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『妄想「幸福の踏台」』更新記録。


※作品の文体とは一部異なります。

※該当作品の〔最新更新部〕は更新時こちらに移します。


 2019/04/30『妄想「幸福の踏台」』連載開始。

 『妄想』シリーズの新作です。物語は「破綻の日常」の約三箇月後から始まります。

 引籠りの父と押掛け女、育ちすぎの三姉妹とちょっと不思議な小人プラスアルファの竹神一家が中心となって展開していく物語を執筆して参ります。読んでくださった方の愉しみになれば幸いです。

 さて、前作とキーワードをほぼ固定しております。と、いうのも、良くも悪くも筆者である私は経験値が一〇歳に満たない成長の遅い人間なので、伝えたいことや書きたいことが大きく変わっておりません。

 今年の三月末には連載を開始したかったのですが、筆が遅いためにかなり時間が掛かってしまいました。この文章も零時を跨いで書いておりますので、非常に遅筆ですが……、引続き一所懸命に執筆して参る所存です。

 皆さんが幸せな人生を送れるよう願いつつ、以上、今回は書き収めます。

──2019/05/05──



 2019/05/17 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一章掲載。一部日記。

 二章目となる「一章」を掲載致しました。「始章」が「一章」ではないのか、と、いうツッコミがありそうですが別物という考え方ですので表記変更を致しません。

 この作品は前作より主観を散らして展開します。他者の作品を数えることしか読んだことがなく小説執筆も「ただ書く」ということで学んできたので私の作中文体が俗になんと表現されるものかも存じませんが、昔からこの書き方なので突き通します。もし世間に同じ文体が存在すれば作中文体も多少問題なく読めるものとなっているかと存じますが、そうでなかったら問題であろう、と、いうことで、念のため「癖が強い」とは今後も各作品の粗筋下部に注意書き致します。

 主観が散ることで感情移入できない構造になっておりますので、前作のように主観がほぼ固定されていた作品と比べると没入度が下がる場合もあるでしょう。書きたいことしか書きたくないとは散散記述したので以降控えますが、没入度を始め、著者としてのスタンスを崩すことに繋がるあらゆる考えを度外視するともここに記します。その理由は以前記述したことの延長線上ですので省略致します。

 さて、この章では平和に暮らしている一家を書きたく、蛇足的要素も多分に含んでいるようですが──。関係があるのか・ないのか、私は可愛いものが大体好きです。よく世間でいわれている通り「美しさ」には定義が存在します。一方「可愛い」に定義はないそうで、つまるところ非常に主観的で狭義的なものも含まれる概念ということになるでしょう。それゆえに多様で奥深いのが「可愛い」という言葉で、「可愛い」と言っておけば会話が成立するのがまさに象徴的です。無論、関係上の建前もあるでしょうが。個人的に「可愛い」とは「丸くて小さいふわふわしたもの」ということで、作品にはその手の存在をいくつか登場させております。全くもって私利私欲ですので表現を抑えるのが毎度大変です。

 キーワードにあるように、憎むべき要素をちょくちょく盛り込んで展開致します。創作物というものにリアリティを求める声が大きいようで経験の乏しい私としては息苦しいです。創作物は基本、筆者が本人の体験談を書いていても主観ゆえに嘘が含まれるものですから、リアリティなど求めるのはどうかと──、などと言訳がましいことを書くと無学歴の戯れなどと烙印を押されるのでしょう。それでもリアリティと逆行して書きたいことを書ける……。こういうときに「表現の自由」が保障された社会に生まれて幸せだと強く感じます。


 先に纏めを記そう。後述の事柄は「自分がされて嫌なことをしない」という教訓であると考える。

 表現の自由には少し堅苦しい言い方に「言論の自由」というのがあるか……。某議員の発言からそれが注目された今週の日本だった。他者を傷つける言葉を発した者を擁護する自由はなく、そも憲法は国会議員など権力者を縛るためのものと伺ったことがあるのだが、どうやらそうとは考えない方も存在しているようだ。「戦争」は悲惨の縮図。北方四島が侵略によって奪われたものだとしても取り返す手段を同じくすることはあってはならない。なぜなら、今の住民が、北方四島を追われたひとびとと同じ目に遭い、同じ感情を持つことになる。そうなれば二国の溝を埋めることは極めて困難になるだろう。いかなる理由があっても侵略戦争などやってはならないのだ。議員には教養が必要なのだろうが、それ以上にひとの痛みを酌み取る能力や、それが生ずる出来事の予測能力などが必要と感じた。

──2019/05/18一部日記。

 2019/06/12一部修正──



 2019/05/31 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二章掲載。ほぼ日記。

 「二章」を掲載致しました。


 この二週間も痛ましい事故・事件が多発し、重く感ずる。乱暴者が現れることを予測して動くことは、現状の体制では事実上不可能だろう。受身の対策では限界があり、それを嘲笑うように凶行に及ぶ輩が現れる。事件に的を絞れば、概ね女性や子どもを狙うケース、また、弱い立場にあるひとを狙うケースが非常に多いようだ。今週に起きた連続殺傷事件の被疑者(2019/05/31時点の呼称)については──8050問題・9060問題が絡んだ複雑な問題だろうが──身分証明書を持っていたなど、自己顕示欲を満たすための犯行であった可能性が高いと観ている。もし社会への不満や怨みが積み重なっている方がいるなら申し上げたい。いかなる理由があろうともその感情を暴力で発しては理解してもらえない。自分が傷ついているなら、相手を傷つけた際に負う気持を理解できる。「傷つけたひとを信頼するひと」はまずいない、とも。嫌悪するひとを周りに増やしてしまい、孤立化に拍車を掛け、自分で自分の首を絞めることに繋がってしまう。冷静に胸を打ち明けて、理解してもらえるまで話すこと、理解してくれるひとを見つけること、それが大切だ。自殺したり、他者を傷つける行為に全力を尽くせるなら、話し合いを諦めないことに全力を傾けてほしいと切に思う……。

──2019/05/31日記──



 2019/06/14 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』三章掲載。

 「三章」を掲載致しました。

 これに先駆けて作品全体の色を前作と統一致しました。少し修正を加える予定もございますが、基本のカラーパターンとして現在のものを使用していこうと考えています。

 今回の作品を筆者である私は学園篇とも捉えていますが、いわゆる学校での出来事や友達いっぱいのわいわい感を出したくて書いているわけではなく、勉強や運動で苦労する様子を書きたいのでもないので、そういった一種の「当り前」とは少しずれた話になっています。側面、「一種の当り前」を中心にしてもいるのでぶっ飛んだ話にもならず非常に穏やかに過ぎていくのか。前作である「破綻の日常」と比べると厚みは全くないと私自身が捉えていますが、一方で厚みや知識ばかりに固執したくもないのも本音です。振り返っても思い出せもしないどうでもいいことも人間はこなして生きているものですから、いいなりの高効率を目指す必要性を感じません。

 何が気になるか、何を愉しむか、どんなことに目線を向けて、どんなものに手を差し伸べるか。そのようなことを考えて、少しずつ掲載していこうと存じます。

──2019/06/14──



 2019/06/28・07/05・07/12 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』四章掲載。

 三節に分けた「四章」を毎週掲載致しました。

 この章では三姉妹の基本スタンスを表現しましたが、ここからいい意味・悪い意味で変化していくことになろうかと考えています。

 良くも悪くもひとは変わる、と、いうことを常日頃考えていますが、三姉妹とその両親がどのように変化していくのか──、著者として愉しんで執筆を進めていこうと存じます。この愉しみが皆さんのひとときの愉しみにもなれば幸いです。

──2019/07/12──



 2019/07/19 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』五章掲載。

 「五章」を掲載致しました。

 穏やかな世界もあれば、悍ましい影に怯える世界もあります。この章では、まだまだ狭い範囲ではありますが穏やかさと恐ろしさの狭間を漂うような日常を描いております。

 穏やかさを謳歌できれば人類としては幸せであろうかと考えますが、恐怖を蔓延らせて暴利を貪る恐ろしい影が世界には付き物です。ひとが傷つくことの原因の多くは、恐怖を元凶としているように感じています。戦争はその最たるものではないか、とも。

 就学時代に誰もが体感し得る恐怖は苛めではないかと考えていますが、五章では苛めによって負った心の傷との向き合いにも少し触れています。私個人の体験では自業自得の部分が多分にあったことと納得できておりますが、過ぎ去った出来事を理解・納得できても、体験している最中は堪えられないことも多いです。容赦のない仕打ちに対しては一時退避も視野に、命を守る行動を執っていただきたいです。間違っても自殺を考えてはいけません。仮に親や周りのひとが助けてくれなくても、助けてくれるひとが社会のどこかに必ずいます。自分の考えだけで「こうしなくちゃ」と決めつけず、自分の命を諦めないでください。相手を傷つけようとする手段は論外ですが、助かる道は自分の常識の外にあるかも知れません。

 先日発生した某有名アニメーション会社への放火事件にも心が痛みます。傷を負った方方はご自愛くだりますよう。亡くなられた方方に、心よりお悔やみを申し上げます。

 犯人の証言の真偽がどうであれ、暴力による訴えが罷り通る世界であってはならないと考えております。同社の作品を家族とともに愉しんでいた身として憤りが込み上げてなりません。これから制作・発信される作品への影響も気懸りですが、何より、同社や同社近隣住民の皆さんの心のケアが最優先されることを願っております。

 毎度のことですが話が脱線して日記化していきますので、この辺りで書き収めます。

──2019/07/19──



 2019/07/25 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』六章掲載。

 期日をやや早めて「六章」を掲載致しました。

 今章では軽めのバトル、いわゆる試合がございます。ファンタジでありながら魔法バトルではないのが残念なところでもあるかも知れませんが、登場人物に取っては大切な契機の一つです。作品テーマの中核に少し触れた章なので執筆中は視界が歪んだりもしました。年を取っただけかも知れませんが……。

 さて、世間では闇営業問題が取り沙汰されておりますが、ひとに笑いを届けたい、と、いう情熱があるひとびとには、その活動の本質を捉えていただきたいと存じます。バラエティ番組が好きでよく観ていましたが、時を経るこどに観たいものが減ったように感じておりました。それというのは、ひょっとすると芸人の方方の本音や、彼らをプロデュースする側の体制が透けていたからかも知れません。いつの日か誰も傷つかないお笑いで魅せてくれる芸人さんが現れることを祈って、書き収めます。

──2019/07/25──



 2019/07/29 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』七章掲載。

 六章に続いて期日を早め、「七章」を掲載致しました。

 記憶力に枷の私としては非常にややこしい時系列がこの辺りから入ってくるので、前後の章を含めて何度も見直して、慎重に執筆するいい機会になりました。記憶力は小説を書いているうちに少しずつ鍛えられてきたような感もありますが、家族には変らず抜けている感を指摘されておりますので、今後も注意したい点です。

 また、基本的な学習を取り零して育ったため計算一つ取っても心配になりますが、今後の章では単純ながらその計算がポンポン組み込まれていて目が滑って困ります。算数の教科書を一部国語化して読んでいるような感覚になるため、休憩をちょくちょく挟んで推敲しております。作品を書くことに関する大変さは愉しめますが、もとが単純な計算だけに、計算ミスや数字の見落しが恐くてたまりません……。

──2019/07/29──



 2019/08/09 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』八章掲載。

 隠蔽とうやむやに塗れた政治と戦争、死に直結する大惨事こそを叩くべきではないかと現在私は考えておりますが、世の中は個個人を叩く傾向が異常に強い気がしてなりません。

 私事では先頃に家族と口喧嘩をした次第ですが、その中で「ひとがひとの精神的部分の向上を求めすぎていること」を感じました。家族であれば日頃顔を合わせることもあって距離感を摑みやすいほうだと思いますが、縁もゆかりもない他人で、殊、芸能人が不祥事を起こすと「賛否両論」と題した槍玉に上げられます。その多くは関わりがないために容赦がなく、「自分に置き換えたときに向けられて平気な言葉を発しているか」と、いう問掛けに「大丈夫」と、堂堂と応えられるひとがどれだけいるか不明です。自分が日頃感じているストレスの捌け口にもなっているからああいった賛否──特に否──の声は集まりやすいのでしょう。我が身に置き換えたときに向けられて嫌な言葉はなるべく使わないことです。頭に来たときはつい暴言を吐いてしまうのも人間です。そうしたひとの心の揺らめきや浮き沈みを理解すること、ときには受け流してあげることが、ひとの寛容さであり優しさと考えます。各種ハラスメントを是認するのではございませんが、昨今はいわゆるハラスメント規制法などルールによる締めつけがきつくなるだけの傾向が強く、それを盾に他者との距離を無理やり離すようにする者も現れています。私の考えとは逆行して、ますます生きづらい世の中です。心が弱っているときに共感力や応答力が減退することはよくあることですし、常に一〇〇%頭を働かせているひともいません。体調の良し悪しもございます。加えて、ひとはそれぞれ異なる価値観を持っているものですから、ある個人の心や考えに副い続けることは自己犠牲なくして不可能です。誰にも余白・ゆとりが必要なのです。先程挙げた要因などによって気持や言葉の調節が利かないときもございますから、自分が怒り心頭に発してしまったとき、仮に暴言を吐いてしまったとき、あるいは暴力に訴えてしまったときは、同じことをしないように致しましょう。それを発せさせるに至った他者の言行には目を瞑るなり受け流すなりして、決してそのひとの人格・人生・経験を否定するなど極端な思考に趨らないよう注意したいところです。そうして距離感を測った結果、個人と相容れないと判れば別の個人と話していくのがよいだろう、と、今日日に考えております。

 と、脱線したようでじつのところそうでもない「八章」を掲載致しました。この章ではあまり絡まなそうなひとを絡めて──、貴重な執筆体験でした。世代の異なるひととの絡みは私も多くあって比較的書きやすかったのですが、現実においては世代間ギャップを感ずることもあれば感ぜさせたこともあった──であろう──から、それを不快に思うことも、愉しく思うこともあって、一言には表せない混雑したものが人間関係なのだな、と、改めて考えさせられました。

──2019/08/09──



 2019/08/16 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』九章掲載。

 いろいろなことが動き出す「九章」を掲載致しました。

──2019/08/16──



 2019/08/26 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一〇章掲載。

 古来より綿綿と続いている無理解という人間の業を打ち砕くため、鈍感さや無神経さというものがときに有効であることも世の中に出ると覚えることがあるかと思います。相手に気を遣ってばかりでは己の意見を曲げることにもなりますし、そうすることで自分に信頼が置けないのではますますアイデンティティの否定が加速化することは言うまでもないこと。かといって上辺だけ合わせるという柔軟性をネガティブシフトで身につけたところで精神衛生が悪化するので、基本的に人間は鈍感・無神経ではあればあるほど無様ながらにも図太く生き延びることができると考えられます。そこで繊細さが裏目に出るかといえば、周りの鈍感さや無神経さに潰されない限りは何事も前向きに捉えてうまく回していけると思うので問題ないことでしょう。神経過敏な方がいたら是非考えていただきたい。周りの無神経さに合わせて神経を尖らせても「向こう」は完全に認識していなかったり無視していたりするので「自分」が一方的に痛手を被っているという可能性を。そうであるなら神経を尖らせて過敏に反応しているのはつらいだけなので自分が楽なようにやればいいのです。過敏になったところで誰も幸せになりません。

 さて、衝突と融和の「一〇章」を掲載致しました。同じ環境で育ったとしてもそれへの体感・受容・感性が異なり育ち方が変化すれば絶対に理解し合えない部分も生ずるものです。それでただちに全てが対立するのでもないので折合が難しいのですが、「世の中に一〇〇%理解し合えるひとはいない」と予め判っていれば気楽なものです。人と人の狭間と書いて「人間」、折り合えるところだけ折り合って生きているのが人間ですから難しく考える必要などございません。

──2019/08/26──



 2019/08/30 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一一章掲載。

 良くも悪くも、あるいは結果として何も変わらなかったとしても、状況が動くのは能動的なひとの働きによるところが多いといつも感じております。「一一章」を掲載致しました。

 ひとは息をしているだけで十二分の価値を有している、と、いうのが持論ですが、その価値も白黒に分けてしまうと必ず黒が悪者となってしまい、排斥されてしまうのが社会でしょう。そこにどんな心があったとしても黒は悪質性として摘まれるわけですので生存価値はないという扱いを徹底的に受けますし、学校などに通っていると幼い頃からそのようなことを──直接的ではないにせよ──教え込まれるようになっています。そんな社会に融け込んでしまった「白」という価値観達はどうやっても抜け出せませんし、抜け出そうとしても容易には抜け出せません。抜け出そうと思って抜け出せるなら黒も「白」に戻ることが容易にできるでしょうが、そうはできません。

 先入観・固定観念・社会通念などなどのオプション的価値観が心を素直にはさせてくれません。と、いうようなことを最近しばしば考えておりますが生きる上ではそのような思考が邪魔になってしまうものなのやも。前章掲載時にも記した通り、無理解や鈍感さといったものが人間には必要不可欠であり、最悪、その塊のようにならなければ正気を保ってはいられない。だから世の中にはそういったひとを多く見かけますし、擦り切れて壊れてしまうひともいるのです。その誰にも心がないわけではなく、心がなかったわけでもないということを、忘れたくはないものです。

──2019/08/30──



 2019/09/06 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一二章掲載。

 このところは落書きすら描く余裕がなく精神不安定が続いております。そんな中でも、掲載するに当たって本作を読み返していると主要人物の葛藤と前向きさに触れ、自分の精神を揺るがすものの小ささを照らし出すことで安定化する部分もございまして、「一二章」を掲載致しました。

 無論、私自身には大きなものだからこそ精神不安定にさせられるのですが、そうしたときには「客観視」という距離を置いた見方が心の拠り所になることもございまして、心の平穏を保つ手段とも成り得ます。その考え方や捉え方に無理があるなら別の手段を用いますが、幸いにして今回は客観視でどうにかなる程度ではあり、主観に立ち戻っても不安定さが蘇ることを緩和するくらいはできました。

 今まさに追いつめられている、と、いうような方がいらっしゃるなら、思考・意識の転回ができることを願います。その苦しみや悩みが無駄になることはなく、また、生きている者として、その苦しみや悩みこそが価値あるものであり捨てる必要もなく、利用はできなくても何かの原動力にすることはできるはずである、と。

──2019/09/06──



 2019/09/20 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一三章掲載。

 先週は真夏が戻ってきて大変つらかったですね。熱中症対策や日焼け対策、栄養補給等等、皆さんも気をつけていることと存じます。暑い地域を描写するには役立っている気候ですが、体が疲弊して頭が働かなくなると私などは木偶の坊と成り果てるので、せめて倒れないようには気をつけて参ります。

 さて、ひとも倒れるような真夏にわざわざ外へ出てなぜ祭をするのだろう、と、考えることがございます。私などはひどく物音に敏感で騒がしいことは苦手ですから祭からは足が遠退いてしまいますが、雰囲気・香り・味、そういった風情、ひとの活気、それらが祭にひとを誘うのでしょう。その一端を描く「一三章」を掲載致しました。

──2019/09/20──



 2019/09/27 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一四章掲載。

 寝冷えするような気温となりました。湿度こそ夏を引き摺っているようですが、クーラを点けずに自然の風を感ずると大いなる対流の一端をその一瞬一瞬に体感しているのだな、と、大袈裟なことを考えたりも致します。

 大いなる対流は物語にも必ずあるものです。いわゆる縦軸がそれに当たるものでしょう。そこに絡みつくようにいくつもの横軸があり、複雑さを増した対流となるのですね。祭がしばらく続く「一四章」を掲載致しました。祭というのが物理的な動きのみで終わるならきっとこれほど長く、また、世界に広がるようなことはないのでしょう。見えるものもたくさんありますが、見えないものもしっかりと残っていくのですね。

──2019/09/27──



 2019/10/11 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一五章掲載。

 物語も中盤に差しかかり、不穏な影がちらつき始めます、「一五章」を掲載致しました。

 主人公は誰なのか、と、いう疑問が生まれるほど主観が切り替わる今作の中でも、今章は多くの主観が入り乱れ、主要人物の心にも迫る章に致しましたので、筆者自身にその体感はございませんが文量が多めとなっております。

 相変らず笊のように目が粗いですが、変らず懸命に書いて参ります。

──2019/10/11──


 2019/10/18 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一六章掲載。

 ここのところは身辺整理もあってほとんど筆を取れず筆者感覚が鈍っておりますが、一日のうちほんの少しでも書き進め、着実に更新して参ります。

 さて、どんなに話し合っても理解し合えそうにない相手というのは必ずいるものです。現代はグローバル化が進んで人生も多様化、思考も同様で、擦れ違い程度は日常茶飯事のように感じます。ただ、どんなに多様化が進もうと全人類と交流を持ち全人類と友人になれるということはまずないことでしょうから、「友人」あるいは「親友」と呼べるような人物が現れたら大切にすべきでしょう。自分のことを理解し、相手のことも理解でき、互いに愉しく過ごせ、喧嘩をしても次の日には元通りになれる、そうした人物は存外いません。

 そんな関係にあの二人がなれるか否か、と、いう「一六章」を掲載致しました。

──2019/10/18──



 2019/11/01 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一七章掲載。

 全年齢、一五禁、一八禁などのある種の規定があらゆる出版物や映画などに見られますが、以前観た深夜アニメなどは「アウト」な気が致しました。言葉の面でも映像の面でも放送禁止レベルなのでは、と。そうなると、深夜帯は規定が緩いのだろうか、と、思わざるを得ないので、たださえ複雑な規定事項が放送業界ではより複雑なのでしょう。

 さて、今作の大きな転機の一つ「一七章」を掲載致しました。語るべくもございませんが、前作と同様に描写に配慮のいる場面が多いので、掲載するに当たって「アウト」のラインぎりぎりまで寄せて伝えるべきことを記しております。一八禁設定にすればその辺りも縛りがないのかも知れませんが、縛りは表現を深めるためのものと考えて前向きに書いて参ります。

──2019/11/01──



 2019/11/08 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一八章掲載。

 敷きつめた秋、張りつめる冬。田舎と都市が綯い交ぜの我が町に年末が迫っております。

 自然の織り成す優美と捉えて人間が概念づけたものを綿綿と語り継ぎ、あるいは体感的に、もしくは感覚的に理解してきたのが我我現代人だと存じますが、果て、四季は存在するのだろうか、と、考えることが最近増えました。少し歩けば棒に──、ではなく、不自然に当たることが多いのです。例えば、子どもの頃には春の生き物と教わった蝶蝶をこの眼でよく捉えますし、空気も秋のようでいて夏へ向かうばかりの春のようなぬくもりを感ずることもしばしば。ひょっとすると、「四季」という形は温暖化の影響か、それとも別の要因か、失われつつあり、崩れつつあり、少なくとも、私が子どもの頃と比べると変化しているのではないか、とも。──ほかの説もございますが──梅雨を含めて五季という表現もあると耳にしたことがございまして、強いて言うなら日本はいくつもの季節が局所的に綯い交ぜの空間なのではないかと思いもします。その一部を捉えて季節を概念づけたのだとするなら、日本は古来から季節の多様性も育まれていたのだと感ずる次第です。

 さて、季節の多様性の低さもとい季節感の薄い世界を描く上ではその場の空気というものを大切に描きたく、ひととひとの共感が響く空気であったり、不和が擦れ合う空気であったりが存在してほしく、今回掲載致しました「一八章」の前半は、特に前者を照らしております。ぎこちなくも歩み寄る姿勢、その裏には葛藤もあり、卑しい心がゼロとは行かずとも確実に前を向き、上を向こうとする精神。全てを精細に書き出していた若かりし頃から季節の変り目の如く、一面では見えない空気を描けるような筆を手にしたいと遅蒔きにも考えております──。

──2019/11/08──



 2019/11/15 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』一九章掲載。

 著作物の多くからラブストーリが消えないのはなぜか。ひとはなぜラブストーリが好きなのか。ひとはなぜ恋愛感情をいだくのか。と、根本を探ったとき私は取留めのない答に辿りついた人種であるために、この現実は何があっても覆らず人類が文章や絵あるいは芸術においてラブストーリを手放すことはなくいわゆる「ネタ」が世界に出尽くしていたとしても著者・制作者は創作を続けていくに違いない、と、考えております。

 恋愛に重きを置く、また、恋愛が絡んだ物語はこの世にいったいどれだけあるのでしょう。数えたら切りがないこと請け合いですね。その数ある物語の欠片となるのでしょうか、「一九章」を掲載致しました。

 恋の形はさまざまで、愛の形もまたしかり。複雑のようで単純な、単純なようで複雑な、根源的な感情を仄かに描くことができていたなら悦ばしいことです。

──2019/11/15──



 2019/11/22 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二〇章掲載。

 物に溢れた現代。物欲を満たすものが何かと考えると、物を手に入れたときの心ではないでしょうか。ひとは心を満たすために物欲を生じて物を手に入れているということになりましょう。逆説的なことを申しますと、物欲が生じなければ物を欲することもなく心を満たすこともできないということになってしまうわけですが──、さておき、それ以前、物を手に入れるために何が必要かは多くの場合においてお金が絡むものです。何を買うにもお金が必要になり、仮に物物交換するとしてもわらしべ長者でもない限り元手はお金でしょう。

 そのお金がどのように生ずるかといえば、現実の地球という世界を捉えたとき、封建制からの移行など小難しい歴史の上に資本主義社会が構築されたとは歴史の授業でも習うことでしょう。はて、資本主義の根本は資本家の利益追求が原動力とのことで、雇われたひとびとの汗水が商品生産・製造などを成し遂げ、汗水以上の価値として認識されることでお金が増え、向上・循環していくのですね。そう考えると、安易な安売りは汗水の価値を下げる行為であり、そうした安売りに飛びついてしまう私のような貧乏性は無認識にも汗水を軽視している風になってしまいます。無論、法的問題もあって消費期限の切れかかった商品や旧型製品をいつまでも当初の価格で陳列しておくことは難しく、経営側が行う安売りを責めることはできません。消費者側の思考も同様、同じものであるなら少しでもお得に手に入れたいという気持や、電子化も進む多数大量のポイント・チケットを使用することも責められません。大量生産の悪点は大量消費から溢れた「一部」も「大量」であるという点に凝縮されるのかも知れません。溢れた物ですら物ではあるために、「ある」ということは認識され、枯渇することを想像しづらい現代こそに心の問題が潜んでいるような気が致します。

 労働の話に焦点を当てますと、冒頭にも記した通り物欲を満たすために必要なお金を得るための行為であることは明白ですが、ひとはそのためだけに労働しているわけではない、と、いうのもまた事実です。その労働自体に悦びを覚えるひとは少なく、その労働の先にあるモノに悦びを得たいと考えているひとのほうが多いのではないでしょうか。ですから、一般的にはやる気に満ちた重役と末端の労働者、また末端の労働者同士で意見の合うひとというのは貴重に感じます。意見の合致云云や他者との交流を求めていないにも拘らずひととの交流が避けられない職場で働いている場合は、賃金との擦り合せもありましょうがいっそのこと単独で働ける場所を探すのも手でしょう。

 脱線し続けたようですが、労働するに当たって、同じモチベーションの方がいる、同じ目線で話ができる方がいる、きちんと話が通ずる方がいる、と、いう点は賃金同様に大きなリワードではないか、と、いうことに触れたい「二〇章」を掲載致しました。

──2019/11/22──



 2019/12/06 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二一章掲載。

 目標と行動、努力と結果が望み通りに結びつくことはとても少ないのかも知れません、と、ネガティブな導入のようですが、「二一章」を掲載致しました。

 あらゆる目標は高望みなほどに高く設定し、努力は望みの結果以上のものを手繰り寄せるほどする、と、いうのが最も理想的ではございますが、人間、あらゆるしがらみがあってそうそう思い通りには行動も努力もできません。時間・体力という際限、精神・環境のバランスもございますから、腹八分目というある種のリミッタを設けて満足している部分もあることでしょう。ただ、腹八分目の努力で手繰り寄せた結果が望み通りのものでも、望み通り以上のものだったとしても、半信半疑になってしまうことがあるでしょう。自分はそれほどの努力をしたのだろうか、それほどの結果を望んだのだろうか、と。ですから、目標も努力も想像以上のものを設定し、それに届くように頑張らなければならないのだと考える今日この頃です。それでも、生き急ぐように走り続けていては体力が尽きて精神のバランスを崩すので、程良く休憩を挟む努力というものも必要だと感じております。体が疲れたら、気が触れたら、休息のタイミングや時間を見直すのが大切なのです。

──2019/12/06──



 2019/12/13 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二二章掲載。

 現代人が日常的に使っているものと言えば真先にスマホが思い浮かび、少し時代を遡ると三種の神器などと呼ばれた家電なども思い浮かぶところですが、そういった触れるとマイナスイオンや体温を奪われそうなものとは別に、フェイスタオルやバスタオル、衣類などに代表される布製品に触れない日もないのではないでしょうか。

 布製品が何でできているか。化学繊維がどんどん増えつつある現代ではリサイクルの観点からもペットボトルを再利用したものなどもございますね。でも、綿や絹といった天然素材の人気も衰えずあるかと存じます。個人的には、化学繊維や一部天然繊維が肌と合わないため使うことができませんが、いずれの繊維も使い方一つで寒い季節を快適に過ごすのに一役買ってくれることでしょう。例えば静電気。これは電子の失いやすさ・得やすさを表にした素材の「帯電列」を知ると緩和することができるといわれております。一例を挙げると、「アクリル(-)とナイロン(+)」、「ポリエステル(-)と羊毛(+)」などの組合せで服を選ぶと電子の奪い合いが激しくなり、静電気が発生しやすくなります。一方、「アクリル(-)とポリエステル(-)」、「ナイロン(+)と羊毛(+)」などの組合せは静電気が起こりにくくバチッと来にくくなるわけですね。

 さて、そういった繊維の中で、ファンタジに登場する服に用いられる繊維はいったいどんな繊維であるのだろうか、と、昔からよく考えます。有名な某バトルアニメと少女向け某アニメを比べると、服は服でも破れる・破れないという両極端な表現がされており、特に後者は破れないことに表現の不自由が存在しているような気が致しますが……さておき、「破れない」という事実が非常に面白いと考えることが未だございます。天衣無縫とまではいきませんが、破れない耐久性と防御性能を兼ね備え、ときには攻撃にも用いることができる繊維、それがファンタジ的繊維であるのではないか。と、結論したかのような「二二章」を掲載致しました。

 夏の寝苦しさも真青な寒気が毎夜襲ってきます。某アニメの藁敷ベッドのような優しさに包まれたい今日この頃です。

──2019/12/13──



 2019/12/27 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二三章掲載。

 前章更新時の話とも通ずるところではございますが、現代人の多くが手放せないスマホにはインフラとさえいえるインターネット接続環境というものが張り巡らされております。理論の詳細が解らない私のような機械音痴でも一定の言葉を打てばそれなりの検索ができます。未知の言葉を検索するとき危険との遭遇率が高まっていることも頭に入れておかなければならない時代になりました。人伝に言葉が入ってくるのは同じでも、自ら検索窓を開いて検索できるようになった瞬間、未知との遭遇が能動性を起点として簡単に発生するのです。どれもがドキドキワクワクできるようなもので無害であるならよいのですが、実際のところはそうとは限りません。インターネットのない時代に置き換えるなら、親の隠していた危険物の類をたまたま発見してしまうようなもので、場合によっては人生すら左右しかねない人格への影響も懸念されます。斯くいう私がその手の人格作用を受けて育ち、大きな失敗から引き籠もることとなってしまいました。立ち直ることは容易ではございませんし、未だ後遺症が残っております。

 そうした失敗を、子が、子の責任で負わなくてはならない時代がすぐそこに迫っているように感じております。親は、そんな責任を子に負わせるべきではないので、徹底的に情報管理を行い、スマホやタブレットといった携帯端末、インターネット接続できるゲーム機器など、あらゆる方向から入ってくる有害な情報・人間を警戒する必要がございます。人間に至っては悪意でもって近づいてくる者もいるでしょうから、一層に注意・警戒を怠ることができません。

 と、いささか脱線してしまいましたが、情報が溢れ返る世の中──、と、いう背景が共通する「二三章」を掲載致しました。いつの時代も子を守るのは親の責務であり感情でもございますが、管理という盾で抑えつけては子を抑圧してしまうことになりかねないので、思いやりが大切になって参ります。危険な情報や人間からどのように守りたいか、なぜ守らなければならないのか、言葉で理解できるような年齢であるならきちんと伝えて、粘り強く子と関係を築くことが大切です。血縁のない関係であったとしても同じく、真摯さが必要です。血縁に胡座を掻いたらそれこそ終りなのです。

──2019/12/27──



 2020/01/10 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二四章掲載。

 年末年始は子どもも大人も休日が増える時期です。働きすぎといわれている日本人の中には仕事以外にやることがなく手持無沙汰になる方もいらっしゃるかも知れません。そうして何もせずにいると連休ボケという危機的堕落状態に陥るので脂肪も増えれば死亡リスクも高まります──連休中の食べすぎは本当に危険です──ので、家族サービスや自分を高めるための情報収集、趣味などなどに勤しむことで連休ボケを和らげるのが望ましいでしょう。

 さて、新年初の更新では、「二四章」を掲載致しました。年初という時期に反してご来光が遠く、今も暗がりを彷徨う迷い多き人物が見つめ直すべきアイデンティティや経験に加え、別れの哀愁に焦点を当てたお話です。

 間違った入口から突き進むと思わぬ痛手を被るばかりか自分の原点すら忘れてしまうことになりかねません。それが一概に悪いこととは申しませんが、私個人の経験としては過去は捨てがたく切り捨てては現在が成り立たない、大切なものです。できる限り拾い上げ、見つめ直し、向き合って、その先に続く道を遠望して、当年を過ごして参りたいと存じます。

──2020/01/10──



 2020/01/24 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二五章掲載。

 子はあっという間に育っている、と、いうのはよくあることですが実際のところは少しずつ着実に成長しており、過程をすっ飛ばした成長はいわゆるチートというゲーム的設定にしか存在しないのではないかと存じます。

 あらゆる成長には土台と過程がございますが、はて、土台を確かめつつ成長していくことが現実にどれほどの割合であるのだろうか──、「二五章」を掲載致しました。愉しさに満ちた輝かしい過程の中で置き去りにすることもある小さなものを、この章からじわじわ記して参ります。

──2020/01/24──



 2020/02/07 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二六章片節掲載。

 風邪のような一時的な不調であればいずれもとに戻る・戻すことができますが、ひとを含めた動物にも植物にも、あるいは物体にも、不変的な特徴や傷と表せられるものがございます。

 ここでは「ひと」に焦点を当てますが、例えば壊死した組織を取り除いたために該当部位を失い、義足や義手といったもので補えたとしましょう。外見的にもとの形を取り戻して以前と変りない活動ができるようになったと理想的な状況を仮定した上で、「取り戻せたもの」は飽くまで「形」であることを認識してしまうと、ひとは前向きにはなれません。自分の血が通っていた血管も、赤子の頃から無意識に育んでいた細胞も、全てが別の物質に置き換わっているのです。違和感がないはずがなく、当然のように神経が繋がらないために感覚との差異もございます。科学が発展し、6G、7G、8G……と、通信技術も発展することを想定すると、義手・義足などの補装具と感覚神経を繋げてあらゆる意味で「もとの状況」を再現することができるようになることもあるのでしょうが、それでも、生まれ持って育んだものが取り戻せるとは限らないのではないでしょうか。

 そういった観点から、iPS(アイピーエス)細胞(さいぼう)──人工(じんこう)多能性(たのうせい)幹細胞(かんさいぼう)──を用いた再生医療は非常に興味深く、ひょっとすると「もとの状態」を取り戻すことに貢献するのではないか、と、以前から注目しております。余談ですが、いっとき話題となったSTAP(スタップ)細胞(さいぼう)にも注目したことがございまして、存在しないと発表されたときには肩を落としたものです。話を戻しまして、「もとの状態」とは申しましても、必ずしもそれが「最善の機能」だったとはいえないひとびとも存在しております。五体満足で生まれることは普通のようでいて、ひと一人が生まれることと同様にじつは奇跡的なことなのです。口許が裂けた状態で生まれた、脚を持たず生まれた、二人のひとがくっついた状態で生まれた、などなど、挙げれば切りがないほどの事例が世界じゅうにございます。生まれ持った特徴を個性として親や本人が認めて生きていくことは素晴らしい決断です。しかしながら、特にその特徴を持って生まれた本人が受け入れられない状況にあれば、極めて深刻ともいえます。その事態に対応できるのが「もとの状態」に戻せる可能性を秘めた再生医療ということです。そして先程私が「深刻」とした状況の場合、「もとの状態」ではなく「理想的な状態」を手に入れることができるといえるでしょう。「理想的──」という点では、古い思考の私のような人間にはある種の改造・人造人間的な観念があって恐ろしく感ずる部分もございますが、深刻な特徴を有する本人の選択の自由を守り、本人がより積極性を持って創造的な人生を歩め、それが本人や周りのひとびとの悦びに繋がるようなら、理想的な特徴を手に入れることもまた理想的といえましょう。

 現代において上述のような理想は半ば私の空想です。悪の組織に改造手術を施された某特撮ヒーロのような超人的な身体を手に入れるような極端なことは起きないのでしょう。それでももし人類がそこへ到達したとき、理性的・知性的かつ人情的に技術が活用されることを願っております。

 遠回りとなりましたが、生来の特徴に振り回されたひとの機微をわずかながら描いた「二六章片節」を掲載致しました。脇役が横軸となる今章を介して、メインの登場人物の内面の変化なども描いております。

──2020/02/07──



 2020/02/14 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二六章志節掲載。

 新型コロナウイルスに関するニュースが連日報道されていることに関連して、今回はマスクについて少し触れます。他者からの感染を予防する機能と、他者への感染を防ぐ機能、どちらの機能もあることはかなり昔からいわれていたように存じます。そうはいっても小腹が減ったり知人と交流する際のファストフードを始めとする食べ歩きは普通に行われており、そのときにはマスクを口許から外すので自然と感染リスクが高まります。今すぐ食べなければ行き倒れになる、と、いう状況はそうそうないので外出時のマスク着脱を控えたほうが安全性が高まるといえるでしょう。体調管理の一環としてマスクを備蓄し、転売業者に足下を見られないようにも気をつけていきたいところです。

 マスクの正しい使用法というものもよく報道されております。例えば、

①隙間を作らない。

②布面をさわらない。

③外出から帰るごとに袋に詰めて捨てる。

④可能ならひとと接触するたびに取り替える。

 などが挙げられるかと存じます。一般生活においては①〜③を心懸ければ十分機能するものと存じます。が、件の船内感染のような濃厚接触を避けられない状況においては、④を意識した上で、感染したと思しきA・Bが別の部屋にいたとしたとき感染リスクを下げるためにCが執るべき行動は、

⑤AまたはBと接触後マスクを始めとした防護装備を全て取り替えてBまたはAと接触する。

 が、大事であるとのことです。勿論、手洗い・うがい・消毒などの基本的対策も必須で大変な作業です。ここで示したCとは、検疫官などのことですが、実際はどうだったのでしょうか──。感染した方がいらっしゃったということですから、WHOの指針に準拠した対策かその実践のどこかに穴があったことは間違いございません。

 マスクの有効性を疑問視する専門家も存在しますので、個個人のできる対策には限界もございましょう。できる範囲での予防をして、もしそれらしい症状を感じたときは各自治体の電話窓口へ相談したり、医療機関へ連絡するなどして指示を仰ぐのがよいでしょう。いざというとき慌てないよう、何事も心構えが重要です。

 一種の予防ができなかったことを表現した「二六章志節」を掲載致しました。自らの失敗に後悔することは非常に多く、重いそれからの逃避は一時的であれば有効でもございます。しかしながら、それが続けば逃げ腰になり、逃げ癖がつき、正面を向くことにすら臆病になって不便が極まります。意識的に行ったこと、無意識に行ったことが思わぬ好機を招くこともございますから、全てに前向きでなくてもときに勇気を出して踏み出して参ります。

──2020/02/14──



 2020/02/28 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二七章掲載。

 先先週の話を引き摺りますと、「マスクのポイ捨ては回り回ってウイルス感染リスクを高める愚行でしかない」と、テレビの前で憤慨していた先週末。今週にはお湯を飲めば滅菌できるなどのデマが流れたとの報道もございます。

〔三七度前後の体内に潜伏するウイルスを飲める湯で殺せるはずがない〕

 や、

〔六〇度以上でなら殺菌できるが、それなりに時間が必要〕

 とは、専門家の発言ですが、こちらのほうが信憑性が高いでしょう。お湯が対策になるなら政府なり保健機関なりがとうに突き止めて積極的に情報発信していなくてはおかしいのです。

 デマというのは発信者の何らかの利益になるもので、昨今は迷惑メールなど詐欺への誘導として知られていますが、詐欺ではない場合でも一部商品の信用を高めるなどして利益を得るなど、形もそれぞれのようです。今週出回ったデマが厄介なのは、友人・知人・家族などから同内容のデマが転送されてきた場合、情報信憑性が関係性によってぼかされて信じやすくなってしまうこと。ひとの信用を横奪して拡散されるデマ、質が悪いですね……。注意深く正しい情報を集めて、信頼に値しない情報を無闇に広げないよう心懸けたいです。

 マスクの買占め・高額転売も問題の一つ。必要なひとに行き届かなくなってウイルス予防策が手薄になり、買占め・転売を行ったりしたひとびとにもウイルスの猛威が届きやすくなることは想像に固いので、問題行為はまさしく愚行と言わざるを得ません。

 使用済みマスクを袋に詰めて正規の手段で捨てたら次の話題です。間違った対応に面食らうことが時折ございます。RPGやパズルといったジャンルのゲームを好むゲーマ一家の一員である私は不具合報告などにおいてサポートスタッフとのやり取りをする機会がちょくちょくございまして、その中でも思わぬ対応に出会して意志疎通の難しさを感じてやみません。

 私などは記憶に支障があることやその場で言葉をぽんぽん出していくのが得意でないという難点もあって、些細なことから家族とさえ行き違います。顔を合わせたこともないひととの交流ともなれば対話のハードルを高く感ずるところ。間違った対応というのは往往にして私のような人間が起こしていることなのだろうと自戒し、できる限り謙虚でいたいとも存じます。

 リアルタイムの対話と文章上の対話とでは、後者のほうが正確性を高められますが、なぜか行き違います。なので、リアルタイムの対話ではより慎重に言葉を選んでいますが、やはりなぜか行き違う──、と、いう点を潜めつつ「二七章」を掲載致しました。一度はこの目を通しておりますので、伝わらない文章は筆者たる私の全責任です。至らない部分を埋めていけるよう努力するのは勿論のこと、挑戦的表現をしたり漢字表記などを意図的に難しくしている部分もございますが、読み返していただけた場合に理解が深まるような物語や文章になるよう修練して参ります。

──2020/02/28──



 2020/03/06 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二八章掲載。

 私が先週に記した「デマ発信者の利益」について少し掘り下げたく存じます。利益、と、いう言葉を聞くと普通は金銭が絡むものが主となりましょう。いまどきではSNSの「いいね」なども入るのかも知れません。金銭が絡まずとも、支持を集めることは一つの利益だと考えます。ひとが生きていく上で大切なものの一つに前向きさというものがあるかと存じますが、その前向きさがどこからやってくるか、ざっくりといえば自己肯定感です。では、それが何に支えられているかといえば、何かに認められていることや後押しを受けていること、それから成功体験などでしょう。ひとは何かに認められたり、支えられたりして、自己肯定感を高め、前向きになり──、ときに落ち込んだとき自己肯定感を求めて顕示欲を発し始めるということです。こういったサイクルは正常で通常は無害。ですが、自己肯定感を得ることが目的化すると前向きに思考・行動するためのエネルギが自己顕示欲を発することに大量消費されることになり、極めて不健全な視野狭窄に陥った挙句、周りから白い目で見られることになったりするのです。時折話題に上る従業員テロなどの多くがそれに当たるのではないでしょうか。

 「この情報を伝えなければ大変なことになる」と、善意で行った拡散行為がじつは大間違い、と、いうこともあるのが現代です。先のデマ拡散にはそういった善意が絡んでいたことも窺えます。私が小さな頃の井戸端会議で眉唾な情報を飛び交わせていたひとびとと携帯端末を持つ現代人とでは、個人が持ち得る拡散能力に何十倍あるいは何万倍以上もの開きがございます。「伝えたい情報が確かなものか調べる」と、いう一手間を加えるだけで誤情報やデマを拡散するリスクが低下し、混乱を未然に防ぐことに寄与できることでしょう。井戸端会議と異なり、今は調べることも比較的容易になっているはずですので、調べられなかったことは安易に拡散しない、と、いうように私は自分の中でストッパを掛けて過ごしております。

 さて、時の流れは早いもので、『妄想』シリーズを掲載し始めてもうじき一年半が経ち、二作目の今作も残り半分を切っております。以前の失敗を踏まえ、信念を曲げないと肝に銘じた今シリーズへの意気込み。これと重なるようでいて不完全な再出発を描いた「二八章」を掲載致しました。自らの足下に何があるかを見つめ直して原点回帰するも、求めてもいない後ろ向きな思考がちらつくことがございます。人間は不完全だからいい、とは、気休めや逃げ口上のようでいて的を射ています。疲れきっているときまで真実や現実と向き合い続ける必要はございません。ひとには心があり、心には休息が必要なのです。あるときふと、立ち向かいたい、と、思ったときに勇気を振り絞ることが大切でした。

──2020/03/06──



 2020/03/13 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』二九章掲載。

 この日記を含む更新履歴も飽くまで一個人の情報発信ということで作品に関する話以外は疑いの目を持って観察することをお奨め致します。と、予め申し上げて本文を記して参ります。

 専門家ですら分れる見解や真偽を追えないようなSNS情報が錯綜する日日に体が悲鳴を上げそうですが、昨日一二日木曜日『スーパーJチャンネル』で一五時頃に紹介された「HTS」という見方に一つのウィルス対策の法則を観たように存じます。

 HTSの和訳から入りましょう。同番組の説明によりますと、「高頻度接触(high-touch)環境表面(surfaces)」で、略した言葉がHTSです。まずはこの言葉を細かく分解して、HTSの意味を解りやすくしましょう。

 高頻度:たくさん繰り返される。

 接触:触れ合う。

 環境:取り囲む周りの世界・モノ。

 表面:モノの一番外側にある部分。

 次に、少しくっつけましょう。

 高頻度接触:よく触れ合う。

 環境表面:取り囲む周りの世界・モノの一番外側にある部分。

 と、ここまでくっつければある程度理解が進みますね。

 簡単に説明すると、

 HTS(high-touch surfaces = 高頻度接触環境表面):取り囲む世界・モノの一番外側にある部分で、よく触れ合う部分。

 と、いうことになります。

 さて、このHTSが具体的に何かと言えば、ウィルスが付着しやすい部分のことを指し、そこを知ることで感染リスクの低下が望めるということだそうです。HTSは、

〔生活する上でよくさわり、

ウィルスが付着しやすく、

ウィルスが移動しやすい部分。〕

 例えば、蛇口、レバ、ドアノブ、照明切替ボタン、リモコン、机の表面、ATMや精算機のタッチパネル、携帯ゲーム機などは勿論、手放せない方も多いでしょう、携帯端末やパソコン(キーボード)なども含まれます。一人暮しの部屋の中など管理が比較的簡単なHTSなら除菌することでウィルスの転移を防ぐことができ、手を綺麗に保つことも可能ですが、不特定多数が利用する公共の場や仕事先のHTSはこまめに除菌したとしても現実的にはウィルスコントロールができません。つまり、そういった部分がHTSの中でも特に気をつけるべき部分ということになります。仮にHTSを触れたあと、付着したウィルスが感染性を及ぼせるヒトの部位に移った場合、感染リスクが高まるのは言うまでもございません。

 HTSを意識した上で昨今感染を広げている新型コロナウイルス対策を考えたとき重要なことは、

〔ウィルスコントロールができない場所で何かに触れたら顔をさわらない〕

 と、いうことだそうです。これは、いわゆる風邪予防などと同じで、「うがい・手洗い」に通ずる考え方ですね。体から追い出すためにうがいをし、手に付着したウイルスをほかへ移さないために手を洗う、と、いうように、「手に付着したウィルスを顔に近づけない」と、いう考え方です。これを心懸けるだけでリスク低下を期待できるとも同番組で紹介しておりました。

 新型のウイルスの情報が過去・現在・未来で異なっていくのは性質が判明していくがゆえに仕方がないこととして──、マスクの使用方法と同じくHTSの見方や対策は個人ができる最低限の対策だと考え、ここに記しました。もはや世界じゅうに広がっているウイルスですが無闇に恐れて他者を排斥するのでは不安や差別を醸成するばかりで知性的ではないように感じます。何を恐れ、何に気をつけるべきか、それをきちんと見定めて、自然の脅威というものを正しく理解し、正しく恐れて参ります。

 周りが変わらない状況で無理に意見を通そうとして撥ね退けられる、と、いうことはよくあること。ウイルス対策も同じで、ひとに強要したところで対策をしないひとはしません。それどころか逆上させることにもなりかねないので自分の意見を押しつけたところでいいことはほとんどないでしょう。ならばどうするか、そしてどうなるかを描いた「二九章」を掲載致しました。コメディタッチを研究したい身でもございませんので変らず我が道を突き進みたいと存じます。

──2020/03/13──



 2020/03/27 加筆2020/03/28 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』三〇章至節掲載。

 趨勢・時勢・時流・風潮・潮目・流行・動向・トレンド・流れ──。類義語というものは非常に多く、何を使うか迷ったときはTPOを考慮するとよい、と、考えております。と、ウイルスの話題から一週間を置いて全く異なる話題から入らせていただきますのは、このところ時事ばかりを取り上げて作品の話が縮小ぎみだったことを省みてのことでございます。二月末の更新時にも触れたように、人間には行き違いがよく起こりまして、それをよく顕すかのような「お絵描き伝達」や「ジェスチャーゲーム」といった行き違いを愉しむ遊びが数ございます。連想ゲームなどに至っては個人の主観で先へ進めてより複雑化させていくので番が回ってくるプレイヤは先回りで答を考えることが難しく、瞬発力が鍛えられるかも知れません。

 いささか脱線致しましたが、行き違いは主観が入り込むことで複雑化するという点、それを表現するひとの個性でまた複雑化するという点が共通しているのではないかと存じます。今作を含め、私の作品は独自の文体を用いており読みにくいことを想定しておりますが、その読みにくさが大切な個性であり、伝達における行き違いの愉しさというものを伝えるに最適と考えておりますゆえ変えるつもりがございません。読んでくださる方がいらっしゃいましたら、上述の点を踏まえ、また、個個人の主観との違いを存分に愉しんでいただけたら幸いと存じます。

 時事のほうが愉しめた、と、いう読者の方がいらっしゃいましたら申し訳ございません。私が常に意識しているのは、私の信念に忠実であること。これを曲げたときに私の作品も文も全て崩壊してしまいますので、どうかご理解いただきたく存じます。しかし、揺るがぬ信念というのもなかなかないものです。ひとはとても弱い存在ですから、揺れることはとても自然なことですし責められたことでもございません。して、信じていたものが揺らめいたりずれたりすることもままあることです。そうして少しずつ社会に融け込み、調和し、自分の立場を築いていく「三〇章至節」を掲載致しました。私が執筆した作品の中で一二を争うほどの文量たる今作も終盤に差しかかっております。子の頃に書いた作品に比べれば技術を高めている自信があるものの、手の届かない夢に対する熱意は確実に子の頃に及ばないような気持もございます。体温と同じように確実に熱量が低まり衰えていく人間の身でモチベーションを保つのは難しいことですが、私は信念を曲げぬことで作品への熱意を常に増して参りたく存じます。

 作品の話というよりは所信表明のようになってしまいましたが今週はこの辺りで書き収めと致します。ウイルスもアレルギもまだまだ治まりそうにない今日でございますから、体調にお気をつけてお過ごしくださいませ。

 なお、日本における「外出・往来の自粛要請」は法律上「最大限の規制である」と報道番組で伝え聞きました。そうであるならなぜいっときでも自粛要請を解除したりしたのか。個人としては、何が・どこが()()なのか考えながら行動したいです。


 ──以下2020/03/28 22:00加筆部分──

 本日の会見で、「瀬戸際の状態が続いていると認識している」と首相が述べ、感染リスクが高まる三要項「密閉空間・ひとの密集・近距離」を避けて不要不急の外出を控えて(必需品の買物・仕事などの必要最低限の外出のみにとどめて)最大限の警戒をするよう呼びかけました。

 緊急事態宣言が可能となれば、「要請」より厳しい「指示」ができる旨もあり、しかし「命令」はできないとも聞きます。「命令じゃないなら大したことないんだね」と、軽んじないように注意し、「要請・指示」が最大級の警戒態勢であることに留意して過ごしましょう。

 その際には、感染リスク上昇を招く三要項を頭に入れて過ごすことも忘れてはなりません。「換気を心懸け、ひとと密集することを避け、近距離で(特に対面で)話したりしないように気をつける」のです。個人的には前回更新時に触れたHTS(高頻度接触環境表面)の概念も意識しております。アルコール消毒液が不足する現在は、塩素系洗浄液を希釈して用いることもして、よく触れる場所の消毒も行っております。

 経過を観ると、誰もが絶対に安全などということはないのが今回の新型コロナウイルスですね。各社報道によれば〔世界全体での感染者数は59万人超、死亡者数2万7000人超〕とのこと。その中には合併症で亡くなられた方もいらっしゃいますので、間違っても感染を促すような行動は避けましょう。

──2020/03/27

  加筆2020/03/28 22:00──

 


 2020/04/03 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』三〇章委節掲載。

 馴染のある風景や音が変化したり消えたりすると、胸に穴が空いたかのようになります。現在私が住んでいる周辺でも田んぼがどんどん消えており、替りに家が建ったり駐車場ができたり、と、生まれ故郷ではないのに物寂しさを感じてやみません。

 最初に触れた風景や音も誰かの原風景とは遠いものになっている、と、思うと、それもまた物寂しさを招きます。小さな変化・大きな変化、あらゆる変化の上に今が成り立っており、それをふと感じ取ったときに郷愁にも似た感傷──、去来する一瞬の沈黙を嚙み締めました。

 ひととひとのあいだでも、沈黙を嚙み締めるような出来事がございます。友人・知人・家族などとの関わり合いの中で感ずることが主でしょうか、「三〇章委節」を掲載致しました。過去をいつまでも手放せない、と、悩むことがございます。手放せるものであれば思いきって手放すことも一つの選択ですが、そうできないから悩むのですね。何かと重く苦い時勢ですからせめて意識は上に向け、握っているものが大切なものか見定めて少しずつ前進して参ります。

──2020/04/03──



 2020/04/10 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』三一章掲載。

 集団感染(クラスター)を防ぐ行動として「三つの密」を避けましょう、と、いう文言が公式に出てから二週間ほどが経ちました。イラストつきで文言が記されている首相官邸ホームページを参考に三つの密を記すと、

〔①密閉(みっぺい)=密閉空間(みっぺいくうかん):換気の悪い空間。

 ②密集(みっしゅう)=密集(みっしゅう)場所(ばしょ):多くのひとが集まる場所。

 ③密接(みっせつ)=密接(みっせつ)場面(ばめん):間近で会話や発声をする場面。〕

 以上のことですね。これが一つでも発生すると集団感染リスクが高まり、三つも重なると非常に危険であるとのこと。

 現実としては、不顕性感染が疑われている新型コロナウイルスですから症状が顕れていなくても──本人に自覚症状がなくても──ひとに感染させている可能性がゼロではないとも聞き及んでおります。未だ実態が摑みきれていない新型ウイルスが相手ですから、政府の自粛要請に限らず外出を控えている方は多いのではないでしょうか。必要最低限の買物・診察・仕事にとどめることで、自分が安全に過ごすことは勿論、陽性が判明したひとも、感染した自覚がないひとも、ひとへの感染を広げる危険性を低下させることができます。海外では零歳の赤ちゃんや若年層まで被害が広がっておりますので、若年安全神話はございません。〔二〇%のひとしか重篤化しない〕というデータも楽観視の要因にはなりません。その百分率に照らせば五人に一人が重篤化し、亡くなるかも知れない──、と、いうように危機感を持って、しかし過度に恐れず、皆さんが無事に生き抜けるように願っております。願いが重なるようにして、一人一人がひとを支えております。自他への感染リスクを高めないよう、マスクを装着する・手洗い・うがいを行う、三つの密を避ける、など、可能な限りの自主防衛手段を尽くします。

 と、申し上げた上で、ひととの関わりを最小限にとどめなくてはならないことも目下の課題です。副作用の観点から慎重に開発せねばならないワクチンを待ち、緊急事態要請を幾度となくやり抜かなくてはならない可能性があることも医療関係者に示唆されております。体力・精神・意識が試される日日に消耗が嵩んでおりますが幸いにして今は携帯端末ひとつで遊びが増える時代です。家で愉しむ方法や運動の仕方もあれば、個個人の趣味に合わせた視聴内容検索もできますから、晴らせる鬱憤をしっかり晴らして参ります。

 さて、家での愉しみ方の一つとして趣味は有益です。私の場合、引籠りの経験上一人で愉しめるものがもともと多く、ゲームをする、絵を描く、などが主軸です。紙を介して公共の場に広まっていた漫画や小説は公衆向けに存在していた古典的な娯楽の一つと存じます。私の作品が娯楽に当たるかといえば「趣味が一致するならば」と言えます。世界観的に明るくはございませんので晴れやかな気持になってもらえるとは考えておりませんが、このような時勢においてわずかでも息抜きに寄与できれば一著者として幸いです。窮地でも己の支えを確かめて前へ進む「三一章」を掲載致しました。

──2020/04/10──



 2020/04/17 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』三二章掲載。


 ※2020/04/15な執筆した日記兼私信です。

 行動自粛する中、「social distance = 社外的距離」や「stay at home または stay home = 家にいてください」など横文字がどんどん入ってきて外国語を翻訳機に頼っている私などは頭がパンクしております。そのように身近な「文字」という環境を含め、目下、日常が激変しております日本並びに世界各地です。何より激変しているのは生活環境であり、収入であり、精神状態でしょう。

 報道番組を視聴すると、情報の流れがこれほど急速な話題も稀と感じます。事実と異なる情報、状況に適切でない情報を含めると、一時は無駄な情報も垂れ流されている状態にあったと感じます。それを受け、一連のウイルス問題を扱う上で特に気をつけていることがございます。それが、他者に何かを期待しない、と、いうことです。唐突なようですが、ストレスが増すと免疫力が下がるとよく聞きます。皆さん各自の生活で手一杯で情報収集が追いつかないことも多いでしょうし、高頻度接触環境表面──high-touch surfaces = HTS──など自己判断で可能な限りの対策を尽くしたほうがストレスが少なくなって免疫力低下を防ぐこともできます。免疫が機能する・しないのそもそも論が中国で追究されつつあるようですが、ウイルスへの抵抗力が低い状態でいいということはございませんから免疫力の維持に努めたいものです。

 世界各地の対応策が挙げられるようにもなってきて、日本政府の動きがいかに鈍重か思い知らされるような思いも致しますが、それを責める前に自分ができること、例えば、

 ・三密を避ける

 ・①密閉空間を作らない。換気をしっかり行う。

 ・②密集しない。可能な限り一人でいる。

 ・③密接して会話等をしない。ひとと2m以上の距離を取る。(エアロゾル感染を避ける場合は4m以上とも聞く)

 と、いう三密を始め、


 ・マスクを正しく脱着する。

 ・ゴミを正しく分別・廃棄する。

 ・必要な外出を短時間で、一人もしくは必要最低限の人数で済ませる。

 ・無闇にものに触れない。

 ・ひとと対面しない。

 ・咳エチケットを意識する。

 ・毎日検温し、検温結果のメモを録る。(2020/04/15現在「発熱」の基準は「37.5度」が一般的と認識しております)

 ・検温メモとセットで、変調があったら時系列と詳細のメモを録る。(発熱がある、下痢をした、咳が出る、嗅覚・味覚の異常など)

 ・一日一日、どこで誰と接近したか判る範囲で記録しておく。(自分が感染時、また接近したひとが感染者となったときに、濃厚接触者を辿る資料になる)

 ・高熱が出たら各自治体の相談窓口に連絡・相談する。(いきなり病院に駆け込まない)

 ・無闇に救急車を呼ばない。

 ・医療従事者でない人間(特に上司など)の指示でPCR検査等を受けに行かない。

 ・流行の言葉に流されない・踊らされない(詐欺に引っかからないように注意する)。

 ・煙草をやめる。煙を吸わない・吸わせない。(肺の機能を維持し、肺炎リスクを低下させる。煙草にやられた肺胞は再生せず、それだけでも呼吸が苦しくなるなど高リスクとのこと)

 ・過度の飲酒をやめる。(記憶がなくなるまで飲むのはいろいろな意味で危険です)

 ・免疫力の高まるような食事をする。

 ・免疫力向上のための運動をする。


 などなど、考えて行動します。自分が意識している行動をしないひとがいたとしてもそれに苛立たないことも重要ですから、上述した「期待しない」とは、そのような意味です。知人・友人・家族であれば距離感のある注意ができますが、距離感の摑めない赤の他人に指摘すれば相手にストレスを与えることになり、嫌悪感をいだかせてしまうにとどまらず、たださえ意識が尖っているであろう現状で喧嘩の原因をわざわざ作る危険性もございます。

 ひとより自分。これはおかしな論理のようですが、ひとに指摘できるのは専門家である医療従事者のみでしょう。ひとを想えばこそ、医療的に素人の私は自分の行動を顧みるにとどめております。

 そういった自分の行動基準すら見定まらなかったと感ずる幼い頃を振り返り、「三二章」を掲載致します。基準が見定まらないと行先も見定まりません。基準があやふやだと思った方向へ進めていないこともございます。人類共通の知識というのは、行動基準を見定めるための定規になるのですね。ただし、正確な目盛を刻んだ定規、ひとと同じ目盛を刻んだ定規が常に手許にあるとも限りません。ひとはそれぞれの定規を持っていますから誤差もございます。その誤差を知識で押し固めてしまうのも多様性の現代では難しく、誤りのようにも感ずる今日日でございます。

 知る限りの感染予防を行うことが前提ですが、多様性の発展と平和を祈願して参ります。

──以上2020/04/15執筆──


──以下2020/04/16執筆──

 緊急事態宣言の発出が全国に拡大したとのニュースがございました。これでわずかでも感染拡大が鈍化し、医療従事者の皆さんの精神的・肉体的疲労が緩和され、なおかつ体外式膜型人工肺ECMO(エクモ)や医療用マスクや防護服など医療に必要なものの製造・補充が追いつけば医療体制の立て直しも可能となってくるのではないでしょうか。医療人を一朝一夕で育成できるはずがなく、失われた命は戻りません。知識・技術・経験を尽くす医療現場が最大の財産たる命を繋いでくれています。自分一人の行動がひとを死に至らしてしまう危険性を知ったからには、人命を救うため、上述したような自主的行動をしっかり行うとともに、新たな行動基準があれば取り入れて参ります。

 緊急事態宣言はひとまず五月六日までとのことですが、新型コロナウイルスは世界的拡大を観せており当初見込まれていた「夏の収束」は暖かい地域における蔓延からして期待できないと観る医療関係者もいらっしゃる。同人によれば「収束は『集団免疫を得た場合』と『ワクチンが開発された場合』」が考えられ、そのために必要な期間が「最低二年」とも。それら推察を基に考えられるのは、緊急事態宣言は今後も断続的に発出される可能性があるということ。その点は、複数の医療従事者の意見としても報道されておりますね。

 多くの著名人・有識者がいうように、政府には、自粛要請と補償をセットにする責任があると私も考えております。既に企業倒産が相次いでおり、生活破綻した、生活破綻目前だ、と、いう国民も存在しているでしょう。私もその一人です。補償がないのでは自他の首を絞めるのみになってしまい、物理的にも精神的にも行動自粛が続けられないからです。

 私自身は執筆を続けたく存じます。社会的距離を取りつつも、何かしらの形で社会に微力を添えられれば幸いです。

──2020/04/17──



 2020/04/24 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』幕間の日記。

 昨今、新型コロナウイルスの影響を受け、命の重さや死の危険を身近に感ずることが増えているのではないでしょうか。

 私としては、この時分に一作者としての命題を語ることは避けたかったのが本音ですが、時勢を観るに、むしろ今しか語れないことがあると考えてわずか触れることに致します。

 直接的な表現をするとあまりに残酷になるのでところどころ比喩を織り交ぜますが、私としては、幼い頃から身近に死が潜んでおりました。穏やかな昼と死に触れる夜が交互にあって、無情にも、幼い精神のまま大人になることを強制・強要されていた環境だったのだと振り返るところです。その影響もあってか、幼い頃は夢の世界、非現実でナンセンスでしかし死とは繋がらない世界いわゆるファンタジ世界──現代でいうならデジタルな世界もそうかも知れません──に憧れており、実際に、現実と非現実の境界を踏み越えてしまっていたこともございました。

 後遺症ともいえるものが今もって精神を脅かしており、しかしながらそれが作品作りをする上では大事な苗床となっていることも否定できず、アイデンティティを否定したり、死に瀕する夜を生き抜く上で犯した罪の数数を否定することは極めて困難です。アイデンティティも罪も私の一部ですから、嫌でも引き連れていきたいですし、手放したくはないものです。何より、目を背けるまでもなく常に胸に持っているので意識するまでもなく捨てられるものでもないのです。もしこれを失うことがあるとするなら記憶を失ったり、この世を去るときであるのだろうと考えております。

 刑罰では罰せられない罪も含めてひとは自分の戒めを持っているものではないでしょうか。知識の有無によらず、個個人で異なる戒めによって行動基準が大きく変わり、異なる行動基準同士が衝突したときこそ何かの物語が書き記されるものなのかも知れません、と、いう、難しい時分には避けるべきひととの接触を描く「三三章」を、来週掲載予定です。

 暗いご時世、明るい話題を求めたいのが心理です。気持が苦しいときは、私の作品を避けていただけると幸いです。ただ、この更新記録・雑記に目を通してくださる読者がいらっしゃるなら、苦しいときは素直に泣くこともしてほしいとはお伝え致します。誰が助けてくれなくても、誰が受け止めてくれなくても、涙を流すだけで随分と気持が軽くなることもございます。息を殺す夜を過ごしていた私としては、ときに誰かに受け止めてほしい気持があることも存じておりますが、そういうときこそ、付け入ってくる危険な存在がいることも存じておりますゆえ、自暴自棄になってしまわぬよう、身を守る心を手放さないようにしてお過ごしいただきたく存じます。

──2020/04/24──



 2020/05/15 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』三四章掲載。

 平和な世の中になった、とか、平和ボケしている、とか、いわれるようになったのは私が生まれた頃であったと聞いたことがございます。平和を享受し、平和ボケの只中を生きてきた世代といえるのかも知れませんが、私個人としてはとてもそうとは実感できない体験があって「平和」という言葉に自分の過去を重ねることが正しいようには感じません。

 目下、人類を挙げたウイルスとの戦いに強い緊張感が張りつめているように感じますが、そうでなくても、穏やかさを感じて生きてきたひととそうでないひと、世代ごとに両方が存在しており、プラス・マイナスの出来事や感情が常にあるのだと存じます。

 怪我や思い煩うことのない日常を過ごせたのならそれに越したことはなく、そんな日常を多くのひとが過ごせた時代が「平和」といえるのでしょうが、それは飽くまで相対的な話。光あるところに影が伸びるように明暗は隣合せであり、明るいところにいても暗闇にいつ引き摺り込まれるかは判りません。

 暗闇に引き摺り込まれようと、手探りでも歩んでいくのが人間でしょう。日常を守るため終りの見えない戦いを必死に続けてくれるひと、どんな暗闇にも負けず世界を照らしてくれるひとも存在しております。そんなひとびとを裏切るように国・国民のあり方を破壊する動きがございます。不条理なる暴力に突き進み、実際にそれを行なっているひとびとには自らの手と足を見つめていただきたく存じます。今は綺麗な手足も一線を越えた瞬間からもとには戻りません。ひとびとを暗闇に引き摺り込むような言行は厳に慎み、蒔いた種が穏やかに育てる世界になるように祈りを捧げる「三四章」を掲載致しました。

──2020/05/15──



 2020/05/29

 2020/05/31一部修正。ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』三五章掲載。

 各地で緊急自粛要請が解除されるなど、「ウイルスとの争い」から「ウイルスとの共存」へと移り変わる世界を感ずる時勢となっております。

 当初から接触感染と飛沫感染が疑われていた新型コロナウイルスですからHTS──高頻度接触環境表面──に気をつけたり三密を回避したり、できることを私もして参りました。皆さんもそうしてできることをして今日を迎え、明日を待っていることと存じます。事態が収束に向かっているのは、国民の犠牲と努力の結果です。私に限ってかも知れませんが、二転三転する鈍重な言行に心動かされたことは一度たりともございませんでした。

 もしかそういった二転三転の影響も大きいのかも知れません、多くのひとの心に負の感情が募っているように感じております。SNSという大きくも小さな器が影響した落命がございます。一つの批評によって非難が連鎖することもございますが、余程の愚行でない限り個人に向けたそれは少数の非難でしかないので気に病む必要はございません。無論、目を向け受け入れられたなら強みにすることができるとも考えますが、痛みを感じたとき、目を背けたくなったとき、受け止めて直視するのは避けるべきこと。それが自らの首を絞め胸を潰すからです。「向き合うべき」と、他者が強要することはあってはならないと考えます。件の実例を観察するなら、番組であり編集が入っている時点で現実(リアル)として観察することができませんが……、「本気で打ち込んでいることに関わるものを台無しにされたことを笑って許せる者がどれだけいるか」と、いうことを考えれば怒り心頭に発することは当然のことと多くの方が判断でき、理解できるでしょう。

 犯罪であれば、基本的には法が裁くことですから個人が個人へ向けて批判を向ける必要はないでしょう。犯罪が事実であれば批判する側が却って危険な可能性もございますから、警察などに通報すべきです。犯罪でなければ、そもそも個人が個人へ直接非難をすべきことではないでしょう。それが表現の自由というものです。非難するなら、陰口と捉えられる程度に距離を置くべきです。その陰口も非難する側の心の弱さであるのだと私自身の経験でもって考えます。他者の意見を探さない私のような人種はまず行わないと存じますが、積極的にエゴサーチなどを行わなければインターネット上の非難は耳に入りませんので、第三者が本人に伝えることも避けるべきでしょう。その第三者が非難の媒介者となり、実質的に非難の悪性を発揮させてしまうからです。非難に寄った意見は突き刺さるものですから、私は探しませんし基本的に聞きません。ですから、善意めいて「こんな意見があった」などと非難寄の意見を媒介するのは、悪行に等しいと考えます。

 しかし、思いがけず耳に入る非難も少なくありません。では、耳に入ってしまった非難をどう(かわ)せばよいか、どう受け止めればよいか。「これは少数の意見だ」で、済ませられないこともあるでしょう。前向きになれないことは誰しもあるのです。そも、前向きになることばかりが人類の強さでもないでしょう。言葉を向けるということは、意図してしかできません。ですから、私の場合は「叱咤だ」とか、「構ってくれた」とか、「時間を割いてくれたんだな」と、考えるようにしています。どうでもいい相手なら無視するでしょう。あるいは、非難する側の心が刺刺しくなっていて指一本の捌け口を探していただけだとしても、「その相手として私を選んでくれた」と、考えるようにしています。主観的であれ、「探されたこと」、「探し出されたこと」が、非難された側の存在の大きさを象徴しているからです。目に見えない小さなものに、ひとは意図して触れることができないからです。そしてひとは、小さなものに元来慈悲深いものだからです。意図して潰そうとするのは、小さなものが大きく育つのが恐い、と、いう大きなものの弱さです。して、ここで一つ示したいのは、指一本も一〇〇人分あればひと一人を押し潰す力を容易に持ち得るということであり、物理的に示すならひと一人を萎縮させる面積を有して迫るということです。それが心理的にどんな影響を与えるか──、太陽を背に、瞼を大きく開いて、壁の前に立ち、暗い影を見つめていれば解るでしょう。すぐ傍に光があるのに、目の前には影しかなく、前に進めないのです。

 それらを常常作品にも込めてございますが、まず、私は鈍重でも言行を裏切らず着実に執筆して参りたく存じます。

 さて、信念が折れたとき、大切なものを奪われたとき・失ったとき、ひとはとても弱くなります。その弱さを知り、支えてこそ、ひとの生は繋がっていくものだと考えます。して、迷走する信念や奪われまい・失うまいと大切なものを必死に守ろうとする気持が、取り得た手を退けてしまうこともございます。何かに迷ったとき、気が立っているとき、自分が何に素直であるか、自分が何を大切にしているか、見直しが必要なこともございましょう。そこへ向けて抓み上げた情報の側面を見定めていく「三五章」を掲載致しました。

──2020/05/29

  2020/05/31一部修正──



 2020/06/12 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』三六章掲載。

 気温が上がり、梅雨に突入、マスクをするのがつらくなってきたと家族の口からも漏れるようになってきたこの二週間、情けなくも自ら苦渋を招いてしまうという失態を犯しました。飽くまで私的なことですので深くは語りませんがこうした失敗をしたときは謙虚さを取り戻すべく自らの傲慢さを戒めるようにして参ります。とかく、自らの悪性に気づいたら素直に謝ることが必要です。

 さて、あらゆる状況で無理解と理解が交錯するのが人情。相反しているようで同居していることも多いこれを、ひとは常に繰り返してございます。理解してつもりでいて無理解になっている部分があったとか、準備万端整えていたのにいざという場面で思いもしない不完全性に遭遇するとか、思いもしない新たな感情に戸惑ったりするということもしばしば、と、いう「三六章」を掲載致しました。

──2020/06/12──



 2020/06/26 ハイファンタジ小説『妄想「幸福の踏台」』三七章の一節掲載。

 時事も多数取り上げました更新記録でしたが物語も残すところ数章となりましたので、今作品について私の思いを記しておくことに致します。

 前作「破綻の日常」の主人公とその彼が作った家族が主体の今作ですが、家族以外の多数の主観を取り込んでおります。前作と異なり多人数のキャラクタが登場するから、と、いうのが理由の一つですが、物語の軸を捉えるため重要なキーワードを発してくれる存在に焦点を当てるためでもございます。

 私の中で重要なのは、視点ごとに私の思うことを描けていたり、表現できていたり、あえて描写しないことであったりするのですが、その辺りの匙加減を是とするかはどこまでいっても読み手次第と考えております。どのような感想を持たれても、そのような見方ができる、と、いうことを受け入れたく存じます。

 と、このような姿勢で他者の言行に対して推測を述べると「決めつけるな」と主張を受けたりもします。「推測」としている時点で「決めつけ」という言葉が当て嵌まりませんが……、対等かつスムーズに会話できる相手がいかに少ないかをそのやり取りで感じたものです。かと言ってこれで会話を諦めたり流れのままなあなあにしてしまうと真剣に会話することもなく惰性の付合いになってしまうのでしょう。気を緩めたいときもあるのでそのような関係が全て悪いものとも存じませんが、言葉に携わる者としては嵌まりたくない()()とも感じております。

 脱線は日記の常。家族との会話もそうして脱線が続き、期せずして会話が弾むこともあれば失笑から本物の笑いが生まれることもございます。そのような団欒を引き寄せる「三七章」の一節を掲載致しました。

──2020/06/26──


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──現状以上──

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