第十六話 最強の陰陽師、発つ
「魔族領からの特使とは、妙な話もあるものです」
入学式の翌日。
ぼくは、本棟最上階にある学園長室を訪れていた。
小柄な矮人の老婆を前に、ぼくは言う。
「魔族は帝国の敵であり、彼らと正式な国交はない。その一方で、現在は目立った戦端も開かれていない事実上の休戦状態だ。ましてや彼らは一国ではなく、いくつもの種族の、さらにいくつもの部族に分かれている。魔王の時代には連合軍を作ったこともあるものの、国となったことは一度もなかった……。彼らのいったいどんな代表が、なんの用で訪れるのでしょう。それも帝都や国境沿いの街ではなく、ロドネアなどに」
「……わかりきったことを訊くのはおやめ」
学園長が、苦々しい表情で答える。
「そのようなもの、建前に決まっているだろう。勇者の娘を、連れて行くための」
「ええ、そうでしょうね」
「だがね……魔族がこの都市を訪れていたのは事実だ。無論、使者などではないが」
「ええ……どうせ勇者を討ちに来たのでしょう、二年前と同じように。彼らも死してなお人間の陰謀に利用されるとは、哀れなものです」
「…………お前さんかい?」
ぼくは薄笑いを浮かべながら答える。
「さあ。なんのことやら」
「……まあいいさ。今そのようなことはどうでもいい」
学園長は、険しい声音で言う。
「お前さんの見ている通りさ。グレヴィル侯爵は、宮廷の把握していた魔族の襲来とその死を利用し、適当な理由をでっちあげてあの娘を攫った。そこまで理解していながら……お前さんは何をしにここへ来た。みすみす生徒を奪われていったアタシを、責めに来たのかい?」
「いいえ」
目を伏せて告げる。
「ぼくはただ、知りたいだけです。どうしてアミュが連れて行かれたのかを」
「……」
「どうもグレヴィル侯とやらは――――勇者を、無理筋な理由を付けてまで始末したいように思える。それがわからない。国政を担う貴族が、なぜあえて国の英雄となる器を砕き、魔族への優位を捨てようとするのか」
「それは……いや」
学園長は何かを言いかけ、すぐに言葉を止める。
「アタシは軍事の専門家じゃあない。不確かなことを言うのはやめておこうかね。ただ一つ言えるのは……帝国は、一枚岩ではないということさ」
「……」
「ランプローグの、お前さんも貴族ならばわかるだろう。宮廷や議会や学会、都市に商会に貴族たちの間には、様々な派閥が入り乱れている。その中には無論、学園卒業生らの作る派閥もある。わかるかい、ランプローグの。学園が勇者を抱えているということは……彼らの派閥が、強大な暴力を手にするということなのさ」
「……」
「それを快く思わない連中もいる」
ぼくは短い沈黙の後に口を開く。
「その程度の事情のために……祖国と同胞を裏切って、勇者を……一人の少女を、殺すのだと?」
「そうじゃない。そうじゃないんだよ、ランプローグの」
学園長は諭すように言う。
「彼らは決して、単純な欲望で動いているわけじゃあない。そのような者はほとんどいないんだよ。政は複雑だ。彼らは彼らなりに、一族や、仲間や、帝国を思い、暗躍している。昨晩の暴挙だって……そうさ。おそらくは」
「ええ……ええ。わかりますよ、先生。ぼくがこれまで見てきた政争も、そうでした」
ただそれは。
ぼくやアミュの事情には、まったく関係ないことだ。
「ランプローグの。滅多なことを考えるんじゃないよ」
踵を返すぼくを、学園長が呼び止める。
「今、あちこちから宮廷に働きかけているところだ。どんな思惑で動いていたとて、あのような暴挙がまかり通るわけがない。おそらくは根回しすら満足に行わないまま事を起こしただろう。このまま朗報を待てばいい。きっとあの娘を……」
「滅多なこと、とはなんでしょう。先生」
沈黙する学園長へ、ぼくは薄笑いのまま続けて問う。
「まさかぼくが一人で、アミュを取り戻しに行くとでも?」
「ランプローグの。お前さんは……」
「そんなこと、できるわけがないでしょう。先生の言うとおり、大人しく朗報を待つことにしますよ。……ところで」
ぼくは、さらに続けて問いかける。
「その働きかけというのは、どのくらい時間がかかるものなのでしょう。あの子が拷問の末に気が触れるか、あるいは食事に毒を盛られ不審死させられる前に、確実に助け出せるものなのでしょうか」
「……」
「失礼、意地の悪い質問をしてしまいましたね。先生もアミュのために尽力していることはわかります。それについてはちゃんと感謝していますし、応援していますよ。せいぜいがんばってください、先生。では」
ぼくは再び踵を返し、歩みを開始する。
呼び止める言葉は、今度は聞こえてこなかった。
****
日が沈んでいく。
紫立っていた空は、すでに濃紺の色を帯びていた。
「――――為政者は皆、自らの持つ特権の由縁を、力以外のものに求めたがる」
人気の絶えた学園の広場。
ぼくは夜の帳が下りていく世界で、空を見つめながら呟く。
「正統なる血筋、崇高な法、もしくは信仰や、民の承認……王の一族だから、法に定められているから、神が言ったから、皆に認められたから……自分たちは、特権を持っているのだと。税を敷き、ルールを定め、誰かの自由を奪ってもいいのだと、そう言い張る。よくもまあそう都合のいいことを考えるものだと呆れるが……あるいは、力よりも尊いものがあると信じるからこそ、人々は争うことなく共に生きられるのかもしれない……。だけどな、ユキ。彼らは、往々にして忘れがちだ」
浮遊する一枚のヒトガタが、不可視化を解かれ、眼前にその姿を現す。
「そのようなもの、所詮は幻想に過ぎず――――」
ぼくは、その扉を開く。
「――――すべては、より大きな力に奪われうることを」
《召命――――蛟》
空間の歪みから、青緑の鱗を持つ長い体が伸び上がっていく。
龍は夜空に昇ると、まとわりつく式神を振り払おうと暴れ始める。
ぼくは声に呪力を乗せ、告げる。
「見ろ、龍よ。ぼくを見ろ」
蛟は、なおも暴れる。
「今のぼくは、お前の主に不足か。龍よ」
その時、蛟がふと動きを緩め、ぼくに頭を向けた。
湖を玉に変えたような青い眼でこちらをじっと見つめながら……ゆっくりとぼくの前へ、その巨体を降ろしていく。
やがて地表近くにまで来ると、その身に纏う神通力により、石畳の砂や木の葉が浮かび上がった。
ぼくは、思わず舌打ちしながら呟く。
「まったく、面倒な妖だ……大した力もないくせに、気位ばかり高い」
それでも、この国の都市一つを滅ぼすくらいは容易いだろうが。
「セイカさま」
頭の上で、ユキが言う。
「恐れながら申し上げます。この世界での生を、狡猾に生きるものと未だ定めておられるのであれば――――此度あの娘を救うことは、諦めるべきかと存じます」
「……一応、理由を聞いておこう。なぜだ、ユキ」
「今生でのセイカさまは、再び政争に巻き込まれることのないよう、力を隠して生きると決められていたはず。勇者は、そのための傘に過ぎません。傘を惜しんで風雨にその身をさらしては、本末転倒というものでしょう」
「何を言っているんだ、ユキ」
ぼくは、静かに言う。
「お前の言う傘には、代わりがない。勇者に替えはいないんだ。ここで無理をせずしてどうする。風雨など――――雨雲ごと晴らしてしまえばいい」
「っ……」
ユキが、一瞬言葉を詰まらせる。
「セイカ、さま……わかっておられるのですか? 此度セイカさまがお力を振るおうとしている先は……まさに、この国を動かしている者たちなのですよ? ご自分でおっしゃっていたではないですか! 彼らに力を見せて目を付けられれば……この世界でも、前世と同じ目に遭いかねないと……」
「それがどうした?」
言葉を失うユキに、ぼくは言う。
「先にも言っただろう、ここは無理をする場面だと。勇者は一人だ。救い出す以外に、ぼくの目論見を遂げる方法はない……力を目にした者など、消せばいいのさ」
「し、しかしながら……敵は、この強大な国の中枢でございます。そう簡単に事が済むとは……」
「力によって片が付くことで、ぼくに困難な事柄がどれほどある」
「そ、それは……」
「いいか、ユキ……この世界にも、前世と同じようにたくさんの国があるんだ。なに――――」
ぼくは告げる。
「――――一つくらい滅ぼしてしまったところで、どうということはないさ」
「セイカさま……」
ユキが、苦しげに言う。
「勇者は目的ではなく、手段に過ぎないのですよ……? セイカさまが、今生にて幸せになるための」
「無論、わかっているとも」
「ならば……っ」
絞り出すような、小さな声音。
「ならばなぜ……それほどまでにお怒りなのですか……」
沈黙を保つぼくに、ユキが言う。
「今一度考え直そうとは、思われませんか?」
「……くどいな」
ぼくは、声を低くして問う。
「妖風情が、まだぼくに意見するつもりか、ユキ」
「…………いえ」
ユキは、意外にもきっぱりとした口調で答える。
「セイカさまがそう決められたのであれば……ユキにはもう、申し上げることはございません」
「……頭を出すなよ。飛ばされるぞ」
ぼくは空中の式神を踏み、蛟の頭へと降り立つ。
口の端をわずかに吊り上げながら、一人呟く。
「さて……異世界の政治家諸兄よ、腕前を拝見しよう。果たして君たちに、最強を討つことができるかな」
ぼくは蛟へと告げる。
「西へ向かえ。龍よ」
蛟の纏う神通力が、力を増す。
ぼくを乗せた頭が、星の瞬きだした西の空を向いた。
巨体がうねる。
風が逆巻く。
かつて日本で、神湖を守護していた水龍は――――今異世界の空を、帝都へ向かい飛翔し始めた。