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オレンジ色の夕日に照らされて

作者: 日下部良介

 本当は戻ってなんか来たくはなかった。地元に居ると、いろんな面でしがらみも多いから。けれど、いままで暮らしていた東京に留まるのはあまりにも辛すぎる…。



◇◇◇◇◇



 友里子(ゆりこ)は高校を卒業すると東京の薬科大学へ進学した。卒業後は大学の附属病院で薬剤師として働いていた。院内の医師や看護師たちとは学生の頃から顔見知りで、楽しく働くことが出来ていた。

 ある日、友里子は若手の内科医、村井佳(むらいよし)(のぶ)と彼が担当している患者へ処方する薬剤について話していた。すると、突然、抱きしめられて告白された。

「君の仕事ぶりにはずっと感心していたんだ。そのうち、君を女性として意識するようになってしまった。君さえよかったら僕とお付き合いして貰えないだろうか?」

 友里子はどうしたらいいのか判らずに、村井を突き放してその場を離れた。それ以降、村井は友里子に詰め寄るようなことはせず、それまでと同じように接してくれていた。そんな彼に友里子は少しずつ心を開いていった。数か月の後には恋人同士と言えるくらいの間柄になっていた。



◇◇◇◇◇



 市街地から少し離れたショッピングモールの中にあるドラッグストア。そこが友里子の新しい職場だ。

 友里子が薬剤師になろうと思ったのは、母親も同じ仕事をしていたからだ。そして、ここを勧めてくれたのも母親だった。



◇◇◇◇◇



「そろそろ帰ろうかな…」

 友里子は電話口で何の気なしに呟いた。

「ちょうどよかったわ。宮田さんが薬剤師を探しているのよ」

 理由を聞くでもなく、母親は友里子の逃げ道を用意してくれた。友里子の性格はよく知っている。だからこそ母親は友里子に考える余地を与えずに前を向かせようとしたのだ。友里子は考えれば考えるほど落ち込んでいくということを母親はよく知っていた。

 宮田というのは母親の幼馴染で、この町で古くから薬局を営んでいた。そして、最近出来たショッピングモールにも店舗を出したところだった。友里子との電話を切った後、母親は宮田に頼んだ。

「給料は安くてもいいから、ウチのバカ娘を雇ってくれないかしら」

 と。

 宮田は快く引き受けてくれた。



◇◇◇◇◇



 従業員通用口にある守衛室で受付をする。

「今村友里子さん…。あっ! ありました、ありました。ミヤタ薬局さんのところですね」

「はい。今日からお世話になります」

 愛想のいい守衛はにっこり笑って、事前に店から出されていたIDカードを友里子に手渡した。

「頑張ってね!」

 友里子は苦笑して店舗のバックヤードへ向かった。


 既に他の従業員はそこに揃っていた。友里子の姿を確認すると、社長の宮田が友里子を手招きした。

「今日から薬剤師として働いてもらう今村さんです。よろしくね」

「宜しくお願いします」

 あっさりした紹介だったが、遊びに来た訳ではないので充分だと友里子は思った。


 薬剤部には既に女性の薬剤師が一人いた。友里子は彼女からここでの仕事を一通り教えてもらった。

「本当にいいタイミングだったわ。これで私も安心して辞められるわ」

「えっ? 辞められるのですか?」

「そうよ。ほら、これだから」

 そう言って彼女は少し膨らんだお腹をさすって見せた。

「本当は妊娠が判った時に辞めると申し出たのだけれど、後任が見つかるまではって社長に頼みこまれちゃって」

「そうだったんですね…」

 友里子が不安げな表情をすると、彼女は言い足した。

「しばらくは一緒に居てあげるから心配しないで」

「はい、宜しくお願いします」

 木村(きむら)典子(のりこ)がやさしそうな人でよかったと、友里子は安心した。

 大学病院とは全く違った雰囲気の職場ではあったが、友里子はここでなら上手くなじんでいけそうな気がしていた。



◇◇◇◇◇



 比較的定時の友里子と当直の多い村井とではプライベートを過ごす時間がなかなか合わない。当然、院内でいちゃつくわけにもいかず、いつともなく、友里子は村井のマンションに同棲するようになった。

 しかし、そんな生活も長くは続かなかった。村井に院長の娘との縁談が持ち上がったのだ。友里子は部屋を出て行くのと同時に病院も辞めた。そんな時、母親に電話をしたら地元で薬剤師としての仕事があるからと帰郷を勧められた。



◇◇◇◇◇



 ここは同じショッピングモール内にあるクリニックの調剤薬局も兼ねている。診療が始まる午前10時からはちらほらと病院の処方箋を持った客が来始めた。その中によく知っている男性の客が居た。石田(いしだ)(ひろ)(とし)。友里子の小学校・中学校の時の同級生だ。

「友里子か?」

 石田は周囲をはばかることなく、声を上げた。

「ちょっとこっちに来いよ。久しぶりだなあ。いつ戻って来たんだ?」

 友里子はカウンターまで歩み寄ると小声で浩利に呟いた。

「仕事中だからごめんなさい」

「ああ、そうか! ごめん、ごめん。じゃあ、仕事終わる頃に出直すよ。何時に終わるんだ?」

「そんなの判らないわよ」

「じゃあ、終わったら電話してくれよ」

 そう言って石浩利は処方箋の裏に携帯電話の番号を書き込むと、カウンターの上に置いて立ち去った。

「ねえ! これ、置いて行っちゃダメでしょう…」

 友里子が慌てて声を掛けた時には既に浩利は店の外へ出たところだった。


 夕方の5時を過ぎた頃に電話が鳴った。典子が電話に出た。そして、チラッと友里子の方を見た。

「今村さん、お電話よ。石田さんだって」

 友里子は浩利のことなどすっかり忘れていた。そう言えば、仕事が終わったら電話をしてくれとか言われたような…。でも、まだ終わったわけじゃない。受話器を受け取る友里子に典子はウインクをして見せた。

「そんなんじゃないですから…」

 そう言って友里子は受話器を受け取った。

「もしもし…」

『何が違うって?』

 友里子が受話器を耳にあてた途端に、いきなり受話器から聞こえてきた。今の友里子の言葉が聞こえていたらしい。

「ううん、なんでもないわ。それよりどうしたの?」

『仕事はもう終わったか?』

「もう少しだけど…」

『そうか! 良かった。それじゃあ、くつろぎ広場の青いベンチで待ってるからな』

 それだけ言うと、浩利は電話を切った。くつろぎ広場とはこのショッピングモールの中心にあるオープンスペースだ。いくつかのエリアに分けられていて、それぞれ違う色で区分けされている。浩利は青のエリアで待っていると友里子に伝えたのだ。つまり、既にこのショッピングモールに来ているという事だった。

「デートのお誘い?」

 典子がからかうように尋ねてきた。

「だから、そんなんじゃないって言ったじゃないですか」

 友里子は仕事に戻った。


 仕事が終わったのは午後7時を過ぎた頃だった。浩利のことなどすっかり忘れていた。店を出て、ショッピングモールを歩いていると、誰かが呼んでいる声が聞こえてきた。

「おーい、友里子! こっちだ、こっち」

 浩利だった。

「うそ!」

 電話があってから二時間も経っているのに、浩利はまだそこに居たのだ。友里子の姿を確認した浩利はすぐに駆け寄ってきた。

「遅かったな。ちょっと待ちくたびれたぞ」

「ずっと待ってたの?」

「ああ、約束したからな」

 友里子にしてみれば約束した覚えはない。浩利が一方的にそう言って、返事も聞かないまま電話を切ってしまったのだから。

「腹減ったな。飯でも食いに行こう。積もる話もあるしな」

 そう告げると、浩利はつかつかと歩き出した。友里子は仕方なく浩利の後を追った。友里子も確かに腹は減っていたから。

 今まで、待たされることはあっても待たせることのなかった友里子は二時間もの間、ひたすら待っていた浩利についてどう受け止めればいいのか判断しかねた。浩利とは小・中とずっと同じクラスだったのだけれど、これと言った印象は残っていなかったから。



◇◇◇◇◇



 村井と最初にデートをした時もそうだった。夜勤明けで非番の村井が十分な仮眠を取れる様にと待ち合わせ時間は午後八時だった。村井が予約したレストランに友里子は時間通りにやって来た。けれど、村井がやって来たのは9時を回ってからだった。

「担当の患者さんが急に具合悪くなったって呼び出されちゃって。結局、眠れなかったよ」

「いつも大変ですね」

 友里子はそう言って労う事しかできなかった。


 別れを切り出された時もそうだった。

「話したいことがあるから、部屋で待っていてほしい」

 院長の娘との縁談があるという話は知っていたし、きっとその事なのだということも解かっていた。友里子はただひたすら村井の帰りを待っていた。けれど、朝になっても村井は帰って来なかった。友里子は自分の荷物をまとめて部屋を出た。



◇◇◇◇◇



 浩利が友里子を連れて来たのは老舗の寿司屋だった。

「あ、坊ちゃん、お帰りなさい」

 浩利の顔を見た店員がそう言って挨拶をした。

 坊ちゃん? お帰りなさい?

 坊ちゃんとはどういう事だろう? お帰りなさいということは、ここが浩利の家? 友里子は首を傾げた。子供の頃に、何度かここには来たことがあったのに…。

「この年になって坊ちゃんはないよな」

 そう言って浩利は笑った。


 二人は奥の個室へ通された。

「ビール、グラスは二つな。あと、適当に盛ってくれ…。あ、それから、帆立を多めにな」

 注文を終えた浩利がそれでいいかと友里子に確認した。友里子は頷いた。

「石田君って、帆立が好きなの?」

「何言ってるんだ! 帆立は友里子の大好物だろう?」

「えっ?」

 確かにそうだ。友里子は帆立が好きで、ここに来たときは帆立ばかりを食べていた。それにしても、どうしてそんなことを知っているのだろう…。ここが浩利の実家であることは解かった。しかし、友里子は浩利を店で見かけたことなどなかったと思った。


 この日は小学校や中学校の頃の思い出話に花が咲いた。とは言え、盛り上がっているのは浩利ばかりで友里子にしてみればあまり記憶にない内容ばかりだった。それでも、仲が良かった友達の話などが出てくると、友里子も懐かしくて楽しく過ごすことは出来た。


「また機会があったら誘ってもいいか?」

「ええ」

 友里子の返事に浩利は満足そうだった。帰りは送ると言った浩利に、すぐ近くだからと断りを入れて友里子は帰宅した。


 友里子を見送ると、浩利は空を見上げた。

「聞けなかったなぁ…」

 そう呟いた。また会うことを取り付けたにも関わらず、肝心な友里子の電話番号を聞くことが出来なかったのだ。



◇◇◇◇◇



 ミヤタ薬局は本店とこのショッピングモール以外にも近隣3県で7店舗を展開している。そして、各店舗を統括して管理しているのが宮田(みやた)(けい)(すけ)、社長の長男だ。

 本店から近いこともあって、このショッピングモール店にはよく足を運んでいる。


 友里子が勤め始めてから三日目。啓介が店にやって来た。

「見掛けない顔ですね」

 もうすぐ店をやめる典子と打ち合わせをしていていた啓介が友里子の方を見て言った。

「私の代わりに薬剤師として働いてくれることになった今村さんですよ。社長から聞いていませんか?」

「いや、聞いていませんけど…」

 典子が友里子を手招きした。友里子がやって来ると、典子は啓介を紹介した。

「全店を統括管理している宮田専務よ」

「はじめまして。今村です。よろしくお願いします」

 友里子はかしこまって挨拶をした。啓介はにっこり笑って右手を差し出した。友里子が手を差し出すと、啓介は更に左手も添えてきた。

「こちらこそ宜しくお願いします。木村さんが辞めるというので困っていたんですよ。助かります」

 そう言って啓介は時計を見た。

「もう、午前中の診察は終わっているね。三人でお昼に行きませんか?」

 病院の診察時間が終わるとここを訪れる客も来なくなる。薬剤師の昼休みはその時間に合わせて取られている。それを確認して啓介は二人を食事に誘った。


 啓介が二人を連れて来たのは寿司屋だった。そう、浩利の実家の。店に浩利は居ないようだった。友里子はなぜかそのことに対して安堵感を覚えた。

 店に入ると、啓介は二人の背中を押して奥の座敷に上がり込んだ。

「特上の握りを三人前お願いします」

 そう告げて二人に向き合った。

「やった! さすが専務。太っ腹ですね」

「今まで頑張ってくれた木村さんを労うためですから。そして、これから頑張ってもらう今村さんへの応援の意味も含めてです」

 寿司が運ばれてくるまでの間、啓介は友里子の経歴を一通り聞いた。

「へー! 東京の大学病院ですか? 優秀なんですね。でも、どうしてここに?」

「母にそろそろ帰って来いと言われたので…。母もいい歳ですから」

「確か、今村さんのお母さんって、社長の同級生よね。今村さんが来たときに社長がそう言っていたよね」

「そうでしたか。確かに社長もいい歳だ」

 そう言って啓介は笑った。友里子はしまったと思った。帰郷した本当の理由を言いたくなかったので母親のせいにしたことが思わぬ失言になってしまったと気が付いた。

「すみません! そういう意味じゃあ…」

「いいんですよ。本当のことなんですから」

 そう言って、啓介は友里子の肩に手を置いた。


 食事を終えると、啓介はそのまま本店へ帰って行った。それを仕入れから戻って来た浩利が見ていた。

「友里子! また会ったな。俺に会いに来てくれたのか? 午前中は夜に使う材料の仕入れで店には居ないんだ。その代り昼からはいくらでも時間あるから、今度は俺が会いに行くよ」

 友里子は少し困った顔をして典子を見た。それを典子は勘違いした。

「あ、お邪魔ね。お昼休みはまだ時間があるから、あとはお二人でごゆっくり」

「き、木村さん…」

 呼び止めた友里子の声を聞くことなく典子はその場を去った。

「飯は食ったんだよな。じゃあ、お茶飲みに行こう」

 浩利に誘われて迷っているときに携帯電話に着信があった。啓介からだった。

『さっきは木村さんも居たから言えなかったんですが、今夜、お時間はありますか?』

「あ…。すみません。今はちょっと…」

『まだ木村さんがそばに居るんですね? では、また後で電話します』

 そう言って啓介は電話を切った。

「誰からだ?」

「あ、お母さんから」

 友里子は咄嗟に嘘をついた。その手前、浩利の誘いを断りきれなかった。


 店に戻ると典子に冷やかされた。友里子はただの同級生だと説明したが、典子の誤解を解くことは出来なかった。

 閉店時間になると、典子は速攻で帰って行った。なんでも今日は家族で食事に行くのだと。友里子は薬剤庫の施錠を確認すると、ストアのスタッフに声を掛けて店を出た。ストアの方は24時間営業なのだ。店を出たところで携帯電話に着信が来た。啓介からだった。

『宮田です。そろそろ終わったころでしょうか?』

「あ、はい。今、店を出たところです」

『ちょうどよかった! 僕も今、本店を出たところです。軽くお酒でも飲みませんか?』

「あ、軽くなら…」

『それなら、今から迎えに行くのでそこの駐車場で待って居て下さい』

 友里子は啓介に指示された通り、ショッピングモールの駐車場へ行った。ウインカーを光らせて白いセダンが入って来た。セダンは友里子の前で停車した。運転席の窓が開いて啓介が顔を出した。

「お待たせしました」

 啓介は助手席のドアを開けて友里子を招き入れた。

「すみません。それより、お酒を飲むのに車で大丈夫なんですか?」

「僕はお酒飲めないんですよ」

「えっ? じゃあ、お酒じゃなくてもいいですよ。どこか喫茶店とかでも…」

「雰囲気のいいバーがあるんですよ」


 友里子は啓介と並ぶようにカウンター席に着いた。確かに雰囲気のいい店だった。しゃれた盛り付けのオードブルを摘まみながら、友里子は二杯目のワインを口にした。酒が飲めないと言った啓介はウーロン茶を置いているが一度も口をつけていない。

「実は今村さんのことは高校生の時から知っていたんですよ」

「えっ?」

 友里子が通っていたのは女子高の看護科だった。男子生徒との交流はほとんどなかった。当然、友里子は啓介と会った記憶などなかった。

「文化祭で応急措置の実演をやっていましたよね」

「あっ!」

 友里子の板看護科は一般の来場者を患者役にしていろんな応急措置の仕方を実演してみせるというのをやっていた。

「僕はそこで患者役に選ばれて、担当の看護科生徒に包帯でぐるぐる巻きにされたんですけど…」

「ウソ?」

 友里子には身に覚えがあった。当時、学校始まって以来の大失態だと笑われた。そのことがきっかけで、看護師への道はあきらめて、大学は薬科大学に進学した。

「その時の看護科の担当の方のネームプレートには確か“今村”と記してありました…」

 友里子は恥ずかしさで顔が燃える様に熱くなった。啓介は更に話を続けた。

「でもね、彼女があまりにも一生懸命だったので、僕は成すがままに身を任せていました」

「ごめんなさい!」

「いいんですよ。あのことが無かったら、今、僕はこうしてあなたと一緒に居ることはなかったでしょうから」

 そう言って啓介はそっと友里子の肩に手を回した。

 友里子が啓介に送られて帰宅した時には既に日付が変わっていた。


 啓介が店にやって来る頻度が増えた。典子がそう言って友里子の顔を見てはニヤニヤしている。

「専務、あなたのことが気に入ったみたいね。もしかしたらあるんじゃない? 玉の輿。あ、そしたら、私が辞められなくなっちゃうか! それは大いにマズイわね」

「そんなことあるわけないじゃないですか!」

 典子を窘める友里子の肩にいきなりポンと誰かが手を置いた。友里子は一瞬、驚いて飛び上がりそうになった。

「そんなことって、どんなことでしょうか?」

 その手の主は啓介だった。先ほどまで店内の在庫確認をしていた啓介が急にやって来たのだ。啓介は友里子の肩に手を置いたまま、二人の会話に入って来た。そして、典子が視線を逸らしたすきに、友里子の手に何かを握らせた。ハッとした友里子をよそに啓介は典子の方をポンと叩いて「じゃあ、頑張って下さい」そう言うと、部屋を出て行った。友里子は渡されたものをそのまま白衣のポケットに突っ込んだ。


 夕方になると、浩利が処方箋を持ってやって来た。

「今日、うちに来ないか? いいマグロが入ったんだ。よかったら、お母さんも一緒に」

「いいの? でも、そんなマグロなら値段も…」

「いいんだよ。友里子のために仕入れたもんだから。今日は俺のおごりだ」

「いや、それも悪いわ…」

「ダメだ! 友里子に食ってもらわなかったら、マグロも浮かばれねぇ」

「なによ、それ!」

 友里子はふっと吹き出した。そして、母親に電話をした。母親がとても喜んでいたので浩利にそう伝えた。

「あ、それから特上の帆立も仕入れといたから」

 最後にそう付け加えて浩利は帰って行った。


 仕事を終えて着替えようとした友里子は白衣のポケットに突っ込んでいたメモに気が付いた。

「あっ…」

 友里子はくしゃくしゃに丸まったメモ用紙を広げた。

『仕事が終わる頃、迎えに来るので駐車場で待って居て下さい』

 そう書かれていた。

「どうしよう…」

「どうかした?」

 友里子の手元を覗くようにして典子が尋ねた。友里子は慌ててメモを握りしめて再びポケットに突っ込んだ。

「ううん、なんでもないです」

「さっき、晩のおかずを買いに行ったら、駐車場に専務の車が停まっていたわよ。今村さんを迎えに来たんじゃない?」

 典子はいつも午後の休憩時間に、ここのショッピングモールで買い物をしていく。

「まさか! そんなこと、あるわけないじゃないですか。きっと、何か他の用事で来ているんですよ」

 そう言って誤魔化した。そして典子と一緒に店を出た。友里子はショッピングモールの出口で典子と別れると、啓介にメールした。

『ごめんなさい。今日は母と約束があるので失礼します』

 そして、浩利の店へ向かった。


 既に母親は店に来ていた。カウンター席に座っていて友里子に気が付くと手を振って合図をした。カウンターの中には浩利も居た。

「今日はこいつが接待するって言うから任せることにするが、ちょっとでも不手際があったら遠慮なく言ってくれよ。俺がすぐに替わってやるから」

 そう言って浩利の頭をポンと小突いたのは浩利の父親でこの店の店主だ。母とも古い付き合いらしい。


 子供の頃はあまり意識しなかったのだけれど、母は意外と付き合いが広い。宮田といい、この石田といい。小さな町だから当然だと言えばそうなのかも知れないけれど、友里子は改めて母を尊敬した。


 父親に言わせれば、浩利はまだまだ鼻たれ小僧なのだと。けれど、今日の料理は今まで食べたどんな料理よりも美味しく思えた。

「こんなネタを使ったら誰だってそれなりのもんにはなるさ」

「まったく、オヤジには敵わねえな。ネタを仕入れるんだって実力のうちだろう?」

「こら! 店では“オヤジ”って呼ぶなと言ってるだろう!」

 怒鳴られた浩利は首をすくめて友里子たちを見た。二人は顔を見合わせて笑った。


 適度に腹が膨れると母が友里子に尋ねた。

「ところで、宮田さんところの息子さんにはもう会ったの?」

「あ、うん。だって、専務さんでしょう。たまにお店にも来るわ」

「そう! それでどう?」

「どうって?」

「宮田さんに頼まれたのよ。どうやら、せがれが友里子さんに惚れちゃったみたいだから仲を取り持ってくれないかってね」

「えーっ!」

 声を上げたのは浩利だった。

「なんだよ、お前、いきなりでかい声を出しやがって! まさか、お前も友里子さんに惚れてるのか?」

 顔を赤くして俯く浩利。

「どうやら図星らしいな」

「まあ、どうしましょう! ねえ、友里子、あなたはどうなの? どちらを選ぶの?」

 なんだか話がおかしな方向へ進んで行く。浩利はそんな会話に聞き耳を立てている。

「どちらをって…。そんなのおかしいでしょう! 選択肢は他にもあるんだから」

「誰か好きな人が居るのか?」

 そう聞いてきたのは浩利だった。

「この子ったらね、前に居た病院で失恋して帰って来たのよ。きっと、まだその人に未練があるのね…」

「ちょ、ちょっと、お母さん、やめてよ」

「友里子、そうなのか?」

「そんなわけないでしょう! それに、私が誰と付き合おうと、それは私の勝手でしょう? ほっといてよね」

 そう言って友里子は席を立ち、そのまま店を出て行った。呆然と見送る浩利に父親がまくしたてる。

「なにやってんだ! 早く追いかけろよ。宮田ンとこのせがれなんかに負けるんじゃねえぞ!」

 浩利はゴクンとつばを飲み込んで、友里子の後を追った。

「若いっていいわね」

里子(さとこ)ちゃんもまだまだ捨てたもんじゃねえぜ」

「まあ! (とし)ちゃんったら」

 二人が居なくなった店で友里子の母親と浩利の父親は若き日の記憶に想いを馳せながら語り合った。



◇◇◇◇◇



 友里子からのメールを確認した啓介は予約を入れていた店にキャンセルの電話を入れた。

「もっと強引に誘った方が良かったかな…。でも、まあお母さんとの約束なら仕方ない」

 そう言って苦笑し、車を出した。



◇◇◇◇◇



 浩利は友里子の姿が見えなくなって焦っていた。連絡を取ろうにもメールアドレスはおろか携帯電話の番号も分からない。ただひたすら辺りを走り回った。走り回ってようやく友里子の姿を見かけた。そこは川っぺりの小さな公園だった。手摺にもたれるようにして、川の方を眺めているようだった。浩利はそっと友里子に近付いた。

「なんか迷惑をかけちまったな」

 振り向いた友里子は驚いたようだったけれど、すぐに表情を和らげると浩利に向き合った。

「ううん、私の方こそごめんなさい。せっかく誘ってくれたのに、母があんなことを言いだすから…」

「その…」

「ん?」

「いや、なんでもない…」

 浩利は店で友里子の母が話していたことや宮田のことが聞きたかったのだけれど、思いとどまった。他人のことより自分がこれからどう対応するべきかが大切なのだと考えたから。

「見つけるのに苦労したよ」

「電話してくれればよかったのに…。あっ! そう言えば電話番号知らない」

「そうなんだ。よかったら教えてもらってもいいか?」

「ごめんなさい。教えるのが嫌だったとかではないのよ。石田君ったら、いつも自分の言いたいことだけ言ったらさっさと帰っちゃうから」

「いや、なんか女の子に電話番号を聞くのって、軟派な感じがしてさ」

「石田君って、そんなキャラだっけ? 私ね、中学まで石田君と同じクラスだったのだけれど、ほとんど石田君のことは覚えていないの」

「まあ、そうだろうな。友里子に限らず、中学までは女子と口を利いたことがほとんどないからな」

「そうなんだ。なんだか意外。今の石田君はちょっと強引な感じがするから」

「それはきっと照れ隠しだな。特に、友里子には」

「ごめんなさい。さっきの話だけど、あれは本当のことなのだけれど…。でも、もう未練なんかはないのよ。それから、宮田専務のことだけど、彼は男性としてではなく、上司としてとしか見ていないから」

「じゃあ…」

「今は誰とも恋愛をする気にはなれないの」

「解かった。ゆっくり待つよ」

「うん」

 浩利は友里子との距離が少しだけ近づいたように感じて、嬉しくなった。友里子は戻って来たことを良かったと思った。何かと煩わしいことが多くて嫌だと思っていた故郷も満更ではないと思い始めていた。



◇◇◇◇◇



 村井の部屋を出た友里子は病院に退職届を提出し、ずっと帰っていなかったアパートを引き払うための片付けをしていた。そこへ村井が訪ねて来た。

「辞めるって聞いた…」

「そうよ」

「ごめん…」

「どうしてあなたが謝るの?」

「縁談のことを黙っていた」

「みんなが噂していたから知っていたわ。でも、噂は噂。あなたの口からちゃんと言って欲しかったわ」

「言うつもりだった。でも、急患が…」

「いつもそうなのね。でも、それがあなたの仕事だから仕方ないわよ。それくらいは私だって理解しているわ。そして、気が付いたの。家庭を築くのならどんなに愛していても一緒に居られない人より、いつも一緒に居てくれる普通の人の方がいいって」

 友里子は段ボール箱のふたをガムテープでとめながら、村井の方を見ることもなく話を続けた。

「そうだとしても、病院を辞めることはないんじゃないか?」

「地元のドラックストアで働くことが決まっているの。母もいい歳だし、東京に出してもらったのもそう言う条件だったから」

「そうか…」

 暫くすると、ドアが閉まる音がした。友里子は村井が何をしにここへ来たのか理解できなかった。それ以来、村井からの連絡はなかった。無論、友里子が連絡をすることもなかった。これで、二人は完全に他人になった。



◇◇◇◇◇



 翌日、店に啓介がやって来た。

「最近、宮田専務、よく来るわね。今村さんのことを気に入っているって話よ」

「そんなこと…」

「本店に居る同期から聞いたのよ。社長が専務にもっと積極的にアタックしないとトンビに油揚げをさらわれるみたいな話をしていたって」

「いや、その話が私のことだとは限らないでしょう…」

 その時、後ろからポンと肩を叩かれた。啓介だった。

「これから、仕入れに行くのだけれど、一緒に来てもらえないかな」

「私がですか? でも、ここの仕事が…」

「今日はクリニックが休みだから、薬剤部はヒマなはずだよ」

 そう言って典子の方を見た。

「おっしゃる通りです」

 典子はそう答えると、行って来いと追い払うような仕草をした。

 啓介は友里子の手を取って歩き出した。


 仕入は既に発注してあった薬剤の確認だけだった。仕入れた薬剤は別便で届けられることになっていたのだ。

「これって、私が一緒に来なくても…」

「いや、友里子さんには薬剤師としてだけでなく、一通りの業務を理解しておいてほしいんだ」

 啓介は将来会社を継ぐ。その妻となるべき人間には会社をサポートしてもらいたいと考えている。そして、その役目を担うのは友里子であってほしいと願っている。



◇◇◇◇◇



「最近、あの人来ないわね」

 典子が唐突に言った。浩利のことだと友里子にはすぐに解かった。けれど、敢えて解からない風を装って返事をした。

「あの人って?」

「ほら、お寿司屋さんの」

「そう言えばそうですね」

「彼って、糖尿でしょう。薬を切らしたらヤバいんじゃない?」

 典子のいう事にも一理ある。浩利は糖尿の気があり、血糖値を下げる薬を常用している。それがここ数か月姿を見せていない。友里子自身もあれ以来、店にも行っておらず、直接会ってはいない。それどころかメールや電話も掛って来ていなかったことに気が付いた。このところ、何かというと啓介に連れまわされて経営についてのレクチャーを受けることが増えてきている。当然、友里子は啓介の意図は解かっている。このままでは誤解されてしまう。そして、意を決して啓介にはっきりと言おうと決めた。


 いつものように啓介が店にやって来た。

「木村さん、今日も一人で大丈夫かな?」

「はい。今日は大丈夫ですよ。でも、私、もうそろそろ辞めるんですからね。そうなったら、今村さんにここを仕切ってもらわないと…」

「解かっているよ」

 そう言って啓介は友里子の手を取った。

「その事なんですけど…」

 友里子は啓介の手を振り払い、話を続けた。

「私はここの薬剤師として働くのが好きです。それ以上でもそれ以下でもないです。専務のお手伝いは役に立つのだとは思いますけど、この仕事には必要ないのではないでしょうか」

 啓介は一瞬、顔をこわばらせた。そして、友里子の両肩に手を置いて諭すように話し始めた。

「いいかい、僕は将来この店を背負って行かなければならない。昔ならともかく、今のうちの形態では一人で切り盛りするのは不可能だ。だから、優秀なパートナーが必要だ。君にはその役目を担って欲しいんだ。オヤジだってそれを望んでいる」

 そんな話を目の当たりにした典子は目を丸くして固まっている。友里子は両肩に置かれた啓介の手をはねのけて言い放った。

「そんなこと、勝手に決めないでください。私には私の生き方があるんですから。それが出来ない職場なら今、この場で辞めさせてもらいます」

 それを聞いた典子が目の色を変えた。

「ちょっと待った! 今村さんが私より先に辞めちゃうなんて本末転倒でしょう! 専務、それってパワハラですよ」

 まさかの展開に啓介は狼狽えている。

「わ、解かった。勝手に決めつけて行動していたことについては謝るよ。でも…」

「はい! では早く行かないと間に合いませんよ」

 そう言って典子が啓介を出口の方へ押しやった。

「今度、ゆっくり話をしよう」

 そう言い残して啓介は店を後にした。

「いやー、まさかとは思ったけど…。それよりいいの? 玉の輿を突っぱねちゃって」

 心配そうに典子が言った。

「いいんです。いい人なんですけど、そういう対象としては考えられないので」

「ふーん…。よしっ! 明日は休みだし、今日、仕事が終わったらあのお寿司屋さんへ行きましょう。例の彼のことも気になるし」

「えっ!」

「いいから、いいから」

 そう言って典子は鼻歌を歌いながら薬剤庫へ消えて行った。



◇◇◇◇◇



 病室に入って来た友里子と典子を見て浩利は照れ臭そうな笑みを浮かべた。

「言ってくれればよかったのに」

 友里子の言葉に浩利は苦笑した。

「こんな姿、恥ずかしくて見せられないさ」

 ベッドに横たわり、ギブスで固められた脚を天井から吊り下げられた浩利が答えた。



◇◇◇◇◇



 店に行くと、浩利の姿はなかった。

「おう、友里ちゃんいらっしゃい」

 友里子がカウンターの中を覗き見ているのに気が付いた浩利の父親が笑いながら言った。

「あのバカ、仕入れの帰りに事故っちまってよ。せっかくのネタを台無しにしやがった」

「えっ!」

 友里子と典子は顔を見合わせた。

「中央病院に入院中だよ。友里ちゃんには内緒だと言われてたんだけど、こうやって心配して店に来てくれたんだ。よかったら、明日にでも見舞いに行ってやってくれ」

「いえ、別に心配してきたわけじゃ…」

「そう、そう。ねえ、大将、聞いてくれる? 今日、今村さんったら専務のプロポーズを蹴飛ばしたんだよ」

「ちょ、ちょっと! 木村さん、何を言うの」

 友里子はいきなりとんでもないことを言いだした典子に焦った。浩利の父親はその話を聞いて面白そうに話に乗って来た。

「なに! 宮田ンとこのせがれを振ったのか。そりゃ愉快だな」

「おじさん、そんなんじゃないから。それより石田君の具合は?」

「ああ、あんなのはほっときゃそのうち治るよ。ただ、そのおかげで俺が朝寝できなくなっちまったからな。ホント、いい迷惑だよ。なんだったら、友里ちゃん、一緒に仕入れに行くか?」

「大将、それってパワハラですよ。今村さんが専務を振ったのだってパワハラが気に入らないからなんですから」

「だから、違うってば!」

 戸惑う友里子を尻目に典子と浩利の父親はケラケラ笑っている。


 そんなこんなで、二人は翌日、浩利の見舞いにやって来た。



◇◇◇◇◇



「それより大丈夫なの?」

 心配そうに友里子が聞いた。

「友里子の顔を見たらもう治ったよ。明日からでも店に出るさ」

「何バカなことを言っているんですか! 全治1か月の大怪我なんですからね」

 往診に来た看護師が背後から怒鳴りつけた。往診が終わると浩利は神妙な顔をして口を開いた。

「なあ…」

「どうしたの? 急に」

 思わず友里子も姿勢を正した。

「退院したら飯でも食いに行こう。今度は二人だけで」

「キャッ!」

 典子が奇声を上げた。浩利はチラッと典子の方を見た。けれど、そんなことは気にせずにそのまま言葉を続けた。

「この前、ゆっくり待つと言ったけれど、俺には無理だ」

「…」

「今すぐ結婚してくれだとか、そういう事じゃなくて、なんていうか…。友達として、いや、友達じゃだめだな…。その…。ちょっとランクが上の友達として…。あー、もう! 何言ってんだ俺は…」

「いいよ」

「だよな! どさくさに紛れてこんなこと言うなんて…。えっ? 今なんて言った?」

「いいよって言ったのよ。今度は二人だけでご飯食べに行きましょう。海沿いのシーフードレストランがいいわ」

「本当か! なあ、木村さん、俺の足をぶっ叩いてくれないか」

「バカねえ、そんなことしなくても大丈夫よ。私が証人だから」

 典子はそう言って軽く浩利の足に触れた。

「痛―――え!」

「あら、失礼。ちょっと強すぎたかしら」

 苦痛に顔ゆがめる浩利をよそに友里子と典子の笑い声が病室に響いた。



◇◇◇◇◇



 海沿いのシーフードレストラン。オレンジ色に染まった海を眺めながら浩利は小さな箱をそっと差し出した。

「気が向いたら、それをしてくれると嬉しい。もちろん、一生、したくないのならそれでもいい」

 友里子は箱を開けると、オレンジ色の光を反射させているダイヤモンドの指輪を左手の薬指にはめて夕日に向けて手をかざした。








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― 新着の感想 ―
[良い点] ラストシーンが素敵でした。夕陽色してるかものダイヤモンドが、ロマンチック。 [一言] 素敵な恋愛の話し、ありがとうございます。 勤務中の職場で、後ろから抱きしめるなんて不埒な医者んは、鉄…
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