解説 〔第三回〕
メイキング オブ 「現代の怪談」〔3〕
~本題の幕開け~
物語がついに動き出した。
それは同時に、ラストに向かって走り始めたことをも意味する。
全てがラストに向かって動いている訳だから、そのラストが登場人物たちの存在意義としっかりリンクしたものでなければ、何のための物語なのか分からなくなってしまう。
その点は、ご安心を。
私は、そのために一年間かけてこの物語の構想を隅から隅まで練り尽くし、後は書き出すだけという状態にしておいたのだ。
☆目玉シール☆
シリーズ全体の鍵を握るアイテムが、「目玉シール」である。
目玉をモチーフに選んだのは、日本の妖怪を最も良く象徴していると思われたからだ。
能力によって金・銀・銅の三種類に分かれるという設定もまた、敵側の魅力に華を添えているのではないだろうか?
銅は「幽霊兵団」を作り、銀はゲストの怪獣を作り、そして金は・・・今後のお楽しみである。
☆今回の怪獣☆
目玉シール絡みの怪獣には、ネーミングに一貫性を持たせることにした。
それは、「○○怪獣+その怪獣を端的に表す英単語」である。
その嚆矢となったのが、今回の「血肉怪獣グロテスク」である。
モチーフには、学校の怪談の定番中の定番である人体模型を選んだ。
人体模型がなぜ恐れられるのか?
そこを掘り下げないと、この怪獣の設定が薄っぺらなものになってしまう。
私は、人体模型の怖さを、臓器の醜怪さに対する生理的嫌悪感にあると考えた。
そこで、名を「グロテスク」と付け、臓器の生々しさを強調し、臓器を吐くという「グロテスクな」攻撃を取り入れた。
私事だが、文章で視覚効果を表現することは、難しい反面、非常に遣り甲斐を感じさせてくれる。
☆幽霊兵団☆
敵組織のもう一つの主戦力は、下級戦闘員「幽霊兵団」である。
怪談復古を目論む組織の戦闘員に相応しく、意のままに操られる幽霊たちという設定である。
ネーミングは、「ゴーストルーパー」との間で迷ったのだが、結局、私のイメージにより近い「幽霊兵団」に決めた。
☆女剣士・園里香☆
前回にも触れたように、このシリーズのテーマは「現代と伝統との対立」である。
「現代」の代表に閨川を据えたが、「伝統」の代表こそが、新登場の園里香なのである。
園は、日本の失われた民俗信仰≒怪談の復古に燃える。
そこに現代の象徴たる閨川が現れ、園自身が、昔の姿(=鈴木緑)を失っている可能性を提示し、彼女自身の存在意義に揺さぶりをかけるのだ。
現実の社会でも、原理主義は往々にして、その「原理」とかけ離れたものになり勝ちである。
我が国の保守派などは、最たるものではないか。
彼ら自身は日本の伝統を守っているつもりかも知れないが、私に言わせれば、「異文化の長所を取り入れて拡大する」という、日本文化の真骨頂を、彼らは全く以って蔑ろにしているのだ。
話が逸れてしまったが、彼女の「大義」と「己の正体」との干渉が、どのような決着を見せるのか、今後の展開に大いに期待していただきたい。
☆「宗教」をどう描くか☆
宗教の話題は、非常にデリケートだ。
だが、「怪談」というジャンルの性格上、どうしても宗教の問題が絡んで来てしまう。
なぜなら、「怪談」は一種の民間信仰だからである。
一歩間違えば、特定の宗教の教義に偏頗した、布教小説もどきになってしまい兼ねない。
そうならないように、次の二つのことを心がけるようにした。
一つは、「恐怖」にあれこれ野暮な説明を付けないことである。
例えば、作中で人体模型から声が聞こえ、居合わせた学生たちがゾッとするシーン。
ここで「人形を依り代として霊魂が宿って云々・・・」などと説明しだすと、途端に宗教臭が漂い始める。
解らないものは、解らない。そこに説明を加えるのは、無粋である。
ゾッとする。その「感覚」こそが、怪談の醍醐味なのである。
怪談とは、解らないことへの恐怖を、解らないまま味わうという、高尚なジャンルなのではないだろうか。
もう一つは、客観的なスタンスを守り、特定の思想を絶対視しないことである。
人間社会には、現に「宗教」という概念が存在し、それぞれに固有の考え方や価値観がある。
そしてそれを「迷信」という言葉で片付けてしまう「モダニズム」もまた、一つの思想に過ぎないのだ。
そのことを、現代人は忘れ勝ちなのではないか?
数年前、あるテレビ番組で、「宗教学者」というフレーズが出たとき、女性司会者が「宗教学って何?何でそんなものを研究してるの?」などと発言しているのを聞いた。
彼女は、全く悪気はなく、純粋に「疑問」を口にしただけのことだと思う。
しかし、これこそ、モダニズム絶対主義の発露ではないか。
だが一方、「モダニズムは伝統を破壊する悪だ!」と断じることもまた、できない。
作中で赤井少年が言ったように、プレモダニズムが個人の自由と尊厳を蹂躙してきたのもまた事実だ。
ここで、物語の中和剤となるのが、麻咲の存在である。
彼は、この戦いにおいて、徹頭徹尾アウトサイダーである。
だから、「現代」と「伝統」を差別しない。
怪獣と戦う理由も、モダニズムからではなく、単純に「人間を守るため」である。
そして、赤井にもまた、モダニズムが全てではないと諭すのだ。
モダニズムは、ややもすれば排他的になり勝ちである。
だからこそ、いかに伝統と付き合っていくかが現代人の課題なのだ。
この作品が、読者諸兄がこの問題を考える契機になることを、願ってやまない。