第二十一話 最強の陰陽師、目の当たりにする
その日の夜。
ぼくはあてがわれた部屋で椅子に座りながら、ヒトガタを宙に浮かべ、式の最終的な調整を行っていた。
「……やはりまた、あの山に向かわれるのでございますか?」
頭の上からユキが顔を出し、やや抑えたような口調で訊いてきた。
「あそこから先に進むのは……あまり、よろしくないように思えるのですが」
「そうだな」
ぼくは、手を止めることなく答える。
「あそこから先は、時空間の異常がさらにひどくなるだろう。位相に耐えられる妖ならば問題ないだろうが、尋常な人の身では存在を保てるかどうかすら怪しい」
重力の影響だけで、相当なものになってもおかしくなかった。
ただ、とぼくは付け加える。
「まあ、それくらいはどうにでもなる」
「少々過酷な異界にいる程度のことで、セイカさまがどうにかなるとはユキも思っておりません。しかしながら……夢の方は、本当に問題ございませんか?」
ユキが不安げに問いかけてくる。
「異変の力をあえて受けられていることは存じております。ですがそれでもユキの目には、セイカさまへの影響が甚大になってきているように映りました。あの山の最奥で夢に囚われ……果たして無事に、目覚めることはできるのでございましょうか」
「……そうだな」
ぼくは、今度は手を止めて答えた。
「お前の言うとおりだ。解呪のヒトガタにかかる負荷が、山頂へ近づくほどに減ってきている。異変の力が弱まっているのではなく……あの幻術めいた夢が、だんだんと普通の夢に近づいてきているんだ」
ぼくは続ける。
「面白い呪いだよ。これが完全に同一となってしまえば、解呪では夢から醒めることができなくなる。この地で眠り続ける者と、同じ状態となってしまうだろうな」
「……ならばこの先は、もう影響を受けることはおやめになるのでございますか?」
「いや、続ける」
ぼくはきっぱりと言う。
「夢は最後まで見るつもりだ。そうでなければ、かつてこの地で起こった出来事の顛末がわからないからな」
「しかし、それでは……」
「無論、対策は考えてある」
ぼくは、宙に浮かべたヒトガタの中の、一枚を掴み取った。
それは解放条件となる式が付された、扉のヒトガタだった。
「幻術ではなく、夢だからとれる対処法もある」
「……なぜ、そこまでされるのでございますか」
ユキが、どこかいぶかしげな調子で言う。
「そもそも、異変の原因や経緯を、わざわざ探る必要などないではございませんか。セイカさまならば……ここにいたまま、山を丸ごと解呪することもできましょう。それだけで、異変は鎮められるはずでございます」
「……」
実のところ、ユキの言うとおりだった。
かなり乱暴な方法にはなるものの、その気になればここへ来たその日のうちに、異変の影響をすべて消し去ることもできた。
ユキは続けて言う。
「異変の原因については、すでにある程度判明したのでございますよね? ならばいい加減、鎮めにかかった方がよろしいのではございませんか? この里におよぶ影響も増してきているようでございますし」
「……たしかに、そうとも言える」
ぼくは小さく息を吐き、椅子の背もたれに身を預けながら答える。
「お前の言うとおり、この異変の原因には予想がついてきたことだしな」
かつてこの地に存在した亡国の英雄、勇なる者と呼ばれていた少年は、国の滅亡に際し、転生の秘儀なる秘術で後の世に送られることとなった。
魔族を滅ぼすという使命を帯びて。
もしあれが実際にあったことであり、秘儀が成功していたならば……人類史にたびたび現れる勇者こそが、勇なる者の転生体である可能性が高い。
記憶は受け継がずに、そのたぐいまれな天分と魂のみを受け継ぐという点がまさしく合致している。使命を果たさない限り、何度も転生が繰り返される点もそうだ。
対立する魔王の方はなんなのか不明であるものの、それらの符合が偶然とは思えなかった。
異変は……おそらく、秘儀の余波のようなものなのではないだろうか。
あれがどういった仕組みの呪いなのかは、ぼくでも想像がつかない。だがあれほど途方もない規模の秘術であれば、何らかの現象が付随して起こってもおかしくない。
いずれにせよ、その原因が山頂にあるのであれば、解呪してしまえば片が付く。
原因の正体は、解呪後に山を登って安全に確かめることもできるだろう。
だが、ぼくは言う。
「それでも……最後まで確かめたいんだ。あの国が、それを統べる女王が、どんな末路をたどったのかを」
「……なぜでございますか?」
「どうにも気になるんだよ。そうとしか言えない」
うまく説明できなかった。
異変の影響が増してきている以上、早く解決すべきなのはわかっている。だがどうしても、そんな気にはなれなかった。
あの記憶の持ち主である女王が、その後どうなったのか知りたい。
そこまで執着する理由は、自分でもよくわからなかった。
ぼくは誤魔化すように言う。
「それに、強引な解呪などしないに越したことはない。ぼくらが去ってから、万が一再発でもしてみろ。ここの者たちはまた同じように困ることになるぞ。きちんと原因を確かめたうえで、丁寧に祓ってやる方が絶対にいいんだ」
言いながら、ぼくは立ち上がった。
ユキが訊ねてくる。
「おや、どちらへ?」
「喉が渇いた。少し水を飲みに行ってくる」
****
神殿の廊下は、暗かった。
すでに皆寝静まっているような時分なので、当たり前だ。
灯りのヒトガタを浮かべながら進む。
井戸へ向かうまでもなく、調理場に汲み置きの水があったはずだ。
そして、廊下の角を曲がった時……調理場のある一室から、光が漏れている様子が見えた。
誰かいるのかと思い、近づいてみる。
扉の隙間から顔を覗かせる寸前……ぼくは動きを止めた。
部屋の中から、小さくすすり泣く声が聞こえてきたからだ。
「……あれ? 誰かいるの……? セイカ?」
部屋から響いてきたのは、メローザの声だった。
とっさに答えられず黙っていると、続けて声が響く。
「セイカだよね? どうしたの?」
「……その、すみません」
沈黙し続けることもできず、扉を開けて顔を覗かせた。
食卓に一人、メローザが座っていた。
傍らには灯りを乗せ、その手には何か首飾りのようなものを握っている。
ぼくは言い訳のように続ける。
「喉が渇いたので、水をいただくつもりで……」
「あ、そうだったんだね。待ってて」
メローザは軽く目元を拭うと、水の入った甕に向かい、柄杓で木杯に一杯掬った。
それを、ぼくのもとに持ってくる。
「はい。どうぞ」
笑顔で木杯を差し出すメローザの目元は、少し赤くなっているようだった。
気後れしつつもそれを受け取る。
「あ、ありがとうございます……」
「足りなかったら言ってね。もっと持ってくるから」
笑顔で言うメローザ。
その時ふと、彼女が手に持ったままの首飾りが目に入った。
いや、それはただの首飾りではなく……、
「……認定票?」
思わずつぶやく。
真鍮の金色をしたそれは、冒険者の認定票のようだった。
メローザはわずかに目をしばたたかせると、微笑を浮かべて言う。
「うん。そうだよ……これ、ギルの形見なんだ」
言いながら、メローザは認定票をぼくの前に掲げる。
真鍮の小さな板には、ギルベルトの文字と、三という数字が刻印されていた。
認定票を手にしたまま、彼女は食卓の椅子に腰掛ける。
「わたしたちの家には、思い出の物がたくさんあったんだけどね……今じゃもう、こんなのしかなくなっちゃった」
ぼくは、返す言葉が見つからなかった。
メローザはまるで独り言のように、静かに続ける。
「ほんとうはね、今日、ギルの誕生日でもあったんだ」
「え……」
「すごい偶然でしょ? わたしの場合、誕生日は生まれた日じゃなくて拾われた日なんだけど、それでも同じになるなんて普通ないよね。わたしもギルも、わかった時はびっくりしてたっけ」
そう言って、メローザは笑う。
「神魔には、誕生日を祝う習慣って実はあんまりないの。力のある家の子供くらいなんじゃないかな。だからわたしにとって、誕生日はずっとなんでもない日だったんだけど……でもギルが、せっかくだから二人の特別な日にしようって言ってくれてさ。毎年この日は、少しだけ豪華な食事にして、テーブルも飾り付けて、お互いに贈り物をすることにしてたんだ。今日みたいなのは久しぶりだったから……懐かしくなっちゃった」
「そうだったん、ですか……」
「……覚悟は、してたつもりだったんだけどなぁ」
呟くように言って、メローザは手の認定票をじっと見つめる。
「わたし、神魔にしてはすごく早くに結婚したんだけど……それはなるべく、ギルとの時間を長く過ごしたかったからなんだ。ギルは人間だから、どうしたってわたしより早く死んじゃう。それは、わかってたことだったんだけど、でも……」
メローザの声が潤む。
「まさか、こんなに早くお別れするなんて、思わなかったなぁ……」
目元を拭って、彼女は言う。
「セイカ……神魔の寿命って、知ってる?」
「……だいたい、人間の倍ほどの時を生きると、聞きました」
「うん。大きな病気をしなければ、百四十歳くらいまでは生きられるの。だから……まだわたしは、百年も生きることになる。一人で、百年も。その頃には、きっとセイカも死んじゃってる。ほんと……なんで、神魔になんて生まれたんだろ。わたしも……人間に生まれてれば、よかったのに……」
メローザは、認定票をぎゅっと握りしめ、目を閉じて呟く。
「寂しいよ、ギル……」
傍らで立ち尽くすぼくは、思う。
この人は――――かつて妻を亡くしたぼくと、同じような思いを抱えていたのだ。
あの頃のぼくには、まだ希望があった。呪いの神髄を究めれば、妻を蘇らせられるのではないかという希望が。
それが潰えた後も、弟子たちの存在が、ぼくに生きる意味を与えてくれた。
しかし……彼女には何もない。
掛ける者のいなくなった認定票に、縋り付くことしかできないほどに。
それは――――どれほど空虚な、余生なのだろうか。





