第十八話 最強の陰陽師、いつたび山へ向かう 前
さらに翌日。
ぼくはまた、山を登っていた。
結局、集落に住む者たちから手がかりを得ることはできなかった。
ならばまた、あの記憶を追体験するしかない。
「……セイカさま」
その時おもむろに、ユキが口を開く。
「ほんとうなのでございますか? かつてこの地に、人間の国があったというのは」
「ああ」
ぼくはうなずく。
「夢で見た山の稜線に見覚えがあった。あれは間違いなくこの山だ。もっとも、今のように霧に覆われてはいなかったけどな。つまり、今の異変が発生する前に存在した国ということだ」
それはつまり、その国に異変の原因が存在した可能性が高いということでもある。
夢に見せられたことも、それを暗示しているように思えた。
「いつの時代のものかはわからない。ただ異変の発生前と考えると、数千年は昔だろう」
「しかし……それは所詮、夢の話でございますよね? 素直に信じてよいものでしょうか」
ユキが訝しげに言う。
「異変が見せたものならば、まやかしである可能性もございます」
「勘だが、それはない。少なくともあの国自体は存在したはずだ」
「なぜそう思われるので?」
「まやかしだとすれば芸が細かすぎる。人種や街並みばかりか、言語まで一から作り出すなど無理だ」
「しかしながら、遺跡のようなものは見つかっていないのでございますよね? セイカさまが旅した西洋には、数千年前の墳墓や石像が残っていたという話だったではございませんか」
「たしかにそうだが、それは大きなものだけだ。遺跡は土中に埋まってしまうことも多いからな」
城壁や砦などは、後の歴史で取り壊されてしまうこともある。
敵に破壊されたり、単に邪魔になったり、石材確保のために解体されたりと理由は様々だが、はるか昔に滅んだ国ならば、今その痕跡が見つからなくとも不思議はない。
「あの国は確実に、この霧の発生に関わっている。ようやく核心に近づきつつあるんだ。異変の解決も、そう遠くないだろう」
「……そうでございますか」
ユキは、どうも何か言いたげな様子だった。
ぼくは眉をひそめ、訊ねる。
「……なんだよ。まさか今さら――――」
その時。
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そこは、平原に立つ砦だった。
眼下、背丈の低い草が風になびいている。
どうやら、城壁塔の一つにぼくはいるようだった。
『……来るか』
ぼくが、女の声で呟く。
平原の先には、隊列を組んだ敵軍の影があった。
それは全軍が騎兵のようだった。
見渡す限り、すべての兵が馬に騎乗している。
わずかに驚く。あれだけの騎兵を用意できるとは、この国の戦争相手は相当に力のある国らしい。
敵軍は、動きを見せていた。
隊列を崩し、まるで潰走しているかのように散兵となって砦に突撃してくる。
城壁から、迎撃の矢が射かけられる。
だがあまり有効ではなかった。散兵相手には、矢も当てづらい。
敵軍は砦の間近にまで寄ると、走りながら城壁の上の兵に向けて矢を射かけてくる。
かなり練度の高い弓騎兵のようで、数人が射貫かれていた。
『馬足どもが……!』
敵軍を見下ろすぼくの口から、忌々しげな女の声が漏れる。
その時、ぼくは気づいた。
敵は……騎兵ではなかった。
人間が馬に乗っているのではない。馬の胴体、その首にあたる位置から、人間の上半身が生えている。
それは文献でしか知ることのなかった、人馬という魔族だった。
思わず驚愕する。
人馬は、魔族領でも目にしたことがなかった。
それもそのはず。人馬は、とうに絶滅した魔族だと言われているからだ。
それも――――数千年も昔に。
その時、後方で隊列を維持していた人馬軍に動きがあった。
なにやら、大型の兵器を持ち出している。
それは車輪と無数の持ち手が付いた、巨大な丸太のような兵器だった。
左右の持ち手を、大勢の人馬が引いている。相当に重いのか、動きは鈍重だ。
その役割を、ぼくは一目見て察する。
周囲の兵たちの間にも、怒号が飛んでいた。
『破城鎚が来たぞ! 引き手を狙え!』
同時に、丸太が走り出した。
初めこそ緩やかだったが、次第に勢いが付き、やがて凄まじい速度になっていく。
城壁からの矢は、丸太を引く人馬にほとんど当たらない。
下の弓兵から邪魔されているのもあるが、単純に速すぎ、狙いがつけられないのだ。
まともに妨害することも叶わないまま――――破城鎚が、砦の城門にぶち当たった。
『っ!!』
轟音と衝撃が、砦全体を包み込む。
ここからでは城門の様子は見えないが、さすがにまだ破られてはいないだろう。
しかし、そう長く持ちこたえられるとも思えなかった。
人馬はその身体構造の都合上、梯子を登ることもできなければ隧道も掘りにくい。必然的に、攻城戦となれば城門を破るしか選択肢がなくなる。
だが、そんなことは問題にならないようだった。
馬体の筋肉による力と、蹄の加速は凄まじく、人間とは桁違いの威力で破城鎚を扱える。
この規模の砦の城門では、耐えてあと二、三回といったところだろう。
破城鎚が引き戻されていく。
城壁から矢が射かけられるも、引き手は周囲の兵によって盾で守られる。このままでは再度の突撃を喰らうだろう。
『……ここだ』
ぼくが小さく呟いた、その時だった。
平原を挟む二つの森から突如、人間の騎兵隊が現れた。
眼下の人馬たちの動きが、動揺に乱れる。
どうやら人間側が、部隊を伏せていたようだった。
数としては人馬軍に大きく劣るものの、馬も含めて重武装しており、また敵が散兵となっていたこともあって、その長大な馬上槍で人馬弓兵たちを蹂躙していく。
『よし! いいぞ!』
『馬足どもを殺し尽くせ!』
城壁の上でも歓声が上がっている。
状況を見かねたのか、後方に控えていた人馬軍が動いた。隊列を保ったまま重装兵の部隊が前進し、やがて人間の騎兵隊へと突撃していく。
こちらは数に劣る以上、さすがに一度退くしかないだろう。
その時――――城壁から人影が一つ、軽やかに飛び降りた。
一瞬見えた横顔は青年、いや少年と呼べるほどの若さだ。
あわや地面に激突するかに思われた人影は、まるで猫のように柔らかく着地すると、その勢いのまま人馬の重装部隊に向かって駆けていく。
速い。
少年の足は、人馬の兵よりなお速かった。
無謀とも思える突撃。人馬の遊撃隊は、当然勢いを弱めることなく少年にぶつかっていく。
少年戦士が、その物量と体格差に飲み込まれようとした時、その手が腰の剣に触れた。
次の瞬間――――人馬軍の前列が弾け飛んだ。
『おお、我らが勇なる者だ!』
『馬足どもの遊撃隊を止めたぞ!』
『行け! 将軍の仇をとってくれぇ!』
城壁の上で再度、より大きな歓声が上がった。
勇なる者。先の夢でも聞いた呼び名だった。
どうやらあの少年が、この国の英雄らしい。
英雄たる少年戦士は剣を振るいながら、人馬の重装部隊に切り込んでいく。
その直剣が閃くたびに、人馬の巨体が飛ぶ。小柄な体格にもかかわらず、尋常ではない膂力だった。
その時、敵の一部が部隊から離れ、大きく回り込む動きを見せた。どうやら機動力を生かし、少年の背を突こうとしているようだ。
少年はそちらを一瞥したが、かまわず目の前の敵に向き直った。気づいているにもかかわらず、対処する様子がない。
そして挟み撃ちのための別働隊が、少年の背に肉薄したその時――――少年は振り返り、剣先をそちらに向けた。巨大な力の流れが巻き起こる。
次の瞬間、ドラゴンの息吹のごとき炎が、剣先から迸った。
炎に巻かれた人馬の別働隊が、大混乱に陥る。
火炎に晒された前列の兵が暴れ、潰走を始める。後方の兵たちはその勢いに押し倒され、蹄に踏みつけられ、一部はそのまま動かなくなっていた。
どうやらあの英雄は、剣だけではなく魔法も巧みのようだ。
ただ……彼の使った火属性魔法には、どこか違和感があった。
人馬の重装部隊、および散っていた弓兵たちが退却していく。
代わりに前進してきたのは、人馬軍の本隊とおぼしき一群だった。
数の有利を生かし、人間側の遊軍と少年戦士をまとめてすり潰すつもりなのか。
『今こそ、吾が行こう』
ぼくは歩み出る。
城壁の間際に立ち、人馬の一群に向け、大仰な杖を差し向ける。
『――~――~~――~―……』
ぼくの口から、不思議な旋律の呪文が紡がれ始めた。
それはこの国で話されている言語とは違う、意味すら定かでない奇妙な音の連なりだった。
不意に、風を感じた。
快晴だったはずの空には黒雲が生まれ、それは次第に渦巻き始める。戦場に影が落ちていく。
詠唱の終わりとともに、ぼくは告げた。
『――――雷よ』
次の瞬間――――空から轟雷が降った。
それは人馬軍本隊の中心に着弾。稲妻の凄まじい衝撃により、土煙とともに周囲の兵をまとめて弾き飛ばす。
直撃した地点では、バラバラになった人馬の死体が炎を上げて燃えていた。その超高熱のため、一部はすでに炭化している。
その稲妻は、見たことも聞いたこともない魔法だった。
先ほど感じた違和感に確信を持つ。
この国の人間が使う魔法は――――今広く使われている魔法とは、技術体系が根本的に異なる。
『……っ』
不意に視界が揺らぎ、ぼくは床に崩れ落ちた。
体を支えるために突いた手は細く、骨張っていて皺が目に付く。
苦労を重ねてきた、中年女の手だった。
『お、御上!』
『お気を確かに! 御上!』
『……大事ない。吾に構うな』
周囲の者を言葉で押しとどめ、ぼくは立ち上がった。
眼下を見ると、別のところからも火の手が上がっていた。
人馬軍の破城鎚だ。
どうやら城壁からの火矢によって、炎上させることに成功したらしい。
『……よし』
ぼくは小さく呟くと、声を張り上げる。
『我が巫国の戦士たちよ! 見よ、神意は我らにあり! 勇なる者に続き、馬足どもに獣の末路を教えてやれい!!』
兵たちの間から、鬨の声が上がった。
状況はこちらが優勢だ。
城攻めは守る側が圧倒的に強い。このままいけば、おそらく耐えきれるだろう。
だが。
『っ……!』
隊列が大きく乱れた人馬軍本隊のさらに後方から、二つの部隊が現れた。
ぼくは息を呑む。
まるで隠されるように配置されていたそれらの部隊は、異様な兵たちで構成されていた。
一方は、黒々とした蜘蛛の胴体から、人間の上半身が生えている。
そしてもう一方は、下半身が巨大な蛇となっていた。
両部隊共に、構成する異形の兵は一人一人が大きいため、隊列の広さの割に兵数は少ない。
だが、そんなことはなんの慰めにもならないほどの圧力が、両部隊にはあった。
ぼくは愕然と呟く。
『まさか……蜘蛛足に蛇尾どもまでもが、参戦してくるというのか……!?』
それらはいずれも人馬と同様、はるか昔に絶滅したとされる魔族――――人蜘と人蛇だった。
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場面が変わる。
ぼくたちは敗走していた。
『……っ』
馬車の中で、唇を強く噛みしめる。
あの後、城外で戦っていた人間の騎兵隊はすり潰され、潰走した。
重武装し、馬に騎乗していても、人蜘と人蛇の部隊にはまるで刃が立たなかったのだ。
人間の重装騎兵より、武装した人蜘と人蛇の方がずっと大きく、重い。
武器も、人蜘ならば強靱な第一肢に、人蛇は太い尾にも取りつけることができる。間合いの差が歴然だった。
勇なる者と呼ばれていた英雄も、さすがに退かざるをえなかった。
平原の部隊を一掃された人間側は、ほどなくして人馬軍の新たな破城鎚を四度食らい、城門を破られた。
なだれ込んでくる魔族の混合軍に、ぼくたちは砦を捨て、隠し通路から逃げるしかなかった。
『御上』
退却を指揮する将軍が、馬を馬車と併走させながら言う。
『このまま、巫都まで退きます。もうしばしのご辛抱を』
『わかっておる! そんなことよりもっ』
ぼくは怒鳴るように問い詰める。
『××××はっ……我らが勇なる者は、どこに!?』
『お呼びですか、御上』
清爽さを感じさせる声が、近くで響いた。
将軍の後方から、馬を駆る少年が姿を現す。
あの時城壁から飛び降り、人馬の遊撃隊を蹴散らした少年だった。
英雄たる少年がその精悍な顔に、清々しくもどこか力のない笑みを浮かべて言う。
『僕はここに』
『おお……無事だったか、勇なる者よ』
ぼくは、声に安堵を滲ませながら言った。
『怪我はないか?』
『ええ……恥ずかしながら』
少年が表情を歪ませる。
『申し訳ございません、御上。満足に戦果も上げられぬまま、手傷も負わぬうちに逃げ帰ってきてしまいました……。腕一本と引き換えにしてでも、あの場で蜘蛛足と蛇尾の将を討ちとるべきでしたのに……』
『何を言う』
ぼくは少年に顔を向けながら、いたわるように言った。
『おまえが無事だっただけで、十分だ』
その声音には……自国の英雄を気遣う以上の感情が、籠もっていた。
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再び、場面が変わる。
そこは、宮殿の広間のような場所だった。
玉座に座るぼくの眼前には、官僚らしき者たちが並んで床に座している。
広間には、重苦しい雰囲気が漂っていた。
『奏上いたします、御上……。先ほど、シグノル砦が陥落。また属都ネキィナも、敵の手に落ちたようです。これで、我らの支配域は……ここ巫都を除き、ほぼ完全に消滅しました』
官僚の一人が、絶望の混じる声で報告する。
『この巫都単体で、都市機能を維持することは不可能です。備蓄した食糧だけでは、一年と持ちこたえられないでしょう。さらに、籠城したところで援軍も望めません。はるか東のレクベ大国を初めとし、各国に使者は送っておりますが、今だ返答はなく……。馬足どもに包囲された場合、我々にはもう……』
『……生きる目は、残されていないということか』
結論を代わりに言うと、広間に沈黙が満ちた。
『……降伏を』
そんな中、別の官僚が声を上げる。
『降伏を、いたしましょう……御上。もはやそれしか……』
『馬鹿な。降伏してどうなると言うのだ』
髭面の官僚が、吐き捨てるように言う。
『たとえ助命されたところで、馬足どもに家畜のごとく使われるか……鬼人か獣人に売られ、やつらの餌となるのがおちだ』
『そのとおり、降伏など言語道断。これまでやつらと戦い、死んでいった同胞たちを思えば、ここで馬足どもに屈するなどありえない。御上……ここはぜひ、亡命のご決断を』
別の若い官僚が、身を乗り出しながら言う。
『ここ巫都にも、山に通ずる隠し通路があったはず。御上と民さえ無事であれば、巫国は滅びません。必ずや再興できましょう。御上と我ら、それから女子供を中心に民を選別し、精強な戦士たちを護衛として山へ逃れるのです。巫都の制圧に人員を割かなければならない馬足どもは、すぐには追ってこられないはず』
『カ、カ、カ……そうして、落ち延びると? そのようなこと、できるはずもなかろう』
その時、老いた官僚が場違いな笑声とともに言った。
落ち窪んだ目をした、その老官僚は続ける。
『まもなく、冬が来る。女子供ばかりの集団が、どのようにして冬の山を生き延びる? よしんば生き延びられたとして、その後は? どこへ落ち延び、どこで再興するというのだ。ここら一帯はもはや、魔族の支配圏と化したというに』
『っ……』
若い官僚からは、なんの反論もなかった。
代わりに髭面の官僚が問いかける。
『ならばご老公は、ここで座して死を待つほかなし……と?』
『座して待ってどうする。抗えい』
老官僚は、落ち窪んだ目をギラつかせながら言う。
『同胞を殺された恨みを、支配圏を奪われた屈辱を、晴らさでおくべきか。巫国五十万の民、皆ことごとく決死の覚悟で抗うのだ。命は失われても、魂は残る。いつの世かには必ず……魔族どもを滅ぼすことも、叶うであろう』
広間には、馬鹿馬鹿しいといった空気が漂った。
別の官僚が、老人を咎めるように言う。
『ご老公、今は神話時代の話をしているのではありません。生まれ変わりなど所詮は迷信。今ここに生きている我々が、現実にどのような選択をするかを話し合うべきです』
『無論、儂はそのつもりで話しておる』
老官僚が、当然のように言う。
『生まれ変わりも、迷信ではない……。少なくとも一人は、後の世に生まれ直すことができる』
広間がどよめいた。
困惑や呆れや期待といった感情が渦巻く中、老官僚はぼくに顔を向ける。
『奏上をお許しください。いと尊き御上にあらせられましては、ご存じのことと拝察いたしまする――――転生の秘儀について』
ぼくは、思わず目を見開いた。
記憶を覗くぼく自身も、同様に驚く。
転生は基本的に、個人の資質と運に大きく左右される現象だ。
前世で転生を、呪いという技術に再現可能な形で落とし込んだのは、まず間違いなくぼくが初めてだったのだ。
それを……この文明は、すでに為し遂げていたというのか。
『転生の秘儀、だと?』
『馬鹿な。そんなもの実在するはずがない』
『しかし、巫王の秘術であれば、あるいは……』
広間のどよめきが大きくなる。
言い合う者たちにはかまいもせず、老官僚はぼくだけを見つめて言う。
『巫王の一族に伝わる数々の秘術。その中に、確かに存在すると聞きおよんでおります。人の魂とその天分を、後の世に生まれる者に宿らせる、奇跡の秘儀が』
『……うぬは、それをどこで知った』
ぼくの静かな問いに、老官僚は目を伏せて答える。
『先の御上から、直々に。巫国が、危機に瀕した時のためにと』
『……そうか』
ぼくはあきらめたように息を吐くと、広間の官僚たちに告げる。
『事実だ』
ざわめきが広がる中、ぼくは続けて言う。
『静まれ。××××よ、うぬの言うとおり、転生の秘儀は確かに存在する。だが先の巫王から聞いたのであれば、うぬも当然知っていよう。秘儀には、莫大な魔力が必要になると』
老官僚は何も言わない。
ぼくは続ける。
『吾の魔力のみでは到底足りぬ。それを補う魔石も、この戦争で大分消費した。秘儀に必要なだけの魔力を得ることは不可能だ』
『いいえ、御上。決して不可能ではございませぬ』
老官僚は、口の端を吊り上げて言う。
『人身をもって、供犠とすればよいのです――――人の死体にも、魔力は残りますゆえ』
『……なんだと?』
『兵や民の中から、志願者を募りましょう。魔族に殺されるくらいならばと、復讐の礎となることを望む者は、きっと多いはず。そう、ほんの二百……いや百もあれば、十分に足りましょう。死体から魔力をよく抽出する秘法も、ご存じのことと拝察いたしまする。御上』
一拍置いて、広間は騒然となった。
『まさか……民を贄としようというのか!?』
『超えてはならぬ一線というものがあるだろう! 野蛮に過ぎる!』
『古の邪教ではないのだぞ!』
老官僚が騒ぎ立てる面々に向き直り、穏やかに告げる。
『皆よ、どうか落ち着いて聞いてほしい。儂はなにも、民に命を捧げよと命じるつもりはないのだ。巫国が滅亡に瀕している今この時、後の世で憎き魔族どもを滅ぼすため、その唯一の手段に殉じようという者を募るにすぎん。決して強制はしない。必要数が集まらなければ、諦めてもよかろう。だが……我々はどうすべきか、巫国に暮らす民にもその意志を問うてみるべきだと言っておるのだ。馬足どもに子を、親を、夫を殺された者がいよう。叶うならば自らの手で、憎き魔族を討ちたい者がいよう。そのような者たちが我こそはと手を上げた時、皆は今と同じように、野蛮だ邪悪だなどと罵るつもりなのか?』
広間に沈黙が満ちた。
威勢のよかった官僚たちのどこからも、答えは返ってこない。
老官僚が本心からそれを言っているかどうかはわからないが、少なくとも相当に弁が立つようだった。
『……うぬの主張はわかった』
ぼくは静かに言う。
『だが、他にも問題はある……誰を生まれ変わらせるのかということだ。どれほど供犠が集まろうと、秘儀を行えるのは一度限り。多くの犠牲を強いてまで後の世へ送るべきただ一人の人間など、いるはずもない。転生の秘儀では、記憶までは受け継がせられん。恨みと誇りを忘れ、魂と天分のみとなってもなお、後の世へ送るべき尊き人間がいったいどこにいるというのだ。先に言っておくが、秘儀を行う吾自身の転生は叶わぬぞ』
『無論、おりますとも。いと尊き御上を除き、後の世に送るべき者が、ただ一人だけ』
『……それは、いかなる者か』
老官僚は、影の滲む笑みとともに告げる。
『我らが、勇なる者にございまする』
ぼくはわずかに目を見開いた。
広間もまた、再びざわめき出す。
『……うぬよ、正気か』
ぼくは険しい声で問う。
『秘儀に供された者は……命を喪う。たとえ生まれ変われるとて、今は死ぬことになるのだ。勇なる者は、もはや我らに残った唯一の希望。それを馬足どもとの決戦前に、自ら捨てようと言うのか』
『畏れ慎んで奏上いたしまする、御上。もはや……我らに希望など、残されてはおりませぬ』
発言にそぐわない微笑を浮かべながら、老官僚は続ける。
『我らが勇なる者がいかに武勇に優れていようとも、所詮は単騎にすぎませぬ。砦の防衛も叶わぬ程度の戦力を、この期におよんで希望などと呼ぶのは、いささか賛美がすぎるかと畏れ申し上げまする』
『っ……! ならば、後の世に送っても同じことではないか!』
ぼくは声を荒げる。
『今うぬが自ら貶めた勇なる者を、秘儀に供すことにどのような意味があるというのか!? 答えてみよ、××××!』
『その答えこそが、まさしく希望なのでございまする』
老官僚は、静かに言う。
『所詮は単騎でしかなくとも、たとえ恨みと誇りを忘れてしまったとしても……その高潔な魂とたぐいまれな天分を持つ勇なる者は、後の世でも人々の希望の光となりましょう。まさしく今のように。秘儀による転生は、使命を果たさぬ限り何度でも繰り返される。後の世では叶わずとも、その次の世でなら。さらにその次の世でなら。人間が滅びぬ限り、勇なる者は何度でも蘇り、人々の希望となる。そして……いつか必ず、魔族を殺し尽くすという使命を果たせる時が訪れましょう』
『……』
『勇なる者自身ではなく、彼の者が繋いだ人々の絆の力により、魔族を滅ぼすのです。遠い遠い、先の世にて』
老官僚の言葉には筋が通っており、また人の感情を打つ熱が込められていた。
しかし、ぼくは表情を歪める。
『だが……』
『いと尊き御上よ、その御心の苦悩は拝察に余りありまする。しかし、天よりすべてを与えられたがごとき彼の者は、その天分をもって巫国の民に称えられ、我らが勇なる者としての誉れを手にした。ならば、ここで命を捧げることもまた、彼の者の天命と言えましょう。……それとも』
老官僚の声に、暗い影が差す。
『あるいは巫国が滅んでも、彼の者だけは助かるかもしれぬと……そのようにお考えになっていたのでは、あるまいな』
『なっ……!』
『なるほど我らが勇なる者であれば、決戦を生き残り、城壁を越えて山へ逃れ、冬の寒さを生き延びることもできましょう。いずれ遠い大国へ流れ着き、そこで穏やかな余生を送ることも、叶うかもしれませぬ。御上が深く深く愛する彼の者に、そうした未来を望むことも、無理はないと拝察いたしまする。しかし』
老官僚が、眼光を鋭くして言う。
『かように都合のよいことが、許されるとお思いか』
『っ……巫王に対し、言葉が過ぎるぞ……! ××××』
怒りを押し殺したような声で言いながら、ぼくは老官僚を睨み返す。
『平時ならば、自刎を命じているところだ』
『いと尊き御上よ。愚身による不遜な奏上、深く詫び申し上げまする。しかし……この××××、自刎は元より、覚悟の上にございました』
そこで老官僚は、笑った。
それまでとは打って変わり、まるで憑き物が落ちたかのような、晴れやかな微笑だった。
『供犠の一人目には、ぜひこの老骨の死体をお使いくだされ』
広間が、再び騒然となった。
ぼくは一瞬言葉を失った後、問い返す。
『……なんだと?』
『子も孫も、皆亡くしました。もはやこの無意味な生に、未練などございませぬ』
官僚たちの間から、驚きの声などは上がらなかった。
皆事情を知っていたのか……あるいは同様の境遇にある者も、多いのかもしれない。
『御上よ。この老骨に残る魔力、一滴残らず搾り尽くし、勇なる者の旅路を彩り召されますよう、深く願い奉りまする』
老官僚がいっそう慇懃に言い、深々と頭を下げた。
広間には、沈黙が満ちていた。
『……民には決して、命を捧げよなどとは命じぬと、うぬは言ったな』
『ええ、まごうことなく』
頭を上げながら、老官僚ははっきりと答えた。
ぼくは、目を伏せて言う。
『勇なる者もまた、我が巫国の民に変わりはない……。強制はせず、意志を問う。それでよいな』
『なんの問題もございませぬ、御上よ』
老官僚は、変わらぬ声音で言った。
『潔き魂を持つ彼の者は――――必ずや、うなずきますゆえ』
老官僚の言葉に、ぼくは……痛みをこらえるように、目を閉じることしかできなかった。





