第二十二話 最強の陰陽師、商品を受け取りに行く
二つの丸い月が昇りきった、真夜中の時分。
奴隷倉庫の檻に入れられ、隷属の首輪と手枷を嵌められたルルムが、向かいの檻に呼びかける。
「ノズロっ、ノズロっ」
神魔の武闘家は、檻の中で横たわったまま返事もない。
荒い呼吸をしていることから死んではいないが、ひどい怪我のためか起き上がることもできないようだった。
ルルムは、袖に隠している魔道具に視線を向ける。
使う機会は限られるだろう。
その時、重い音と共に倉庫の扉が開いた。
巨漢の持つ灯りが、檻の群れを照らす。
「旦那、こんな時間になんですかい」
「いえ、あの神魔の男の容態が気になったもので。死なれては困りますからねぇ」
「兄ちゃん、平気だって言ってるのにぃ……。あれくらいじゃ死なないよぉ」
見張りの巨漢を先頭に、エルマンとネグが倉庫に足を踏み入れる。
「万一ということもある。ネグ、もしもの時はお前が治しなさい」
「わかってるよぉ、兄ちゃん」
「ふわぁ……そんなら、もっと早く来てくだせぇ」
「領主との会合が長引いたのです。それに、この時間なら居眠りしている見張りを起こすこともできる」
「勘弁してくだせぇ……」
言葉を交わしながらルルムたちの方へ近づいてきた三人は、彼女には目もくれず、ノズロの檻へと灯りをかざし、覗き込む。
「ふむ……この分ならば、おそらく問題ないでしょう」
「だから言っただろぉ、兄ちゃん」
「そりゃあよかった。ついでだ、他のも見ていくかい、旦那。寝てるとは思いやすが……」
巨漢の見張りが振り返り、ルルムの檻に灯りを向ける。
その時――――ルルムは袖から取り出した、薄い石ナイフを三人の人間へと向けた。
魔石から削り出したとおぼしきそのナイフは、手のひらに収まるほど小ぶりで、とても武器に使えそうには見えない。檻越しにならば、なおさら。
しかし次の瞬間、猛烈な力の流れが湧き上がり、上位魔法に相当する水の刃が生み出された。
凄まじい勢いで放たれる水は、檻の鉄格子を易々と切断。そのまま三人の命をも瞬時に奪う――――はずだった。
「っ!? そんなっ……!?」
ルルムが驚愕の表情を浮かべる。
鉄格子を切断した水の刃は、エルマンらに届くことなく……光のヴェールに阻まれて消失していた。
「ま、まさか、結界だなんて……っ!? ぅぐっ……かは……!」
隷属の首輪が効果を現し、ルルムが首を押さえて苦しみ始める。
その様子を、エルマンがわずかに目を瞠って見下ろす。
「これは驚きました」
顎髭を撫でながら平然と呟く。
その視線は、次いで檻の中に転がった石ナイフへと向けられた。
「魔道具ですか。なるほど……隷属の首輪の効果が現れるまでには、少々の時間がかかる。普通の剣や魔法ならともかく、魔道具の武器を用いられれば、そのわずかな時間で主人を殺傷せしめる……。ふむ、迂闊でした。以後は注意しなければ」
「び、び、びっくりしたぁ……」
ほぼ表情を変えないエルマンとは対照的に、ネグは気が抜けたように胸をなで下ろしている。
その頭上には、神々しく光る布きれのような霊体が舞っていた。
ルルムが呻く。
「ホーリースピリット……! そ、そんなモンスターまで……」
光属性を持つ、アストラル系モンスターの上位種。
それも、滅多に遭遇することのないレアモンスターだ。
モンスターの群の中にまれに現れ、魔法を防ぐ結界を張ったり、治癒魔法を使って敵を回復してくる性質を持つという。
「お、おお……? 何が起こった? おれには何が何やら……」
「気にしないでよろしい。それより、この商品を檻から出しなさい」
言われたとおりに、巨漢が鍵を開け、ルルムを檻から引っ張り出す。
「ぐっ……」
「なかなか面白い真似をしてくれる商品だ」
憔悴するルルムを、エルマンは家畜を見るような目で見つめる。
「昔ならば鞭をくれてやったところですが、あいにくあれも処分してしまいましたからねぇ」
「兄ちゃん、こいつきっと付与術士だよぉ。他にも何か持ってるかも……」
「わかっています……おい、こいつは裸にしておけ。買い手がつくまでは衣服を与えるな」
「今ですかい? へいへい……」
巨漢がナイフを取り出すと、掴まれたルルムが身をよじる。
「や、やめっ……」
「そうそう。模様も確かめておかなければ」
エルマンがルルムの顎を掴み、染料の下から微かに覗く黒い線を、品定めするように眺める。
「神魔は個体によって模様が異なる。おそらくこれによっても売値は変わるでしょうから、競売での見せ方も考えなければ……。フ! ここは商人としてのセンスが問われるところ。腕が鳴ります」
「っ……」
ルルムが表情を歪める。
「人間が、そんな理由で、私たちを……っ!」
「ふむ……どうやらまだ、この商品には尊厳が残っているように見えますなぁ」
エルマンが亀裂のような笑みを浮かべ、ルルムを見据える。
それは商品ではなく、人に向ける、悪意の籠もった笑みだった。
「自分の立場がまだわかっていないようだ。命令です。そんなものは早く捨てなさい。奴隷には過ぎた品だ」
神魔の巫女が、奴隷商を睨み返す。
「……断るわ。自由は奪えても、あなたたちに種族の誇りまで奪うことはできない」
「ならば、好きにするといいでしょう。いずれそんな物は自ずと剥がれ落ちる。着衣を許されず、残飯のような飯をすすり、自らの汚物に塗れてなお誇りを持ち続けられる者などいない……。やれ」
巨漢がナイフを手に、ルルムの衣服を裂き始める。
ルルムは顔を背け、じっと恥辱に耐えているようだった。
予定よりだいぶ早いが……まあいいか。
「――――以前にも言ったと思うが」
夜の奴隷倉庫に、ぼくの声が響き渡る。
四人が、いっせいにこちらを見た。
「ぼくは、縁や義理のある相手はなるべく助けることにしているんだ」
倉庫に佇むぼくは、静かに続ける。
四人から見ると、ぼくがいきなり現れたように思えたことだろう。
実際、その通りだが。
「セ……セイカ?」
「……セイカ、殿……」
ルルムとエルマンの呟きと、ほぼ同時に。
鈍い重低音と共に、倉庫の梁が折れた。
斜めに落下した太い梁は、下にあった空の檻を数個粉砕し、轟音を轟かせる。
「うおおお!? なんだ!?」
巨漢が驚いて声を上げる。
二本、三本、と、次々に梁が落ちる。さらには天井までもがバラバラと崩れ、そこから夜空が覗き始めた。
周囲の床や檻の上で、屋根に使われていたレンガが割れ砕け、破片が飛び散る。
「や、やべぇっ!!」
巨漢がルルムを放すと、両手を頭にかざしながら、一目散に出口へ向かって逃げ始めた。
エルマンが叫ぶ。
「お、おい、待て!」
「旦那も早く逃げろ! この倉庫危ねぇぞ!」
どうやら、倉庫が勝手に崩れ始めたと思ったらしい。
無理もない。
投石機も弩砲も、杖も魔法陣すらも使わずに、これを成せる者がこの世界にどれほどいるだろう。
逃げろと言われたエルマンは、その場で立ち尽くしていた。
ぼくから目を離すことができない。
天井に大穴が開いた倉庫は、さらに壁までもが崩れ始める。
「天井はともかく、レンガの壁はさすがに重力だけで崩すのは難しい。だから、少し工夫することにしたんだ」
言うと同時に、真上の梁が折れた。
身構えるエルマンとネグの頭上で、落ちてきた梁や天井を扉のヒトガタで位相へ送りながら、ぼくは続ける。
「硫黄を焼いて出る毒気を水に溶かし、さらに触媒として鉄を反応させる。こうしてできるのが、緑礬油だ。硫黄の酸――――硫酸とも呼ばれているな」
「な……何だ、何を言って……」
「土、火、水、金と四行も使ってずいぶんと手間だが、これを使えばレンガ壁の膠泥を溶かすことができる。灰を使う都合、あれは塩基に寄るからな……。知らなかったか? なら覚えておくといい。知識は意外なところで役立つものだ」
ぼくは奴隷商を見据える。
「しかし……エルマン。ぼくの用向きは、さすがに言わなくてもわかるだろうな」
声なく立ち尽くすエルマンへと続ける。
「あれだけ脅せば、さすがに手を出しては来ないだろう……そう、安易に考えたか? エルマン。領主の手勢を帰すのは早すぎたな。お前も存外、甘い男だったようだ――――冒険者は、それほど行儀のいい存在じゃないぞ」
「あ…………兄ちゃんに手を出すなッ!!」
ネグが叫ぶと同時に。
床や壁から、無数のアストラル系モンスターが湧き出てくる。
ゴーストやスピリット、ウィスプにスペクター。
そして……、
「ォォォォォ――――――」
闇の中からにじみ出すように、レイスロードが姿を現した。
恐れからか、その周囲には同じレイス系モンスターですら近寄らない。
色とりどりの怨霊たちに取り巻かれながら、エルマンはぼくに向け口を開く。
「あ……甘い? いえいえ、まさか。ワタクシめは商人。願望や当て推量を勘定に入れたりはしません」
表情を引きつらせながら、それでもエルマンは笑っていた。
「ただの暴力勝負ならば、初めから兵など不要だったのです。あんな者ども、ネグの足手まといにしかならないのですから」
「ヒ、ヒヒヒッ!!」
陰気な怨霊使いが、義兄に釣られたように笑う。
「お、お前も奴隷にしてやるぞ! 足を燃やして腕を凍らせて全身呪い漬けにして、ぜ、全部きれいに治してやる! そしたら兄ちゃんが高く売ってくれるんだ!」
「それはいい考えです、ネグ。元貴族の一級冒険者ともなれば、きっと高値がつくでしょう。あの見目のいい娘らごと犯罪者に仕立てて売りさばければ、ふむ……もっと大きな商館を借りることもできるでしょうな」
ぼくは嘆息して言う。
「ぼくの故郷には、捕らぬ狸の皮算用ということわざがあった。こちらに似た言葉はないのか?」
「ありますとも。しかし……今は使い時ではありませんな」
エルマンが笑みを深める。
ネグの怨霊どもが、一斉にぼくを向いた。
「あなたはもはや、毛皮同然でございますからなぁッ!」
火炎や風、呪いに阻害魔法がまとめて放たれる。
それらは、ぼくを囲む結界を前にすべて消失した。
だが、怨霊使いには動揺もない。
「ヒヒッ、結界だ! いつまでもつかなぁ?」
無数の怨霊たちは、攻撃の手を緩める気配がなかった。結界にもかまわず魔法を放ち続ける。
なるほど、大した火力だ。
レイスロードが空中を滑るように飛び、結界の周囲を浮遊し始める。
その動きは、小屋の鶏を狙う狐にも似ていた。
だが……身の程知らずも甚だしい。
「欲に目がくらんだな、エルマン。初めて会った時の、慎重だったお前はどこへ行った」
ぼくは呆れ混じりに呟いて、一枚のヒトガタを背後に高く浮かべる。
「長く商いを続けていたならば、お前も当然に知っているはずだ」
そして、小さく印を組んだ。
「商人が破滅するのは、いつだって欲に目がくらんだ時だと」
《召命――――空亡》
空間の歪みから姿を現したのは――――闇をまとった、巨大な太陽だった。
「な……ッ!?」
そのあまりに異様な姿に、エルマンが目を瞠る。
一瞬の停滞の後、ネグの怨霊たちが、今度は空亡へと攻撃を向け始めた。
だが、魔法は表面の炎に飲み込まれるばかりで、呪いもまったく効果を現していない。
「な、なんだこいつッ!?」
ネグが動揺の声を上げる。
その時――――偽太陽が脈動した。
ぼくは呟く。
「今宵の夜行は終いだ」
偽太陽へと、怨霊たちが吸い寄せられ始めた。
動きの鈍いウィスプやスピリットが、空亡の炎に飲み込まれて消える。ゴーストやレイスが抵抗しようと滅茶苦茶に暴れ回るも、偽太陽の引力には勝てず、為す術なく次々に吸収されていく。
「お……おれのッ、おれのアストラルたちが――――ッ!?」
まるで自分自身が飲み込まれているかのように、ネグが絶叫した。
「ぜ、ぜったいに殺す! 殺してやるッ! こんな……ッ」
レイスロードが、引き寄せられながらも凄まじい量の呪いと闇属性魔法を放ち出す。
膨れ上がった力の流れは、まさしく怨霊の王と呼ぶにふさわしいものだ。前世でもここまで力を持つ霊体はなかなかいなかった。
だが……所詮は霊風情だ。
「ォ――――ォォ――――――」
レイスロードが、空亡にあっけなく飲み込まれていく。
強力な呪いも闇属性魔法も、偽太陽の炎一つすら揺らがせることはできなかった。
「ヒ、ヒィッ!?」
「……まさか、こんなモンスターが……」
腰を抜かすネグと、愕然としたようなエルマンの傍らで、ルルムが掠れた声で呟く。
「闇属性の……火炎弾……?」
もちろん、そんなものではない。
空亡はれっきとした妖だ。
一つ、百鬼夜行が発生していること。
二つ、百鬼夜行が東へ進行していること。
三つ、夜明けの時分であること。
四つ、観測している人間が算命術における天中殺の時にあること。
この四つの条件が重なった時、百鬼夜行の最後尾に忽然と現れるこの妖は、妖や霊魂を飲み込みながら朝日に向かって進み、夜明けと共に消滅する。妖の中でも一層奇妙な性質を持つ、ほとんど自然現象に近い存在だ。
意思のようなものは一切見られない。人を襲うこともなく、炎のような体に近寄っても熱を感じることはない。
ただ、妖や霊魂に対してはとにかく無類の強さを持っている。
一度など、龍に匹敵する七尾の化け狐を飲み込む場面さえ見たことがあった。
日に晒せば消えてしまうかもしれず、言うことも聞かないため出しづらかったが、今回はうまく使うことができた。
結果も予想していたとおりだ。
「さて……エルマン。本題といこうか」
「ほ、本題……?」
うろたえるエルマンを余所に、ぼくは不可視のヒトガタを飛ばし、神魔の奴隷が入る檻へと貼り付けていく。
「決まっているだろう。商品を受け取りに来たんだ」
「え、は……?」
「取り置きは今日までだったな。もうすぐ日付も変わってしまう。急ぎ、引き取らせてもらおう」
《金の相――――金喰汞の術》
ガリアの汞が金属を侵食し、檻の鉄格子がボロボロと崩れ始める。
「……鉄が、腐って……」
騒ぎに目を覚ました奴隷たちがざわめく中、驚きに目を見開いたルルムの呟きが耳に入った。
ぼくはエルマンを見据え、そして懐から手形とペンを取り出す。
「いくらだ」
「は、はい?」
「残金を払うと言っているんだ。いくらだ? エルマン」
ガラスのペン先に、呪いによって黒いインクが満たされる。
「見積もりの金額は忘れてしまった。商品も二つほど増えたようだし、あらためて売り値を出してもらおうか」
天井の大穴から覗く二つの月と、闇をまとった巨大な太陽。
それらを背にしながら、ぼくはへたり込む商人へと告げた。
「さあ、どうした? 好きな額を言ってみろ」
※金喰汞の術
ガリウムによって金属を脆化させる術。ガリウムは融点が30℃程度しかない液体金属で、他の金属の結晶内部に侵食し、ぼろぼろにしてしまう性質を持っている。実際に発見されたのは近代だが、作中世界ではフランク王国(現フランス)の錬金術師がピレネー山脈近郊で採れる鉱物から分離しており、産出地域であるガリア地方からガリウムと名付けていた。





