようだった。
わずかに抑揚のついた声で、ぼくは呟く。
『だが……これで成る』
ドラゴンの死骸に向け、手を伸ばす。
その手を見て、ぼくは驚いた。
いつか見た、細い中年女の手ではない。
それどころか、もはや人間の手ですらなく――――白い靄の、塊のようなものに変わっていた。
輪郭こそ薄らと手の形をとってはいるものの、その境界は曖昧で、周囲に霧のようなものを常に漂わせている。
辺りに立ちこめている霧は……女王自身が、生み出したものであるようだった。
ぼくは霧の手で、ドラゴンの死骸に触れる。
厳めしい鱗が、端から白い砂に変わっていく。同時に魔力が引き出され、女王の体に流れ込む。
やがて、死骸に残った魔力を余すことなく取り込み終えた時……ドラゴンの巨体は、そのすべてが純白の砂山へと変わってしまっていた。
『……秘術は、成った』
長い長い沈黙の果てに、ぼくは呟いた。
その声には、まるで引き返せないところまで来てしまったかのような情感がこもっていた。
虚ろな笑声が口から漏れる。
『ふ、ふふ……これでもはや、吾の肉体が滅びることはない』
目の前に掲げた手を、何度か返す。
霧の手は、その度に周囲を白く煙らせていた。
ぼくには……この秘術の正体が、女王の体に起こった決定的な変質が、理解できた。
自らの肉体を、魔術的に作り出された不滅の物質に、徐々に置き換えていく。
そうして同一性を維持したまま、自身を決して老いることのない存在へと作り替える。
巫国の女王が行ったのは――――前世の西洋において理論上可能と唱えられていた、仙人化の術に近しいものだった。
ぼくは振り返る。
白く煙る景色の中に遠く、かつての巫都が見えた。
それは……遠目でもわかるほどに、朽ち果てていた。
どのくらいの年月が経ったのだろう。長大だった城壁はそのほとんどが崩れ、街の各所から伸び上がった巨木が、廃都を緑に飲み込まんとしている。
『××××』
その時ぼくが呼んだ名は、あの英雄たる少年のものだった。
『許せとは言わん。おまえに継ぐべき祖国を、残してやれなかったばかりか……途方もない使命を背負わせ、吾よりも先に、旅立たせてしまった』
国の復讐を担わせ、犠牲とした少年に詫びる声にはしかし、確かな決意がこもっている。
『これは吾の、せめてもの償いだ。おまえを……決して一人にはさせん』
女王が、霧の手を掲げた。
魔力が渦巻き始める。
『吾はこの不死の体をもって、世界が滅びるその時まで生きるとしよう。そして……たとえ、面影すら残さない体となっても、記憶をすべて、失ってしまっていたとしても――――』
一瞬言葉を詰まらせ、ぼくは言う。
『――――この愚かな母は、何度でも何度でも、この地でおまえを迎えよう。されば、よく帰ったと……そう声をかけることだけは、許してほしい』
女王の記憶を追体験するぼくは、心の中で思う。
そうか。
この者も、母親だったんだな――――。
白砂の山が、魔力とともに渦を巻き始める。
周囲にあった岩が、木々が、白い砂に分解され、渦を巻き、凝縮していく。
霧がいっそう濃くなる。
『おまえの生まれ変わる、その時、まで……』
ぼくの声に、奇妙な響きが混じり出す。
『吾は時を遅らせ、眠るト、しよう。永遠を前に……この心が、壊れヌ、ように』
砂が凝縮する一点を中心に、空間が歪み始める。
周りに見える景色が、歪にひしゃげていく。あらゆるものが青みがかっていき、やがて紫に変わり、最後にはすべてが黒く染まる。
やがて霧すらも視認できなくなった暗黒の空間で、ぼくの声が……いや、女王の声が響いた。
『愛しテ、いる、××……――』
息子の名を呼び終える前に、声が途切れる。
暗闇の中で静寂が満ちた。
どれだけ待っても、何も起こらない。
女王の記憶は、ここで途絶えたようだった。
――――許、サン
その時、思考の中に、別の何者かの思考が入り交じった。
――――吾、ヲ、害スル、者ハ
――――勇ナル、者ノ、道ヲ阻ム、者ハ
暗黒の空間に、光が生まれる。
――――夢ニ囚ワレ、朽チ果テヨ
そして、
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そこは、見覚えのある川のほとりだった。
秋であるのか、肌を撫でる風は涼しく、木々は赤や黄に色づいている。
よく晴れた高い空の下、ぼくは誰かに抱きかかえられているようだった。
『――――』
ぼくは口を開く。
発したのは意味を持たない、乳飲み子の喃語だった。
『あら、もう起きちゃったの?』
ぼくを抱える誰かが、こちらを覗き込む。
知らない人物だった。
まだ若い女性。あまり裕福な身分ではないのか、くたびれた小袖を着ている。その顔には、優しげな微笑が浮かんでいた。
女性の手が、ぼくを穏やかに揺らす。
『おまえはお姉ちゃんと違って手のかかる子だね。×××』
女性は、ハルヨシになる前の、ぼくの名を呼んだ。
その顔立ちはどことなく……姉やぼくに重なる部分がある。
首元には、白翡翠の勾玉が揺れていた。
ようやく、気づく。
『おかあさーん!』
『はいはい、あんまり遠くに行っちゃだめよ』
どこか聞き覚えのある女童の声に答えるように、女性が顔を上げて言った。
その様子を腕の中で眺めながら……そうだったのかと、ぼくは内心で呟く。
こんな記憶、ぼくの中には残っていないと思っていた。だが、違ったのだ。
ぼくの魂は――――母を、忘れてはいなかった。
『おまえはきっと、特別な子だよ』
ぼくをじっと見つめながら、母が言う。
『わたしよりも、あの子よりも……都のどんな貴族よりも、優れた呪い師になれる才を持って生まれた。でも』
微笑とともに、母はぼくの体を楽しげに揺らす。
『そんなものに、ならなくたっていい。健やかに育って、幸せに生きてくれれば、母は満足だよ』
夢に囚われよと、女王は言った。
この山を訪れ、帰らなかった者はおそらく……このようにして解呪すら叶わない記憶の夢に囚われ、目覚めることなく朽ちていったのだろう。
ぼくも願わくば、そうしたかった。
この人がいつ、どのように死んだのかはわからない。だがせめて別れの時までは、こうして共に過ごしていたかった。
しかし、それはできない。
現実に生きることを、ぼくはすでに決めていたから。
さようなら。ぼくは心の中で、名も知らぬ母に告げる。
きっともう、忘れることはないだろう。
その時――――あらかじめ刻まれていた式に従い、一枚のヒトガタが、位相の扉を開いた。
《召命――――貘》
夢の世界に、亀裂が入った。
秋晴れの空を、どこからともなく現れた巨大な一匹の妖が、悠然と泳いでいく。
長い鼻を持った、象にも似た頭。長大な体の下部には鯨に似た無数の鰭がはためき、背には小さな翼を一対生やしている。
貘が泳ぎ、口を動かすたび、周囲の景色に亀裂が入り、崩壊していく。まるで、世界そのものを喰らっているかのように。
いや、まさしくそのとおりのことが起こっているのだ。
貘は――――人の夢を喰う妖だから。
崩れていく。
秋晴れの空も、紅葉の美しい木々も、川のせせらぎも、遠く聞こえる幼い姉の声も、目の前の母も、ぼく自身さえも。
そして――――、
▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▞▖
「……っ!」
ぼくは目を覚ました。
そこは、暗黒の空間だった。女王の記憶が最後に見せた、あの場所だ。
足は地面についていない。時空の歪みのために相当な重力が発生しているはずだが、まるで宙に浮いているかのようだった。
「セイカさまっ、目を覚まされましたか!?」
髪の毛にしがみついたユキが、はっとしたように言った。
「ああ。生憎な」
「またご冗談をっ」
「どうやら、目的地まで落ちてきてしまったようだな」
山頂にして、霧の発生源。
この場所が、異変の中心なのだ。
「それで……奴こそが、この異変を引き起こしていた張本人だったわけか」
ぼくは、目の前の存在に注意を向ける。
そこにいたのは――――白い怪物だった。
モンスターでも、霊の類でもない。白い靄の塊が、かろうじて巨大な人の形をとっているだけの、異様な存在。
その輪郭は曖昧で、揺らめく白い靄は、常に周囲に霧を生み出し続けている。
頭の中では、絶えず不気味な思念が響いていた。
――――朽チ、ヨ
――――疾ク、朽チ果テルガ、イイ
「あ、あれはいったい、なんなのでございますか……」
気圧されたかのように呟くユキに、ぼくは答える。
「かつてこの地に存在した、人間の国を統べていた女王……そのなれの果てだ」
「まさかあれが、人間なのでございますか!?」
「いいや」
ぼくは首を横に振る。
「あれはもう人間じゃない。人間らしい心は、とうに失われているだろう」
その原因にも、察しが付いた。
失敗していたのだ――――仙人化の秘術に。
おそらく、脳をあの靄に置換した際、魂の一部が壊れてしまったのだろう。
不老を実現する方法はいくつもある。だがいずれの方法にも、相応の危険が伴う。
女王が用いた秘術は、前世の西洋でも唱えられていた確実性の高い方法ではあったようだが……それでも、完璧なものではなかったのだ。
「もうほとんど、自然現象に近しい存在と化してしまっているようだ……勇者の誕生に反応し、自らの権能である霧を発生させる、ただそれだけの存在に」
異変の影響が増していたのも、アミュがこの地を訪れていたからに違いなかった。
もっとも……今の女王がそれを、意識下で理解できているとは思えないが。
ユキが愕然と言う。
「なぜ……そうまでして、生きながらえようと……」
「……あれは」
ぼくは、わずかに間を置いて言う。
「最初の勇者の、母親なんだ」
「え……?」
ユキが戸惑いの声を上げた、その時。
――――吾ノ愛シキ、勇ナル者、ノ
――――邪魔ハ、サセン
白い靄が、爆発的に膨れ上がった。
スライムのごとく不気味に蠢きながら、やがて巨大な、一つの姿を形作る。
それは――――白い、亡霊のような靄のドラゴンだった。
「……容易い相手ではなさそうだな」
あの白い靄は、巫王の秘術で生み出され、数千年もの間女王を生かし続けていた不滅の物質なのだ。
熱や衝撃といった単純な物理攻撃は、そもそも受け付けない可能性すらある。
力の流れからもわかる。目の前の相手は、間違いなくこの異世界で出会った最大の脅威だろう。
――――死ネ
ドラゴンの顎が、がばりと首まで開かれた。
大きく広げられた翼は無数の触手の群れに変わり、怖気を生むような動きでぼくへと殺到する。
間近に迫る、もはやドラゴンとは到底呼べない異形の脅威を前に……ぼくは静かに呟く。
「……悪く思うな」
一枚のヒトガタを、目の前に浮かべる。
「其の方にしてやれるのは、もうこれくらいしかない」
そして、小さく印を組んだ。
《陽の相――――黒大濤の術》
不可視の波濤が、ヒトガタから迸った。
それは、歪んだ時空をさらに歪めながら進み、不滅のドラゴンを飲み込む。
触手が歪み、弾けて散った。
大顎がひしゃげ、四散する。
まるで存在する空間ごとねじ曲げているかのごとく、不可視の波濤は靄のドラゴンを思うまま蹂躙し、千々に破壊していく。
重力は、その強弱によって波を形成することがある。
重力の波に飲み込まれた物体は、場所ごとに異なる強さの重力を受ける。それはいかなる防御をもってしても防ぐことはできず、物体を内側から引き延ばし、あるいは押し潰し、完膚なきまでに破壊してしまう。
それは時に、星すらも砕く力だった。
肉体を置換しているのなら、あの靄も一定の秩序だった構造をとっていることだろう。
そして女王自身も、この時空の歪みによる影響は受けている様子だった。
この空間に確かに存在し、壊せる構造があるのならば……重力による破壊から逃れることはできない。
――――……――死ネ
――……――――朽チ……果テヨ
掠れた思念が、頭の中に響く。
かろうじて破壊を耐え、大幅に小さくなった靄の塊が、人型に戻って宙を漂っている。
ぼくは、ヒトガタの群れを放った。
それは靄の周囲で陣を形作り、その動きを封じ込める。
「其の方を封じはしない」
ぼくは巫国の女王のなれの果てへ、静かに語りかける。
「其の方の子の転生体は、今生では魔族との殺し合いから距離を置き、穏やかに暮らしている……其の方はその様を、浄土から見守るといい」
陣から逃れようと、人型の靄が蠢く。
ぼくは、声に呪力を込める。
「ओं अमोघ वैरोचन――――」
それは、祓魔の真言だった。
唱え始めると同時に、女王のなれの果てが激しく蠢く。
苦痛をこらえるがごとく、陣の中心で靄が様々に形を変える。そのたびに、霧が散った。
「――――महामुद्रा मणि पद्म ज्वाल प्रवर्त्तय ――――」
ぼくは、真言にいっそう呪力を込める。
靄は端から、徐々に薄れ、消え始めた。
「――――हूं」
やがて……詠唱を終えると、ぼくは陣を解いた。
女王だった靄はまだ完全には消え去っていなかったが、もうわずかにも動かなかった。
残った靄が、見る間に小さくなっていく。
構成する不滅の物質が、元の魔力に還っているのだろう。
微かな思念の残骸が、ぼくの思考に入り込む。
――……――勇ナル、者ヨ
――――……吾ノ、愛シキ息子ヨ
ぼくは、ただそれを聴く。
――……――愚カナ母ヲ
……――――許シテ、ホシイ
暗黒の空間の中で、靄の残骸が……巫国の女王のなれの果てが、静かに消え去った。
次の瞬間――――ぼくは、山頂に立っていた。
眼下には、青々とした山の景色が広がっている。
空は雲一つなく澄み渡り、鳥が舞っている。遠くを見晴らすと、かつて巫国の王都があった場所に、森人と矮人の里が見えた。
「終わった……のでございますか?」
「……ああ。異変は解決だ」
恐る恐る頭の上から顔を出したユキに、ぼくは答える。
それから、振り返った。
山の頂であるはずなのに、ここには樹木どころか草も、岩すらもない。
ただ一面、白い砂で覆われている。
「感謝する、巫国の女王よ」
小さく呟き、ぼくは目を伏せた。
「其の方のおかげで……少し、理解できた気がするよ」
※黒大濤の術
重力波による潮汐力で物体を破壊する術。重力場の偏りによって物体を変形させる潮汐力は、主に天体に働く現象ではあるもの、波長が極端に短く、かつ強力な重力波であれば、人体サイズの物体にもその影響をおよぼしうる。重力波は空間そのものを伝わるため、あらゆる防壁をすりぬけ、対象を内部から歪めて破壊できる。





