解説 〔最終回〕
メイキング オブ 「現代の怪談」〔14〕
~問題意識を持ってほしい~
☆これまでの振り返り☆
お陰様で、一年にわたるシリーズが、めでたく完結した。
これまでの軌跡を振り返ってみよう。
1話:現代を舞台とした古典的な怪談に、これまた古典的なヒーローを登場させるというスタイルを提示。言うなればパイロット版。
2~7話:怪談の本質を模索して、ときに古典的な、ときに実験的な話を織り交ぜた。(実験的な話の中には、今にして思えば怪談の概念を逸脱してしまったものがあることもまた、否めない。)
8、9話:これは厳密には怪談ではなく、「怪談」に関する私の見解を表現した話。言わばメタ怪談。
10、11話:これまでの集大成となるよう、実験的な試みは避け、且つ、なるべくテーマを絞って書いた。
12~14話:私自身が、現代社会における最大の怪異だと感じている事柄を描いた。これを怪談と認識してくれる読者はかなり少ないだろうが、一人でも居てくれれば儲け物と思って、敢えてスタンスを貫いた。
☆見えている≠気付いている☆
太陰怪獣がいかに暴れても、市民は誰一人気付かない。
しかし、彼らには全てが「見えていた」のだ。
本編でも触れているように、太陰怪獣は人間の「繁殖本能」の化身である。
それは生命の誕生には不可欠かもしれないが、決して神聖なものなどではない。
なぜなら、相手を明確に欲求の対象として見ることが必要条件だからである。
そのことに異論はないだろう。(ギリシャ的に言うなら、agapeとerosは互いに無関係な概念なのである)
それなのに、人はそれを善とも呼ばないが(性教育者たちはそう呼んでいるのだが!)、「必要悪」とも呼ばない。
深く考えること自体がタブー視され、皮肉なことに、批判さえできなくなっているのだ。
見えているからといって、必ずしも気付いているとは限らないのだ。
このシーンは、そのことを暗喩しているのである。
☆批判的思考☆
これはあくまで一例である。
世の中には、思考の放棄を強要するイデオロギーが溢れている。
イスラム教の聖典「コーラン」に、過激派組織ダーイシュの出現を予言するような内容があったなどとして、その引用とやらがテレビの報道番組で紹介されたことがあったが、私の知る限り、コーランにそのような箇所はなく、捏造と思われるものであった。
しかし、誰もそのことを批判しなかった。
USAの次期大統領であるトランプ氏の、女性蔑視的な発言が取り沙汰されたことがあった。
その発言が女性蔑視であることに疑いの余地はない。だが、その日本語訳は、明らかに誇張されていた。
しかし、誰もそのことを批判しなかった。
自民党の谷川氏が、IR法案に関する審議の際に、突如、何の脈絡もなく読経を始めたと視聴者に思わせるような報道が飛び交ったことがあったが、テレビ中継で審議の一部始終を見た限り、話の流れとして不自然な点は見当たらなかった。
演出の域を超えた過剰な編集が施されていたのだ。
しかし、誰もそのことを批判しなかった。
これらを鵜呑みにしていたら、メディアに思想を統制されてしまうだろう。
それでいいというのなら、これ以上何も言うことはない。
しかし、それでは余りにも機械的・非人間的ではないだろうか。
もし、あなたが思想の自由を確保したいなら、次の助言をしておこう。
メディアから何か情報がもたらされたら、まずその情報源を参照することだ。
幸いなことに、インターネットには生の情報が多く流れているし(残念ながら、全てとは言えないが)、国会の討議は国営放送で中継されている。
それに、本屋や図書館に行けば、どんな本でも自由に閲覧できる。
キューバでは出版に厳しい制限が設けられており、中国ではインターネットでの情報の授受にも政府の監査が入っていると聞く。
日本は恵まれているのだ。
これは、国民の権利であるばかりでなく、憲法に規定されている国民の「義務」でもあるのだ。
日本国憲法第十二条には、次のように見えている。
〈第三章 國民の權利及び義務
第十二條
この憲法が國民に保障する自由及び權利は、國民の不斷の努力によつて、これを保持しなければならない。又、國民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
(中略)
第十九條
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。〉
(出典:ウィキソース http://ja.wikisource.org/wiki/日本國憲法)
思想の自由とは、基底状態としての自由ではなく、不断の努力の産物としての自由なのだ。
そのことを提言して、「現代の怪談」の最後の解説の締めとしたい。
最後になったが、ここまでお付き合いくださった読者諸姉諸兄に、篤く御礼を申し上げる。




