日記 2018/12/25 21:00〜。〈闇サイト事件〉を題材としたドラマを観て(一〜二)
昔も今も多くの犯罪が起きているが、インターネットの普及とその負の側面を示した事件の一つがこの〈闇サイト事件〉ではないかと思う。
当時も多くの報道があったが、私個人としての受け取りは当初、恐らく一般的な感想の一つで「恐いな」というものだった。事件の起きた一一年前、私自身はインターネット環境というものにほとんど触れたことがなく知識もゼロに等しかった──今も知識が深いとは言えない──が、「見知らぬ誰かと誰かが繋がる」ということが電子的なやり取りの中で成立し、現実の人間の動きとして発展することがあり得ることに驚いた。消極性の塊である私にはリアルに人付合いすることも困難であるから、顔も知らない人間と電子的なやり取りを通じて知り合ってリアルでの行動をともにするということがあまりに遠い現実にも思えもして、それも含めて「恐い」と感じたのである。
私自身の行動とは相反するが、インターネット上での知的活動は悪いことではない。人と人が繋がり実際の行動に発展すること、そこから新たに何かが生み出されること、それらがインターネット普及以前には必ずしも円滑だったとは言えなかったことを思えば、ずっと便利で効率的な時代になった。一方で、そうした電子的なやり取りが招いている負の側面、〈闇サイト事件〉を始めとするインターネット上のやり取りがきっかけとなっている事件は減るどころか増えているように感ずる。人類が増える以上、頭打ちもないようにも。殺人とは言わなくても、他者を傷つけ、他者の人生を狂わせ──同時に傷つけた側もその履歴が残ることで傷つく──という現象は小さな頃からよく学習させていてもなくならないと考えられる。それは、「人を傷つけてはならない」と小さな頃から親や兄弟姉妹、学校などで教わりながら、苛めや殺人といった言葉がなくならないことからも明白である。今日は超高齢社会で老老介護によって追いつめられている者も多いと報道されている。
どこで箍が外れるか本人すら予想できない。日頃からそういったことを考えていても、インターネット普及による情報量の多さから「正しさ」を求める指向性が高まり、ちょっとした間違いも吊るし上げるように「叩く」という悪しき現象も観られるようになった。それを逆手に取った「炎上商法」なんてものまで出てきているようだから私には難解な時代になっている。と、同時に、そのような不特定多数の「周囲」からいつでも叩かれ得る時代になって、理性的であり続けることは非常に難しい時代になっているとも言えるだろう。ゆえに発言は慎重にすべきであるし、私も利用しているツイッタなどで言えば「リツイート」や「いいね」も、一つ一つ考えて押すべきボタンのように思えもする。勿論、気軽にできる仕組が敷居の低さからウケるということはあるだろうが──、「だからこそ」と、踏みとどまる気持が必要なときも必ずあるだろう。犯罪も、その「だからこそ」が不足して起こっているように思う。〈闇サイト事件〉のドラマに犯人三人組のやり取りも見受けられたが、そこで「待った」を掛ける気配は誰にもなかったようだった。ドラマゆえの編集でカットされているのだろうか。それとも、現実か。もとより、闇サイトで繋がった関係性ゆえに目的を共有し、前のめりだったことは想像に固いが、群集心理、責任感が分散して歯止めが利かなかったのだろうとも観察する。
一つ印象的だったのは、犯人側の一人──以下「K」──が控訴取り下げによって死刑を受け入れたこと。ドラマでもKの子ども時代がポイントで描かれているが、そうした子ども時代を通して己の罪を振り返ったのではないか。ドラマゆえの誘導かも知れない、と、少し捻くれた見解も持つが、人間というものの知性を信じるなら、「だからこそ」がKの中で遅蒔きながら発生していたのだろうと思いたくはある。
ドラマを通して描かれていることとして、親子や家族の愛情はもとより、その形として「家」がある。これは私も先日完結した作品に書いた側面ゆえ共感した部分だった。帰るべき場所。それがあるかないかだけでも、人格形成や心の持ちよう、それから心の回復力が随分と変わるように思うのである。それが「家」という形で明確に示されているからドラマは解りやすかった。実際は、家がなくても平気という人は──多くはないと思うが──いると思うので、必ずしも「家」という形である必要はないとも私は考えている。その辺りは、個個人の考え方次第で、先のは私の考え方である。
最後に。ドラマが伝えたいのは始終描かれている「家族」であり「家」であり、「無関心」でもあると捉えている。どこかで誰かが生きていることはこの世で確実に起きている現実だが──、インターネットの普及に伴って情報量が増加したのに反して人間は細胞レベルではそれほど進化していないのが現実だろう。「インターネット」という不特定多数が集ってデータを出し合っている環境にアクセスして、個人がその全てのデータを吞み込めるわけがないのは細胞レベルで当然なのだ。人間は完璧ではないし、一人が負える責任はそれほど大きくはない。吞み込めるデータ量にも個人差はあるものの限度がある。インターネット普及以前から都市部では核家族化が進んでいて、近隣の人間に対してさえ無関心であることは起こり得て、実際に起こってもいたし、現在も起こっている。インターネット上での「不特定多数」とのやり取りに多くの人間は耐え得るわけがないとはその辺りから明白だ。私は前向きな発言が得意ではないので、「限界を作るな」、「不可能なんてない」というような文言を見かけて気が遠くなることも多いが、「限界を知る」ということは大切だ。限界を知れば、自分では無理なことを少し前に予測して危険を回避したりできるわけだから。そうした危険回避が「無関心」に繋がっているのだろうとも思うが、負えない責任を背負い込むよりは良心的かも知れない。
ただ、浅くてもいいから気になることには関心を持っていくことは大切だ。このドラマを観て、傷つけられた者達の苦痛に胸が痛んだし、傷つけた側の理屈は納得できない。「どちら側にも立ちたくない」と、私は強く思う。が、上述した通り犯罪はなくならず、傷つける側がいなくなることはないだろう。ならば、少なくとも「傷つける側」にならないようにすべきとも考えている。理想論ではあるが、「傷つける側がいないなら傷つく者もいない」という理屈だ。実際にはそんなことはあり得ないことは解っているが、努力次第で現実を理想に近づけていくことはできる。理想論はだから大切だ、とも。人間なら、夢を持っていきたいものだ。
──2018/12/25 21:00〜23:00──
2018/12/26 〈闇サイト事件〉を題材としたドラマを観て(二)
被害者遺族であるお母さんはこう仰った。「──、わたしは忘れたいんだけど、世間のひとには忘れられるということは娘がいたことも全部忘れられるようで、とってもつらくて寂しいから、それはやっぱり風化させたくないし、──」
と。これは、番組終盤、ドラマのあとのドキュメンタリとして放送された部分で語られた言葉である。
生きていれば、ひとには覚えていたくない記憶というものが必ず積み重なっていくもの。その多くからは当然目を背けたくなり、忘れてしまいたくもなる。お母さんは言葉通り、被害に遭った娘さんのことではなく、「犯人三人組の行動によって娘さんが亡くなったこと」を忘れたいのだろうと思う。そこに、大切なひとの死と、あり得ないはずの非日常が凝縮されているからである。
この事柄から学ぶべきは憶測にしかならない被害者遺族になったときの感情や立場ではない。ましてや、お母さんの気持を忖度することでもない。無論思いやることを否定するという意味ではない。お母さんや「会」の皆さんの歩みを支持できるなら支持し、見守り、行動をともにすることができるならするのがいいだろうが、住んでいる場所などによってそれは困難であることも多い。この事件に関してのみならず同様だ。ならば何を学ぶべきか。昨日も記したことではあるが、「傷つける側」にならないようにするということである。被害者本人がどんなに恐ろしい目に遭ってどんなおもいを持って亡くなったか、被害者遺族がどんな苦しみの日日を送ったか、憶測するしかないとしてもドラマやドキュメントを通してその痛みは十二分に伝わってきたのではないか。その痛みを自分のことのように受け止めて──それすら体験ではないために「憶測」としかいえないがあえて言えば「共感」ともいえるそれを──正しく「恐れ」を持って感じ入る努力をし、他者を「被害者」にしないために心を砕きたく思う。それこそが、「忘れない」ということなのだと思うのだ。この映像作品から私が改めて得たものは、そういった学びであった。
──2018/12/26 20:00〜25:00──