第十五話 最強の陰陽師、出自を知る
里では、九日が過ぎていたようだった。
「ごめんね。簡単な食事しか用意できなくて」
薄ぼんやりとした灯りの下、メローザが皿を運びながら言う。
神殿に戻ると、すでに深夜の時分だった。
アミュたちはもう床についているらしい。
メローザだけが、起きてぼくの帰りを待っていたようだった。
「そろそろかなーって、思ってたんだ。はいどうぞ。召し上がれ」
テーブルの上には、パンに塩漬け肉、チーズなどが並んでいる。
立派な食事と言えるほどのものだった。
ぼくは、やや気後れしながら言う。
「……時間も時間ですし、食事は明日で十分でしたのに」
「ダメダメ。だってセイカ、九日前から何も食べてないんでしょ?」
「いや、体感では半日くらい……」
「十分だよ。まだ若いんだから、ちゃんと食べなきゃ。ね?」
「じゃあ……いただきます」
言われるがまま、ぼくはパンに手を伸ばした。
もそもそと食べるぼくの正面に、メローザは腰掛ける。
「……」
そしてじっと、食事を続けるぼくの様子を見つめてきた。
どうにも、食べづらい。
アミュたちがいれば、と思う。
あの子らがこの場にいたなら、少なくともこんな沈黙は長く続かなかっただろうに。
「……こんな日が来るなんて思わなかったなぁ」
「え……?」
ふとメローザが漏らした言葉に、ぼくは困惑の声を上げた。
メローザは微かに笑って、ぼくへと訊ねる。
「ギルのこと……お父さんのこと、知りたい?」
ぼくはさらに困惑する。
特段、知りたいとは思わなかった。
今後のため、十六年前の魔族領で起こったことの詳細などならば、訊く価値はある。
だが……ぼくの実の父の人柄などは、どうでもいい。
しかしきっと、その答えは彼女の求めるものではないだろう。
迷った末に、ぼくは誤魔化すような答えを返す。
「……だいたいのことは、ルルムやラズールム殿から聞きました。元冒険者で、崖から落ちたところをあなたに助けられたと。あとは……口がうまくて人当たりが良く、人気者だったことなども」
「えー? なあんだ。わたしから話してあげたかったのに」
メローザは、どこか残念そうに笑う。
「でもね、わたししか知らないこともいっぱいあるよ。意外と細かいところとかね。昔言ったこととか全部覚えてて、喧嘩になるとネチネチ言ってくるんだよ? 最初は人間ってそうなのかなって思ってたんだけど、後でギルだけだったってわかって微妙な気持ちになったよね。それから……お兄さんのことは、すごく尊敬してた。頭のいい兄貴がいるおかげで、自分は自由にしていられるんだってよく言ってたよ。あとね……」
メローザが、ぼくの知らない父のエピソードを語っていく。
ぼくはそれを、ただ聞いていることしかできない。
「それとね、ギルはとっても強かったみたいなの。里の近くに出た大きなモンスターを、一人で倒したりしてたんだよ。冒険者だったからなのかな? あ、そうだ。セイカも今は、あの子たちと一緒に冒険者してるんだよね? すごい巡り合わせだよね、わたしびっくりしちゃった。やっぱり、親子だからなのかなぁ」
「……最後の日も」
「ん?」
自然と、口が疑問を放っていた。
「最後の日も……ぼくの父は、戦ったのでしょうか」
「……うん。そうみたい」
メローザが、静かにうなずいた。
「わたしは見てないんだけどね。あの時、種族の代表たちは、すごく怖い護衛を連れてきていて……逃げたわたしたちを、追って来たの。落ち合う場所を決めて、先に逃げろってギルが言った。わたしはセイカを連れていたから、そのとおりにするしかなかった。でも、森が燃え始めて、いつまで待ってもギルは来なくて……戻ろうって思った時、やっとギルが現れたの」
メローザは、ただ続ける。
「だけど、わたしのところに来る前に倒れて……一目で、もう長くないってわかった。治癒魔法をかけようとするわたしを、ギルは止めたの。たぶん、無駄だってわかってたから……。ギルのことを置いてくるしかなかったのは、残念だったな」
「それなら……やはりぼくの父は、もう」
メローザは、無言のままうなずいた。
やはり、ギルベルト・ランプローグはすでに死亡しているようだった。
「それからは大変だったなぁ」
メローザが感慨深げに言う。
「帝国に逃げてきたはいいけど、人間の国のことなんて全然わかんないんだもん。でも、最初に出会ったおばあさんにすごく親切にされてね。食事と住む場所を用意してくれて、人間の文化もいろいろ教えてくれたんだ。なんでそんなによくしてくれるんですかって聞いたら、昔魔族に助けてもらったことがあるから、って。でも、どうやら神魔じゃなくて獣人だったみたいなんだけど……人間からしたらみんな一緒なのかも」
どこか懐かしそうに、メローザは続ける。
「一ヶ月くらいはそこにいたかなぁ。追っ手が来ないことがわかってから、ランプローグ領を目指して旅に出たの。体の紋様は、お化粧で隠してね。旅は大変だったけど……意外となんとかなるもんだね。あんまりうまい嘘も思いつかなかったから、出会う人間には正直に、『貴族の子を産んだので、彼の実家まで旅してます』って説明してた。そしたらね、みんな同情して親切にしてくれるの。中には、わたしのために怒ってくれる人までいて……。なんだか変な風に勘違いさせちゃってたみたいだね」
メローザは苦笑する。
「時々簡単な魔道具を作って売ったりしながら、ひたすら旅を続けて……ランプローグ領に着く頃には、すっかり秋になってた。長かったけど、あっという間だったなぁ。でも……たぶんギリギリだったと思う。わたしが人間の国でセイカを育て続けることは、絶対に無理だったから。二人とも無事に目的地までたどり着けただけでも奇跡だったよ。寂しかったけど、この先どこかでダメになっちゃう前に、セイカのことは信頼できる人に預けなきゃって思ってた」
「……」
「でも、預ける時も苦労したっけ。ギルのお兄さんに直接言わないとって思ったから、それっぽい人が屋敷の外で一人になるまでずーっと見張ってたの。夏か冬だったら耐えられなかったねあれは」
「……ブレーズは」
ぼくは、ふと問いかける。
「ぼくのことを、素直に引き受けたんですか?」
「素直にかどうかはわからなかったなぁ」
メローザが思い出すように言う。
「なにせ、あの時はわたしが一方的にまくし立てて、セイカを押しつけてそのまま逃げちゃったからね。魔法の研究をしている人みたいだったから、もしかしたら魔族ってバレちゃうかもって思って……」
メローザがばつの悪そうな顔をする。
「でも、たぶん信じてくれたんだと思う。その後もしばらく屋敷を見張ってたんだけど、セイカを放り出すようなことはしなかったから。それでわたしも、安心してランプローグ領を去ったの」
「……そうですか」
一つ、疑問が解けた。
ぼくはずっと、秋の生まれだと聞かされていた。しかし魔王なのだとすれば、アミュと同じく春に生まれたことになる。
ぼくが聞かされていた誕生日は、メローザが赤子のセイカを預けたその日だったのだろう。
「その後どうするかは特に考えてなかったんだけど、結局、この独立領を目指すことにしたんだ。神魔の里には戻れないし、人間の国で暮らし続けることも難しそうだったから。よそ者を受け入れてくれる土地に、行ってみようと思ったの。次の夏頃には、ここにたどり着いて」
メローザは、わずかに目を細める。
「それからは……セイカたちが来るまでずっと、何もなかった。時間が、いつの間にか過ぎていった気がするよ」
「……そう、ですか」
そう言うと、場には自然と沈黙が降りた。
おもむろに、ぼくは席を立つ。
「食事、ありがとうございました。美味しかったです」
これ以上この場に、どんな態度でいればいいのかわからなかった。
メローザに背を向けながら言う。
「夜も遅いので、そろそろ寝ることにします。おやすみなさい」
「うん。おやすみ、セイカ。お腹が空いたら言ってね。またなにか用意してあげる」
優しげな声が返ってくる。
「旅の間はひもじい思いをさせちゃったけど……今は、お腹いっぱい食べさせてあげられるから」
****
部屋に戻ると、扉のそばに人影を見つけた。
「……イーファ?」
くすんだ金髪の少女が、部屋の扉のそばにしゃがみこんでいた。
イーファは顔を上げると、ぼくを見て柔らかく笑う。
「おかえり、セイカくん。戻ってきてたんだね」
「……もう寝てたんじゃなかったのか」
「声が聞こえたから、起きちゃった。アミュちゃんとメイベルちゃんは寝てるよ」
「それは悪かったな」
部屋の扉を開けながら、ぼくは言う。
「廊下じゃ寒いだろ。ほら」
「……うん。お邪魔します」
ぼくが促すと、イーファはいそいそと部屋に入る。
何か話がありそうだったが、廊下でするものでもないだろう。
扉を閉めると、ぼくは数枚の呪符を放った。
部屋の中に浮かんだ呪符は、陽の気による赤外線を放ち、室内を暖め始める。
「わあ……あったかい」
イーファが嬉しそうに言った。
「セイカくんのこの魔法、便利だよね。火を燃やすのと違って危なくないし」
「ああ……もっとずっと早く、使えるようになっていたらと思うよ」
ベッドに腰掛けながら、ぼくは小さく言った。
この呪いは、火桶のそばにいるよりも、呪力を炎に変えるよりも、暖をとるにはずっと便利で、暖かい。
妻といた頃のぼくは、赤外線の存在すら知らなかった。
あの時も、こうやって暖かくしてやれればどれだけよかっただろう。
「こんなこと、そう簡単にはできないよ」
イーファは仕方なさそうに笑って、ぼくの隣に腰掛けた。
わずかな沈黙の後に、イーファは言う。
「今回、戻るまですごく時間かかってたけど……大丈夫だった?」
「ああ」
ぼくはうなずく。
本当はけっこう危なかったが、心配させるようなことを言っても仕方ない。
「実際のところ、山にいたのは半日くらいだ。先へは進んだが、今のところ特に大きな変化もないよ」
「そうなんだ……。異変、解決できそう?」
「まだなんともだ。ただ、わかったことは増えてきている。春までには、少なくとも異変の正体くらいははっきりするんじゃないかと思う」
「そっか。すごいね。さすがセイカくん」
イーファは穏やかにそう言って、それからぼくに、優しげな笑みを向けた。
「メローザさんとは、どう?」
「……どう、って……」
唐突な問いに、ぼくは困惑しか返すことができなかった。
イーファはぼくから目を逸らすと、ぽつぽつと話し始める。
「わたしのお母さんが死んじゃった時……セイカくん、一生懸命慰めてくれたよね」
「……そんなこともあったな」
たしかこの子が、八つか九つの頃だった。
イーファの母親は奴隷の身分ではあったが、体調を崩しがちで、休んでいることが多かった。
当時から特別扱いされているとは感じていたが、実はかつて家出したブレーズと冒険者パーティーを組んでおり、イーファの父親であるエディスとともに盟友のような間柄だったのだという。そのため、奴隷身分でありながら薬も食事も十分なものを与えられていたようだったのだが……それでも、病には勝てなかった。
「あの時わたし、あらためてすごいって思ったんだ。セイカくんだって本当のお母さんがいないのに、どんな目に遭っても平気そうで、しかも他の人のことまで気遣えるなんて、って。これからずっと、お母さんがいない毎日が続くことを想像すると、そんなに強く生きられることが信じられなかった。でも信じられないなりに、わたしもそうなれるようにがんばってみようって、思ったんだけど……」
そこでイーファは、一度言葉を切った。
「そうじゃなかったんだね」
そう言ってぼくに、様々な思いがこもったような目を向けてくる。
「セイカくんにとって、お母さんは……いなくなったんじゃなくて、最初からいない人だったんだね。それが当たり前のことなら、辛いなんて、きっと思わないよね」
「……」
そのとおりだった。
今生ばかりか……前世でも、ぼくに母は最初からいなかった。
当たり前のことを、わざわざ嘆く理由がない。
「だから……しょうがないと思う」
「え……?」
ぼくは困惑とともに問い返した。
イーファは、何かを許すような笑みで言う。
「お母さんが死んじゃった時、わたしはそれをすぐには受け入れられなかった。生まれてからずっと、そばにいるのが当たり前だったから……。今のセイカくんも、きっとその時のわたしとおんなじなんじゃないかな。いないのが当たり前だったのに、突然お母さんだっていう人が出てきたら、やっぱりすぐには受け入れられないよ。気持ちの整理がつくまでに、時間がかかるのはしょうがないと思う」
ぼくは目を見開く。
とっさに、そうではないと言いそうになった。
気持ちの整理など、つけるまでもない。
あの神魔はぼくの母ではない。受け入れる理由もない。
母親という存在はぼくの生において、初めから不要なものだったから。
もはや名前も思い出せない、優しかった姉がいた。
その唯一の肉親を喪った後も、ぼくには一人で生きていける才覚があった。
母を必要としたことは、一度もなかった。
ぼくは決して、持っていて当然のものを失ったまま生き続けてきたわけではない。
しかし……否定の言葉は、何一つ思いつかなかった。
この子の言うことは、おそらく正しいのだ。
「無理しなくて大丈夫だよ」
イーファが、優しい声音で言う。
「アミュちゃんとメイベルちゃんとも話したんだ。気まずくならないように、わたしたちもがんばるから。セイカくんは忙しいだろうし、春までに気持ちの整理ができなくても仕方ないと思う。メローザさんは、神魔だから長生きでしょ? きっとまた、会える時が来るよ」
「……」
何か、答えてやるべきだと思った。
この子らにここまで気を使わせてしまった以上、安心させるような言葉の一つでも吐いておくべきだ。
しかし……今は何を言ったところで、嘘になってしまう気がする。
「わたし、そろそろ部屋に戻るね」
沈黙に耐えかねた様子もなく、ごく自然な声音でそう言って、イーファは立ち上がった。
ベッドに座ったままのぼくを見下ろし、この子らしい笑みとともに言う。
「帰ってきたばっかりなのに、話してくれてありがとう。おやすみ、セイカくん」
「……ああ。おやすみ」
かろうじて言えたのは、それだけだった。





