プロローグ
視界いっぱいに広がる光景はまさに地獄絵図と化していた。
喉が焼け、声が出ない。
ポタポタと滝のように流れ落ちる汗は留まることをしらない。
焼け焦げた臭いは大地の臭いか、それとも――数刻前まで人間の形をしていた何かか。
燃え広がるは轟炎の渦。空一面は曇天で覆い隠され、鳴り響く雷鳴が終焉の鐘を鳴らすかの如く。
無数のうめき声が少年の意識を浮上させる。
ほんの少し前まで互いに健闘を祈り合い、されど抜け駆けは許さないと冗談めかして雑談を交わしていた仲間の声だ。
その誰もがすでに死を意識し、その魔の手から逃れるように少年に焼けただれた手を向ける。
「い……やだ」
少年は怨嗟の声を振りほどき、憎悪に満ちた瞳を空へと向ける。
そこには竜がいた。
体長はおよそ十メートル弱。巨大な肉体に堅牢な漆黒の鱗。はためく翼は大地を揺るがす衝撃を放ち、両手から生えた十の爪が鮮血に染まり、鋭利な牙には人だった肉片がこびりついている。トカゲのような野生の瞳は深紅に染まり、剣呑に細くなった双眸は獲物である少年を粘着質な瞳で捕らえて離さない。
その瞳は「次はお前の番だ」と雄弁に物語っていた。
少年は周囲を見渡す。
業火に包まれた世界に人間が生き残れる空間は一つとして残されていない。
死屍累々のただ中で目の前の黒竜が見つめるのは少年だけだ。
他にも生きている人間がいるというのに、その瞳は他を一切見ようとはしない。
竜はわかっているのだ。人間がいかにしぶとい生き物であるかを。
目を離した隙に瞬く間に尻尾を巻いて逃げるだけの力があることを。
だから、追わない。
コイツを喰うと決めたら後は一切無視する。人間の攻撃はこの鱗に傷一つつけることは出来ないと本能で理解しているのだ。
鬱陶しいと思いながらも食事を優先させるのは黒竜にとっては至極当たり前のことなのだろう。
少年の姿はもはや黒竜に挑む勇気ある魔導士ではない。
その瞳は脅えや恐怖。眼前に迫った死に震え、これ以上ない相棒だと自負していた自慢の武器でさえ、ただの棒っきれに見える始末。
心身共にもはや少年は竜を含めた人間界に進行してくる魔族と戦う為の兵士――『魔導士』から遠くかけ離れた醜態を晒していた。
「逃げろ!」と誰かが叫ぶ。
だが何処へ? と少年は空回りばかりする頭で必死に考え続ける。
無理だ。逃げ場なんて何処にもない。
それを本能的に理解したのか、さらに少年の姿は醜いものへとなっていく。
涙と鼻水でベトベトに顔を汚し、股間には大きなシミをつくり、足元にはアンモニア臭漂う小さな水たまりが出来ている。
十七歳の少年の姿にしては余りにひどく、目を覆いたくなる痴態。
だが、そんな少年を誰が責められようか?
迫り来る死に対し、涙を流し「いやだ」と喚く人間を誰が非難できよう。それが例え魔族と戦う『魔導士』になることを夢見た少年であろうと、死を前にすれば皆同じく赤子同然なのだ。
少年は縋り付くような瞳で周囲を見渡す。
生き残った全員が彼を助けんが為に黒竜に向かって『魔術』を放つ。
だが、彼らの攻撃をまるで意に介した様子もなく、黒竜はその巨大な顎を開け放ち、遙か上空から少年に向かって突進してきたのだ。
ズオオオオオオオオ!
黒竜が翼を大きく靡かせ、大地を覆う業火すら吹き飛ばす勢いで少年に向かってその巨体を滑空させる。
ああ、無理だ……
悲鳴や走馬燈すら駆け巡る暇なく、眼前に迫りつつある鋭利な牙と生臭い臭いを五感いっぱいで感じ取り、少年は死を覚悟した――。
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