第四話 最強の陰陽師、動揺する
一瞬、それが何を意味するのかわからなかった。
しかし次第に理解が追いつくにつれ、驚きと困惑の感情が浮かんでくる。
「もちろん、ランプローグ伯爵夫人のことじゃあないよ。腹を痛めてお前さんを産んだ、神魔のことだ。名前はそう――――メローザ、といったかね」
メローザ。
それは、ルルムが十五年もの間捜し続けていた、神魔の名だった。
ギルベルト・ランプローグの妻であり……ぼくの母親にあたると目されている人物。
言葉が出てこないぼくにかまわず、学園長は続ける。
「場所は、何を隠そう独立領だ。あそこには時折、流れ者が居着く。魔族領から逃げ出し、人間の国で生きる基盤もないとくれば、最後にはあそこへ行くほかなかっただろう」
「……」
「ここからだとさすがに距離があるが……まあ雪が降り始めるまでには間に合うさ。お前さんも、冬が明けるまでここで悶々と過ごしたくはないだろう。向かうなら早くした方がいい」
「……」
「あちらにいる連中にはすでに話を通してある。地図も用意したよ。馬車も今から手配しておこう、護衛付きでね」
「……勝手に話を進めないでもらえますか」
困惑の中、かろうじてそう返す。
「ぼくは行くなんて、一言も言っていないでしょう」
「生みの親に会いたくはないのかい?」
「……ええ」
ぼくは学園長ではなく、自分に言い聞かせるように言う。
「親といっても、顔も知らない相手です。今どこにいるのかだけ知れればそれで十分ですよ」
一応、居場所をルルムには伝えておきたかった。彼女だけは、それを知る資格がある。
だが、ぼく自身が会う理由はない。
所詮はこの、転生体の母親だ。
ぼくに元々親はいない。
「本当にかい?」
学園長は、ぼくの内面を見通したかのように言う。
「会うも会わないもお前さんの勝手だ、好きにすればいい。だが……あまり、賢明な態度とは言えないねぇ」
「……」
「人間も神魔も寿命が短い。一度機会を逃せば、次の機会はもう訪れないかもしれない」
「……」
「会うだけ会ってくればいい。後悔のないようにね。メローザという神魔も、別にお前さんが憎くて捨てたわけじゃあないんだ。会って悪いことにはならないだろうさ」
「……そうかもしれませんが……」
ぼくの消極的な肯定に、学園長は満足げな顔になって言う。
「あちらでの滞在も便宜を図っておこう。金なんて取りゃあしないから、いくらでもいればいい。ただ……今少し、独立領で問題が起こっていてね」
学園長がついでのように付け足したその情報に、ぼくは気を引かれた。
矮人の老女は、まるでささいなことであるかのように続ける。
「あまり長居はしない方がいいかもしれないねぇ。まあそれがわずらわしいようなら、お前さんがどうにかしてくれてもかまわないがね。何千年もの間、誰もどうにもできなかった問題ではあるが……お前さんなら、あるいは解決できてもおかしくない」
「……その問題とは?」
「独立領となるずっと以前から、あの一帯は元々忌まわしい地とされていてね。中心にある山に魔術的な……」
「待ってください、ユーヘッデ媼」
学園長の言葉を、フィオナが厳しい目つきで止める。
「その一件はわたくしも聞いています。セイカ様に、例の異変を解決させるつもりですね? わたくしがあなたに情報を渡したのは、断じて、あなたに交渉材料を持たせるためではありませんよ」
「アタシは頼まれ事は果たした。メローザという神魔の居場所は見つけてやったじゃないか。その先はアタシの自由だよ」
そう言って、学園長がフィオナを睨み返す。
だが、その目はすぐに伏せられた。
「といっても、別に強制するつもりはないよ。ことがことだ、お前さんとはいえ簡単に解決できるなんて思っちゃあいないさ。母親に会って、すぐ帰ってきたってかまいはしない。好きにすればいい」
「わたくしは反対です、セイカ様」
フィオナが険しい表情で言う。
「よりにもよって、今この時に向かう必要はありません。件の異変が落ち着いてからでも十分です。わたくしがセイカ様の母親の居場所を探っていたのも……どの勢力からも利用されることのないよう、先手を打って匿うためでした。セイカ様に厄介ごとを押しつけるためではありません」
フィオナの言葉の後、部屋にはぼくの返答を待つかのような沈黙が流れた。
ぼくは迷う。
だが本来は迷うまでもなく、受け入れる理由はないはずだった。
今生での母など、どうでもいい。それゆえ独立領へ向かう動機などなく、見ず知らずの森人や矮人たちのために、異変とやらを解決してやる義理はまったくない。
やがてぼくは、返答のために口を開く。
「……わかりました、行きますよ。その異変とやらも、解決できそうならしておきます」
口から放たれたのは、意図しない言葉だった。
ぼくは自分で驚きつつ、まるで言い訳のように付け加える。
「一応、恩師の頼みですからね」
****
「どういうおつもりでございますか? セイカさま」
その日の夜。
あてがわれた離れの一室で、頭の上からベッドに飛び降りたユキが訝しげに言った。
「こちらの世界での生みの親に、会われるとのことですが……なにやら面倒事を請け負ってまで、その者と顔を合わせる意味がおありなのですか?」
「……」
ユキは、本当にわからないかのような様子だった。
実際、わからないのだろう。
管狐は妖には珍しく番によって殖えるが、親にあたる個体はほどなくして死ぬ。子育てはほぼ人間任せだ。管狐にとって親個体とは、ただ自分を発生させた存在にすぎず、それ以上の意味を持たない。
そしてそれは実のところ、ぼくも似たようなものだった。
だから、答える。
「ないよ」
「……」
ますます訝しげにするユキに、ぼくはもう少し詳しく説明する。
「別に、生みの親に会うために独立領へ向かうわけじゃない」
「では、なにゆえ?」
「学園長に、借りを返しておこうと思ったんだよ」
ぼくは、自分の中で出していた答えを話す。
「故郷のことを悪し様に言ってはいたが、今でも伝手を残しているくらいだ。あの人なりに、愛着はあるんだろう。今まさに独立領で起こっている例の異変についても、本当に解決したがっている雰囲気がある」
「……」
「なんといっても、元教え子の魔王の手まで借りようとしているくらいだからな。それだけ真剣なんだろう。だから……先の借りを返すには、ちょうどいい機会だと思っただけだ」
あの場で断ってしまってよかったはずなのに、断るのはどうしても気が引けて、つい了承してしまった。
つまりそれだけ、あの学園長には今も自分の中で借りがあるつもりなのだろう。
「むぅ……」
ユキがいまいち納得していないかのように言う。
「セイカさまがよろしいのであればそれでかまいませんが……しかしあの老婆も、頼み方というものがあったのでは? 生みの親の住む地なのだからいいように取り計らえというのは、いささか礼を失していたように思えます」
不満そうなユキ。
愚痴の内容はもっともではあったが、ぼくは言う。
「きっと、正式な頼み事にしたくなかったんだろう。頼まれ、それを受けてしまえば、こちらにも多少責任が生まれてしまうからな」
「……どういうことでございますか?」
「要するに、危なそうなら無理せず帰ってきていいということだ。頼まれ事ではなく、ぼくが勝手に始めたことなら、責任もないからすぐに手を引ける」
「それは、つまり……セイカさまでも、手に負えないかもしれないような異変であると?」
「実態はともかく、学園長はそう思っているようだな。話し合いの場でもそう言っていただろう。たしかに、それだけの事態にはなっているようだが」
聞いた限り、だいぶ根の深そうな異変であるようだった。
少なくとも実際に見てみないことには、原因の見当すらつかない。
「詳細を聞いた後にではあるが、少々興味も湧いた。独立領というのもずっと気になっていたし、いろいろお膳立てしてもらえるなら行ってみるのも悪くない」
「……なるほど。それならようございましたが」
「反対しないのか?」
てっきり、『気が緩みすぎでございます』くらい言われるかと思ったのだが。
ユキが平然と答える。
「こういう時、セイカさまに何を申し上げても仕方がありませんので」
ちくりとくる言葉を放ったユキが、語調を抑えながら続けて言う。
「それに……あの帝が目を光らせる都から離れるのであれば、その方がいいかとユキは思います。異変の地も、ここよりは安全でございましょう」
「……考えようによっては、そうかもしれないな」
独立領に皇帝の目が届いていないと考えるのは、少々楽観がすぎるだろう。
それでも、狡猾な為政者より得体の知れない異変の方がマシというのは、そのとおりだった。
気を取り直し、ぼくは言う。
「まあ、そういうわけだ。軽く異変を解決して学園長への借りを返し、春を待って帰ってくることにしよう」
「老婆の配慮とは裏腹に、ずいぶんと軽い意気込みでございますね」
「似たような問題は、前世でも何度か解決してきたからな。身構えるほどでもない」
「それはけっこうなことでございますが」
その時、ユキがふと訊ねてくる。
「しかし、そうなりますと……やはりセイカさまはこの世界での生みの親に、特別思うところがあったわけではないのでございますね」
「……。ああ」
ぼくは微笑とともにうなずく。
当然だ。ぼくもユキと似たようなものなのだから。
親子という関係性は知っていても。
それがどういうものなのか、真には理解していない。