第二十三話 最強の陰陽師、選択を迫られる
死霊術士と相対し、拠点の一つを壊滅させた、数日後。
ぼくたちの下に、反乱軍消滅の報せが入ってきた。
各地にいた死霊兵たちは一斉に機能を停止し、その後新たな動きもないという。
理由は不明だ。
あの少女の死霊兵が実は重要な役割を果たしていたのか。あるいは中継死体を製造していた大きな拠点を失ったために、これ以上の侵略を諦めたのか……。
確かなことは、何もわからなかった。
一つ言えるのは、結局帝国軍が到着しないうちに、勇者の役目は終わりを迎えてしまったということだ。
ぼくたちは、帝都へ戻ることとなった。
****
豪奢な回廊を、一人歩く。
帝都へ戻ったぼくは、再び帝城を訪れていた。
呼び出されたためだ。
あの不自然に凡庸な皇帝、ジルゼリウス・ウルド・エールグライフに。
アミュでも、フィオナでもなく、ぼく一人が。
帝城を無言で進む。
城内が広すぎるためか、回廊には使用人の姿も見られない。
ただ。
「……」
ぼくは足を止めた。
回廊の先、ぼくの正面に、一つの人影が立っていた。
「やあ」
杖をついたその人物が、左手を軽く掲げた。
「聞いたよ。陛下に呼び出されたんだってね」
色眼鏡の青年が、笑みを作って言う。
第一皇子の、ヒルトゼール・ウルド・エールグライフだった。
「……これは、ヒルトゼール殿下」
「いいよ、虚礼は好まない」
貴族の礼をしようとするぼくを、ヒルトゼールが止めた。
「陛下からは、どのような名目で?」
「さあ……。わかりません。何も聞かされていませんので」
ぼくは、わずかに目を伏せて答える。
何も聞かされていないのは本当だった。
「ふうん?」
ヒルトゼールは、ぼくの返答を聞いて意外そうな顔をした。
「しかし、不思議だね。勇者と共にではなく、君一人が呼ばれるなんて。でも……きっと、嬉しい用向きに違いない。なんと言っても、本当に反乱を鎮圧してしまったのだから」
穏やかな笑みとともに、ヒルトゼールは言う。
「反乱軍の実態が死体の軍勢で、あの反乱はその実、死霊術士が単独で起こした暴動だったと聞いた時は僕も驚いたよ。しかし、今やその脅威も去った。君たちのおかげでね。きっと褒賞が贈られることだろう」
「いえ、とんでもない」
ぼくは静かに、首を横に振る。
「ぼくたちは大したことはしていません。ただ、軍勢の一部を無力化しただけです。帝国が手を打ったのでないなら、反乱の収束は敵が手を引いただけのこと。褒賞など過分です」
「謙虚だね。その姿勢は好ましいよ」
ヒルトゼールが変わらない笑みで言う。
「ただ……自分の功績は、きちんと認めた方がいい。自分のためにも、目を掛けてくれる者のためにもね」
「……」
「一つ、聞かせてくれないか? セイカ・ランプローグ君」
ヒルトゼールが、ぼくをまっすぐに見つめて問う。
「僕の配下の者から報告が上がってきた。陥落した街の一つに、何やらおぞましい実験の跡が見つかったと。おそらく敵の死霊術士が拠点としていたのではないかということだ。ただ、そこには死霊術士の姿も死霊兵もなく、代わりに大規模な破壊の痕跡と、広範囲の異様な更地が存在していた」
「……」
「死霊術士がそれをなしたと考えられなくもないが……しかし死霊術という魔法の特性を鑑みれば少し奇妙だ。破壊はともかく、ただ死体を操るだけでは、瓦礫すら残さない完全な更地を作ることなどできるはずもない。思うに、死霊術士は自らの拠点で何者かと戦闘になり……敗北した。異様な更地は、その何者かがなしたものだ」
「……」
「君かい?」
皇子の問いが、ぼくを射貫く。
「君がやったのか――――セイカ・ランプローグ」
ぼくは、目を逸らして答える。
「何をおっしゃっているのか、ぼくにはわかりかねます」
「僕の配下になれ」
ヒルトゼールが告げた。
青年は、すでにその顔から笑みを消していた。
ぼくは視線を上げ、その闇色の色眼鏡に隠れた目を見返す。
「僕ならば、あらゆるものを与えられる。金でも権力でも、君が望むあらゆるものを。その代わりに――――君の力を、僕に貸すんだ。セイカ・ランプローグ」
「殿下は……ぼくに、何を望むのですか」
「帝位」
第一皇子は、迷いなく答える。
「僕が望むのは、ただそれだけだ」
重い重い、沈黙が訪れる。
その間も、ぼくら二人の視線は交錯していた。
しかし、やがて……ぼくは目を閉じ、首を横に振った。
「できません」
答えは、そう決まっていた。
「たとえぼくが、金や権力を必要としていたとしても……あなたの配下になることは、決してないでしょう」
「それはなぜ……っ」
ヒルトゼールが、急に言葉を止める。
その視線は、ぼくの眼前に飛ぶ光を追っていた。
昼間にはあまり目立たない、微かな緑色の光。
蛍だった。
「実はぼくも、少しばかり死霊術を使えるんですよ。あの術士の死霊術とは系統も違えば、技術的にも比べものにもならない代物ですが」
陰陽道にも、反魂の法が存在する。
それはいわば邪道であり、秘術の類ではあったが、ある程度力のある術士ならば手順さえ知れば使うことができた。
「この蛍は死骸です。さしずめ、死霊蛍といったところでしょうか」
ぼくは軽く指を上げ、死霊蛍を止まらせる。
緑色の光が明滅する。
「殿下。あの首飾りを、今も身につけられていますか?」
「……」
「パーティーの時につけられていた、蛍を模した魔道具の首飾りを。もし身につけられているのなら、今一度見せていただけませんか?」
わずかな沈黙の後……ヒルトゼールはおもむろに、服の中から首飾りを引き出した。
蛍を精巧に模した、ペンダント。
それが今――――微かに明滅していた。
死霊蛍の光る様を、そのまま写すようにして。
ぼくは語り始める。
「ずっと、わからなかったことがありました。死霊術士に協力者がいるのは明らかだった。ならば、その協力者とはどのように連絡を取っていたのか。早馬や鳥のような、盗み見されかねない、足のつきやすい方法は使わないでしょう。動物の死体に手紙を預けることは簡単でしょうが、敵の正体が死霊術士とわかれば、誰もがその方法に思い至る。運び手をたどられればすべてが露見しかねない」
協力者は、帝国の地理や街の情報をよく知り、高価なモンスターや魔族、そして反乱軍の死体を用意できるほどの力を持つ、権力者。
ならば、実行役となる死霊術士との連絡も慎重になる。
「ことが済んだ後、ぼくは一つの違和感を思い出しました。殿下、あなたはなぜ、パーティーでその首飾りを身につけていたのでしょう。暗い場所を照らすために買い求め、結局役に立たないとわかった魔道具を、日中のパーティーでなぜ。服の下に隠していれば、装飾品としての役割も果たせないというのに」
皇子が返してきたのは、沈黙だった。
ぼくは続ける。
「万が一にも、誰かに見出されたくなかった……ぼくはそう考えました。殿下、西方の地では、季節外れの蛍が多く飛んでいました。死霊兵の周りにも同様に。あれらが本当に生きていたのか……ぼくは確信が持てません」
形が似ているものには、同じ性質が宿る。人間はそのように思い込む傾向がある。
呪術思考は、呪いの基礎だ。
同じ顔の死体を使って、自身の死霊術を遠くまで伝わせられるのなら。
蛍の死骸に灯した光を、離れた場所にある別の死骸と……あるいは、蛍を模した魔道具と同期させることくらい、容易い。
「通信は、〇と一さえ表せれば成り立ちます。具体的に言うならば、光の短い明滅に〇、長い明滅に一を当てはめただけでも、成り立ってしまう。一度光るだけならば二通りですが、三度なら八通り、六度なら六十四通りもの情報を表すことができる。ここまで複雑になれば、音素を一つ一つ当てはめて、言葉による通信だって可能になります」
陰と陽、たった二通りの爻が、三つ組み合わされば八卦を、六つ組み合わされば六十四卦を示す。
この原理を通信に用いる程度のこと、ぼくでなくても誰でも思いつく。
「あまり長い情報は伝えられないでしょうが……秘密の通信手段としては優れた方法だったことでしょう。物理的な距離を移動しないために速く、何より秘匿性が高い。辺りに飛んでいる蛍が生きているのか、それとも死霊術士に操られた死骸なのかなんて、人間の目では判別のしようがない。首飾りが光っていても、そのような魔道具だと言われれば信じるしかない。怪しむ者がいても、光の明滅に意味があるとはとても思われない」
西方の地から帝都まで、死霊蛍を一定の間隔で配置し、終着点に蛍を模した魔道具を設定する。それだけで、光による秘匿通信が成立する。
皇子の言っていた通りに、魔力を込めて首飾りの蛍を光らせることができるのなら、双方向の通信すらも可能だ。
ヒルトゼールは、なおも沈黙を保っていた。
ぼくは続ける。
「もちろん、これはただの憶測です。まったくの見当違いだったならば、そうおっしゃってください。死霊蛍に連動し、首飾りが光ったのはただの偶然だと。パーティーの時に身につけていたのも、ただ意匠が気に入っただけだと。弟たちの反乱工作を事前に掴み、それを死霊兵として利用するべく画策できるような者が、自分の他にもいたのだとそうおっしゃってください。……その際には、非礼を詫び、二度と殿下の前に姿を現さないと誓いましょう」
ヒルトゼールは、しばらくの間沈黙を保っていた。
だが……やがてふっと、微かな笑声を漏らす。
「その暗号、実は僕が考えたものだったんだ」
皇子の纏う雰囲気は、先ほどまでとは打って変わり、一見すると穏やかなものになっていた。
「連絡手段なんて、僕は別に、死霊鳥に手紙を預けてくれればそれで十分だと思っていたのだけどね。あの男には何やら美学があるらしく、そんなつまらない方法は使いたくないとごねられた。そこで、あの暗号を提案してやったんだ。幼い頃、荒唐無稽な夢想の中で作った、拙い暗号を」
ヒルトゼールは、自嘲するような笑みとともに続ける。
「今思い出しても恥ずかしい夢想だよ。帝城を、暴徒が襲うんだ。幼い僕は弟たちとともに、城の一室に捕らえられる。使用人と弟たちを守るため、僕は暴徒の頭目と粘り強く交渉しながら、こっそり配下の精強な戦士たちに合図を送る。とととーんととん、ととーんととーんとん。壁を叩く二通りのリズムの組み合わせで、言葉を表すんだ。夢想の中では二の五乗、三十二通りを採用していたな。暴徒たちの隙を突き、僕の合図で、配下の戦士たちがなだれ込んでくる。僕も剣を持って戦うんだ。暴徒はみんな倒されてしまう。僕は英雄になる。帝都の広場で、民衆に称えられる……恥ずかしいと前置きしていても、恥ずかしいな。これは」
ヒルトゼールは、ばつが悪そうに頬を掻いた。
確かに、子供の英雄願望が表れた、幼い夢想だ。
だが、そんな幼少期から二の累乗を理解し、暗号を自力で作ってしまったというのは、やはり俊英というほかない。
「それにしても」
ヒルトゼールは皮肉げに笑う。
穏やかな物腰の中に、微細な刃が混じり始める。
「民に称えられたくて作った暗号を、まさか民を死体に変えるために使うことになるとは……あの頃の僕が知ったらがっかりするだろうね」
「……なぜ」
ヒルトゼールの纏う雰囲気に飲まれかけながらも、ぼくは問う。
「なぜ、このようなことを……」
「帝国の未来のためだよ」
微笑とともに、皇子が言う。
「慣習を踏まえても、適性を踏まえても、次期皇帝は僕が最もふさわしい。だが、そんな僕の派閥からは離反者が相次ぎ、止まる気配がない。僕への裏切りは帝位争いを激化させ、未来に混乱をもたらす悪しき行為だ。僕は帝国の未来を担う者として、彼らに罰を下す責任がある。領地を壊滅させ、政治的に失脚させ、裏切りを後悔させる責任が。それは、今以上の離反を防ぐ役目も果たす……俗な言い方をすれば、見せしめだね」
「……そんな」
思わず、言葉に詰まる。
「そんなことのために……数万もの民を、犠牲にしたのですか」
「そこが、為政者とそうでない者との感覚の違いだ。いいかい、冷静に考えてみてほしい」
ヒルトゼールは、まるで諭すように言う。
「たかだか、数万じゃないか」
青年が発した言葉の意味を、ぼくは理解することができなかった。
「なん……ですって?」
「四年前の調査の時点で、帝国全土の人口は八千五百万を数えている」
ぼくの表情など見えていないかのように、ヒルトゼールは続ける。
「四年経った今、調査から漏れていた者も含めるならば、おそらく人口の総数は一億に迫るだろう。わかるかい? 一億だ。数万という巨大な数も、一億に比べれば霞む」
「っ……それでも」
皇子の言葉に、ぼくは愕然としながらも言い返す。
「数万の民は、皆生きていたのですよ。それを……」
「民一人一人の人命を尊ぶ贅沢が許されるのは、精々領主までだ」
ヒルトゼールが、拒絶するかのように言う。
「為政者には許されない。百人を生かすために九十九人を殺す選択を、常に強いられる。誤ればより多くの民が死ぬ。人命を糧にする勇気なくして、国は成り立たないんだ」
ヒルトゼールの表情は、わずかにも揺るがない。
自らが発した言葉すべてを、心から信じているようだった。
気づけば、ぼくは一歩足を退いていた。
これほどの怪物は、見たことがなかった。
暴君はいた。狂気に飲まれた君主も、欲望のあまり失政を繰り返していた君主も。
だが――――ここまで透徹した論理性を備えながら、発狂した結論を導く為政者を、他に知らない。
「もっとも……本当は、ここまで殺す予定はなかったんだけどね」
圧倒されるぼくの前で、青年が苦笑するように言う。
「陛下がさっさと帝国軍の派遣を決めてくだされば、それを罠に嵌め、戦力を確保する目論見だった。それが議会や武官たちと散々にごたついてくれたおかげで、惰弱な民衆しか死霊兵にできず、余計な犠牲を払うことになってしまったよ。でも……これでようやく、戦力がそろった。やっと始められる」
ヒルトゼールが、穏やかな笑みを浮かべる。
悪い予感に、ぼくは思わず目を見開く。
「始める……? 何を、もう終わったはずでは……」
「まだだよ。死霊兵が蹂躙していたのは、ほとんどが弟たちの支援者の領地だ。裏切り者への処罰はこれから始める」
「馬鹿な……死霊兵たちは、すべて力を失ったはずだ」
「あんなのはただの目くらましだよ。本命は民の中から力ある素体を選び抜き、露見しないよう分散させ伏せていた、精鋭一万だ。あれがあればどんな都市でも落とせる……と、あの男は言っていたね」
ヒルトゼールが不敵に言う。
「といっても、目標はただ一つ――――峡谷の街テネンドだ。あそこを滅ぼし、派閥を離反したダラマト侯爵を完全に失脚させる。皆が思い知るだろう、僕を裏切った者の末路がどのようなものかを。それで、目標は達せられる」
ぼくは、一瞬言葉を失った。
「テネンドを、滅ぼすだと……? 何を考えているんだ。あの街の人口は、数万などという規模じゃない……これまでとは桁違いの民が死ぬんだぞ」
「それでも、一億に比べれば安い」
ヒルトゼールの笑みは、いささかも揺るがない。
ぼくは反射的に、懐のヒトガタに手を伸ばす。
「ふざけるな……! そんなことっ」
「ならば、僕に忠誠を誓うか?」
ヒトガタを掴んだ手を止める。
ヒルトゼールが、穏やかに続ける。
「僕を殺したところで、あの男が侵攻を止めることはない。すでに指示は出してしまったからね。だが……今この魔道具を使って連絡し、止めれば間に合うかもしれない」
青年が、左手に掴んだ蛍の首飾りを揺らす。
「僕はそれでもかまわない。君が手に入るのならば、見せしめなどよりはるかに大きな成果となる。……セイカ・ランプローグ、真相にたどり着いた君に敬意を表し、選択肢を与えよう」
色眼鏡の奥に隠れた視線が、ぼくを射竦める。
「テネンドの民を生かすか殺すか、君が選ぶといい」
ぼくは……言葉を失い、立ち尽くした。
打てる手はない。
今から蛟を飛ばしたところで、間に合うかわからない。そして間に合うか否かにかかわらず、ドラゴンを従えているとわかった者を、帝国が放っておくわけがない。政争の渦の、中心に巻き込まれることは避けられなくなる。
一方でたとえ嘘でも、忠誠を誓うのは危険すぎる。ぼくの言質を、この謀略家がどのように利用するかわからない。
ヒルトゼールから、目が離せない。
目の前の青年を殺すことは容易い。妖が一噛みすれば、呪いが一撫ですれば、それだけでこの病弱な青年は死んでしまうだろう。
だが、そんなことに意味はない。
ぼくがどれだけ強かろうと、それはこの場において、まるで意味をなさない。
ヒルトゼールの下につくなど、ありえなかった。
この男は、ぼくを政争の道具として使う。あの死霊術士のように。
そのような者の末路など……考えるまでもない。
しかし――――ぼくが断れば、十数万、あるいはそれ以上の民が死ぬ。
最強であろうと、あらゆる人間を助けられるわけではない。だからこそ、縁のある者のみを助け、それ以外を仕方ないと切り捨ててきた。
テネンドの民など、ぼくにはなんの関わりもない者たちだ。
だが……切り捨てていいのか?
一人や二人ではなく……一つの大都市に住む無辜の民すべてを、そのような理由で。
「急かす気はないが、時間は限られる」
穏やかな笑みを崩さず、ヒルトゼールは言う。
「決行の時機はあの男に任せているんだ。今この瞬間にも、民が蹂躙されているかもしれない」
「っ……」
息が詰まる。
反射的に言葉を発しようとした――――その時だった。
「うふふっ」
回廊に、澄んだ音色の笛のような笑声が響いた。





