日記 2019/04/08 「乱横断」について。並びに「引籠り」について。(2019/04/09加筆)
昼のワイドショー『直撃LIVE グッディ!』(以下同番組)で、横断歩道のない自動車道を横断する行為を「乱横断」と称して問題視しているのを観た。その多くが高齢者によるものだと同番組で報道していた。これが道路交通法違反であるのはいうまでもないが、それを行う者の言い分──理由──について個人的に考えてみたく思った。
乱横断の理由は、①時間短縮、②膝が悪い、が、最たるもの。①は若年者にも観られる理由で、②は足腰の弱った高齢者に観られやすい理由である。
ここでは乱横断をする者を「横断違反者」と仮称することにするが、横断違反者には罪の意識が薄い。①取締りが弱い、②交通事故は基本的に車両側の責任(これは信号に従って横断歩道を正しく渡っていた場合に限るので事実誤認)、と、いうのがその一助になってしまっているのだろうと思うが、❶「みんながやっている」という心理、❷忙しい世の中で自分の自由時間を確保するため、❸仕事の効率化が求められているため、と、❶〜❸は私の推察だが、十分考えられる理由だ。
横断パターン別の事故率についても同番組が伝えていた。道路に対して垂直に横断する「垂直横断」が最も事故率が高く六一%を占めているという。専門家の意見として、〔横断違反者が「渡れるだろう」と過信していることや、その横断違反者の身体・判断能力が低下している〕ことが要因となって事故が起こるとしていた。斜め横断のほうが道路にいる時間が長いため危険なように思えるが、じつはそうではないということが事故率からも察せられるところである。一方で、この「じつは」には実状が欠けているとも感ずる。と、いうのも、「垂直横断をどのような状況で行っているか」が表現として含まれていなかったため、車両側がどのように認識して事故が起きてしまうのかが欠けていた。例えば、同番組によれば斜め横断における事故率は垂直横断時の半分以下とかなり低いが、それは「斜めに渡れると判断できるだけのスペースがある」と、いうことも意味しており、車間距離や道路自体の広さにある程度の余裕があるものと察せられる。人間が車両と並走するのは無理であるから、斜め横断中に車両がやってきても「車両側がうまく減速してくれている」とも推察できるところだ。それに甘えるようにして横断しては最悪は死を招くので危険である。
さて、垂直横断であるが、こちらは横断違反者の移動距離が最も少ないが、裏を返せば、車間距離や道路自体が狭いことが推察できる。例えば、「信号で一時停車中、または違法駐車中の車両の間を縫って垂直横断している」とかだ。この場合、車両の陰から横断違反者が突然現れることになり、車両側から観れば避けようがなく、事故率が上がるということである。
また、事故率の高い時間帯として日没前後が挙げられるとも報ぜられていた。暗くなり、横断違反者を認識しにくくなるためだ。これに、前段落で示したような状況が重なると、事故を避けるのは極めて困難である。暗い時間帯でも車両側に発見されやすい明るい色の服──白・橙・赤など──を着ていたり、反射板などを装備していたとしても、車両の陰から現れたのでは物理的に停まる時間がなく轢かれることも想定できる。
信号のない道路を横断してはならない。と、ここまででも十分理解できるが、人間誰しも心に隙がある。慌てていたりするとどうしても自分の意識が優先されて身勝手になってしまう。私が現在住んでいる愛知県では毎年のように交通事故件数・死者数ワーストを記録してしまっている。その一端として、私がよく目にするのは信号無視の車両──渋滞ぎみなら赤信号一回につき二台は当り前──で、歩行者側が青信号になったのを観て渡ろうとしたら轢かれかけたことも一度や二度ではなく、むしろ毎回といってもいいので、毎回、車道側から車両が来ていないか確認してから渡っている。「場所によっちゃ赤信号のときのほうが安全」といって有言実行しているひともいるが、その場合、横断歩道を渡っていてもあらゆる保障が利かないので私はお勧めしない。対して歩行者側も横断違反者となっていることが多多あり、小さな頃は私もよく行っていたので反省すべきと考えている。法律が守ってくれるのは法律を守っているひと──と抜け穴を目敏く利用している人間……──だけである。事故となれば、横断違反者が一〇〇〇万単位の賠償金を負うこともあり得る。と、金銭面で考えるのは現実的に抑止力と成り得るだろう。賠償金を支払うこと前提で金持が違反をするのは許しがたいが。
何にしても、自転車・バイク・軽自動車・トラック、いろんな車両が人命に関わる事故を起こし得る。人同士でぶつかってもそれなりのダメージがあり得るのだから、小さな痛みから大きな痛みを想像して注意を怠らないようにしたいところである。同じく愛知の県民性か、歩行者でも道を譲るという考え方が薄く、「視野が狭まっているんだろう」と推察できる歩きスマホの人間に限らず、目が合っているのに突撃してくる、半ば喧嘩腰とも取れる人間が多すぎるので恐いと感ずる。プラットホームから線路に転落した視覚障害者や高齢者がいた、と、いう話もこういった譲り合いの精神の欠如で発生しているケースがあるのではないか。突撃している人間は「避けろ」と強要していることに気づいておらず罪の意識も薄いのだろうから繰り返す──、と、いうのは余談である。
して、ここで本題に入ろうと思う。横断違反者の言い分についてだ。同番組でもコメンテータが述べていたが、道路の多くは高度成長期に整備されたもので謂わば「若者仕様」である。「歩道橋」もその一つといえるだろう。
私が思うに、それは道路や歩道橋だけでなく、人間の意識の部分もだ。先に触れた愛知の県民性ではないが、私が若い頃は三〇代の相手ですら「頭固いな!」といらいらさせられたものである。ただそれは、そのひとが頭が固いからというだけでなく、そのひとなりに培ってきた人生経験があるがゆえに発生することであって、案外よくあることなのである。そしてそうした傾向のあるひとびとは、高齢者ほどその色を濃くするのが当然である。横断違反者の心理として罪の意識や悪意がないのは、「昔はこれが普通だった」とか、「今まではこれで平気だった」とか、大丈夫だった経験が培われていることによる。同時に「轢かれたら自己責任」というある種の自罰的思考もある。そういった思考から培われた「生存の実績」によって過信してしまうのは無理からんことである。が、ちょっと待ってほしい。自罰的なのは勝手だが、その危険性に巻き込まれる周囲の人間のことも考えてほしいのである。強いていえば、「あなたを轢いた車両は壊れます」と、いうことである。それによって「運転手だけでなく轢かれたあなたも責任を問われます」と、いうことである。「『これまで轢かれなかったから大丈夫。事故で死んでも自分のせい』と、割りきっているのはあなただけで、轢いた側は『あなたを轢き殺してしまって嫌な気持になる』」と、いうことを少し想像してほしいのである。そこまで想像してから、自罰論を展開して開き直るならどうしようもない。勝手にしろと匙を投げるしかない。が、さらに想像を広げてみないか。例えば、「轢いた側があなたの大切なひとだったら」、あるいは、「あなたが轢いたのはあなたの大切なひとだったら」──。
現道路環境は、少なくとも、健常者を前提としており、足腰の悪い人間に優しい仕組とは考えにくい。公共施設などではエレベータやエスカレータが設置されているが、全ての道路に設置するのは諸費用からしても現実的ではない。とは言え、違反をして、轢かれて、自他ともにタダで済むことはないのである。それなら、自他ともに安全な道を選ぶのが賢い学びというものだろう。それが最も「効率的」とも思う。歩道橋を上るのがつらいなら、誰かに手を引いてもらったり、おんぶしてもらったりすることを避けないでほしい。社会を発展させてきた高齢者や何かに苦しんでいる人間を心から侮蔑したり避けたりする人間は思うより少ない。また、誰かの手を借りることは何も恥ずかしいことではない。人間は弱い。力及ばないことはどんな場面でもあり得る。補い合い、支え合ってきたのが人間だ。それを恥と考える人間なら死ぬべきだ。
同番組について中高年の引籠り問題──俗にいう5080問題──も報じており、同項において「広義の引籠り」についても報道していた。
同番組によれば、「広義の引籠り」とは、以前の引籠りとは異なり、「自室や家から出ない」という概念ではなく、「近くのコンビニや趣味のためには出掛けるが普段は家にいる」などを含めた概念だそうである。つまり、家事手伝いなどを含んだ無職を括る概念ということになるので、個人的には乱暴だ、と、考えた。時代で解釈が深まり概念が変わることはままあるし、それを否定しては発展もないのだろうが、なんでもラベリングして枠で括ろうとする時流があるので、対策まで画一的にならないでほしいと感ずるのである。特に、「引籠り」という問題は私も体験しているので他人事とは思えない。身体的な問題から生じている場合もそうでない場合も、必ずといっていいほど心の問題が横たわっているのがこの問題だ。引籠り問題が報ぜられるたびに私は感じてきた。同じ「引籠り」として報ぜられるひとびとと比べても「自分とは違うケースだ」と感ずるのである。その体感を根拠として、似たようなケースがあったとしても十人十色、全く同じ心の問題は存在しないとも断言できる。なんでもラベリングする、すなわちさまざまなものを細分化するなら、そこに発生している心の問題も細分化して個個に対処するくらいの気概でなければ解決できない、と、考えてほしい。が、現実は「広義のラベリング」がある通り、大きな枠に嵌めて一括して捉えがちである。興味のない人間ほどその広義のラベリングでしか認識せず掘り下げないので問題が無駄に深化するとも言っておきたい。問題意識を持つ上で「そういう概念があるんだ」と捉えるためのきっかけとしては大きな枠も意味を成すが、一方で大きな枠が掘り下げられないまま絶対的な力を持ってしまうこともある。劣等感を感ずるとそれを口外することは難しい。殊、社会において収入格差ほど劣等感を感じやすいものはない。そのことからも判る通り、他者・他家族との比較によって劣等感を生ずるがゆえに引籠りであることを他言しづらいことも解るだろう。「大勢のざっくりとした認識が引籠りを否定的に見ること」でますます引籠りは自己肯定感を得ることができず、引籠りから脱することも難しくなっていってしまう。
無論、「引籠りを否定的に見ている」とすること自体が乱暴とは思うが、事実として「引籠りを肯定的に見ている者に会ったこと・見たこと・聞いたことはほぼない」ので、否定的な世間の空気は事実だと断言できる。「気持は解らないでもない」と引籠りに寄ったような意見を述べる者もいるが、そのあとには大体は「なんとか外に踏み出してほしい」とか前向きなことを言うのである。それができるなら誰も引籠りにはならないのだから、そうした意見を述べる者は引籠りの解決に関わっていこうとする気概に欠けていると捉えられても仕方がない。勿論、全員が全員、「否定的な姿勢を装っている」なら別だが、そうとは考えにくいのが実状である。
私が危惧するのは、「広義の引籠り」が、「狭義の引籠り」に深化してしまうことである。近くのコンビニや趣味のためなら外出できていたひと──以前なら劣等の烙印を捺されなかったのに時代の流れによって引籠りの概念に引き摺り込まれてしまったひと──が、他者との繋がりを拒絶し、自分で自分を否定し、自宅や自室に引き籠もってしまうことである。また、そうした自覚・認識を持ったあと、他者との関わりを持つ機会が減った挙句、一種偏重的な報道番組やインターネットなどで「引籠り」に対する否定的な大きな枠──大勢の認識──を知ることで尚一層自己否定を覆すことが難しくなることである。自己否定は、極めて深刻な問題だ。自己の認識であるから、改善しようにも相当真剣になってくれる相手が現れない限りは変化することがない。また、自分でうまく解決できるならいいが、それが難しいから引籠りがちになり、自己解決は難しく、さらに引籠りがちになってしまう。
同番組では、締めのように「引籠りを突き放さないことが大事」とコメンテータが述べているが、それもまた画一的な表現でしかないので一概にはいえない。突き放さないほうがいいこともあれば、突き放したほうがうまくいうこともある。在学期間に引籠りになったひとびとの場合、多感期に画一的な教育の場から離れたケースであることもまず捉えてほしい。画一的な対策でうまくいくわけがない、と、そこから考え直してほしい。対策は、千差万別なのだ。昔は画一的な飼育をしていた動物ですら今はそうではない。時代が流れてさまざまなことが細分化されたように、もともとが繊細なひとの心はより繊細に細分化されるべきである。
同番組で報じていた中高年の引籠りに関する一部データ。
【引籠りのきっかけ】
退職:36.2%
人間関係:21.3%
病気:21.3%
職場に馴染めない:19.1%
【引籠りの男女比率】
男性:76.6%
女性:23.4%
退職がきっかけで、男性が多いのか、と、ざっくりと捉えることができるだろうが、これもまた一つの大きな枠である。「男性で、きっかけは退職」でも同じケースはないと考えて一人一人に向き合うべきである。現在LGBTが広く認識され始めているように、人間を「男女」の二種で分け、結びつけることも難しくなっているし、そこには常に心の問題が横たわっているのである。
──2019/04/08 21:00〜23:00
掲載2019/04/09 12:12
一部修正・表現見直し:同日12:35──
──以下2019/04/09加筆12:37〜12:55──
ワイドショーに期待されるのは正確性や掘り下げより、キャスタ・アナウンサ・コメンテータなどのその場の空気ややり取りによるエンターテイメント性だろう。同番組に関していえば生放送であるから正確性や公平性に配慮が行き届かない部分もあると思う。人間である以上、全てが完璧に回るということは無論ない。
こうして改めて考える機会が与えられたことを個人的には感謝したいと思う。が、一方で引籠り問題の「大きな枠」を拡散するだけになるのも報道番組として観たときは至らないとも感じてしまう。情報化社会で、知りたいことはいくらでも自分で掘り下げることのできる時代かも知れないが、日本は超高齢社会に突入していることは周知の事実であるから、テレビ視聴のみで終わる人間も少なからずいる。掘り下げるためのリサーチを掛けるためインターネットに接続する、と、いう環境自体がないひともいるだろう。テレビ番組でも注意点はしっかり議論しておいてほしいな、と。
──2019/04/09加筆12:37〜12:55──




