最終話・後半
(十三)
午前一時半。
島田たちは、一時間半もの間、奇跡を待って祈り続けた。だが、何も起きなかった。
「なぜ何も起こらないんだ!」
北村がそう言ったのを皮切りに、五人は溜息をつき、長時間の起立と緊張に疲れた腰をおのがじし下ろした。
ふと、そこに、近付いてくる者があった。
「俺はペンスピナーから、価値を創造する者として取るべき道を示された。」
それは、草履を履き、和服の上にコートを羽織り、学生帽を被った青年だった。
「君は?」と島田。
「俺の名は赤井慎悟。俺もかつてペンスピナーに助けられた。遅れ馳せながら参上した。」
そう言って、赤井は五人を見渡した。
「あんたたちも、ペンスピナーから道を示されたはずだ。ペンスピナーは都合の良い助っ人なんかじゃない。彼は贈り与える者なのだ。」
彼は、五人を再び集わせ、再び手を重ねさせると、自分もその上に手をおき、その上にシールを置いた。
「彼がくれた贈り物に思いを致すんだ。それこそが、俺たちの希望だ。」
赤井を合わせた六人は、おのがじし麻咲の教えを思い出した。
(あなたは、こんな俺にも、幸せになる権利があると教えてくれた。)と北村。
(あなたの暖かい言葉が、俺が第二の人生を歩む後押しをしてくれた。)と島田。
(既存の概念に締め付けられていた私に、あなたはものの道理を教えてくれました。そのお陰で、あたしは自信を持って人生を歩めるようになったのです。)と藤沢。
・・・。
(十四)
そのころ、閨川は、建物の中を探し尽くし、ついに園を見出だせず、彼女は塔の頂上へ登りつめたものと確信した。そして、自らも塔の内部のはしごを登っていった。
遥か下方から、無数の足音が聞こえた。ついに特殊課の捜査がこのタワーに及んだのだ。
「見ろ、血痕だ!」
「間違いない、ここにいる。」
閨川は、追っ手から逃げながら、園の行方を追った。
午前二時。閨川は、タワーの頂上に出た。塔の航空障害灯の強い赤色光が、一秒置きに視界を赤に染めていた。
作業用の足場の上に、園はいた。
彼女は半裸の背をこちらに向け、突っ伏していた。その膝元には、血が滴っていた。園が何をしているのかは、瞬時に悟られた。
閨川は、呟くように言った。
「介錯を。」
同時に、彼は拳銃を構えた。
だが、園は弱々しく首を横に振った。そして、かすれた声で言った。
「あなたは・・・そうじゃ・・・ないでしょ・・・」
たった一言、その言葉を聞いただけで、閨川はその意味を解したのだった。
本来、閨川の「諦めない精神」とは、人を助けることに向けられていた。それが、この悪戦苦闘の三年間で、頑なに敗北を拒むことのみに向けられるようになり、ついには生命までも犠牲に供しようとしていたのだ。
そのことが、瀕死の園を助けるのではなく介錯しようとしたことに、如実に表れたのだ。
「これまでの私は間違っていた・・・。」
そう呟くと、彼はその場に頽れ、歔欷した。
足元から声がした。
「二人ともいるぞ!」
閨川は、涙を拭い立ち上がると、虚空に向かって言い放った。
「風よ。私が置き去りにしていた全てを、ここに運んでくれ!そして、私の身に戻してくれ!」
特殊課の刑事達が塔の頂上に到達したときには、閨川の出で立ちはすっかり変わっていた。
紺のコート、黒のスーツに、紺のネクタイ、長髪、そして腰に差した愛刀・「村正丸」。三年前と変わらぬ姿に戻ったのであった。
「私は・・・、私は、特殊刑事だ!特殊刑事だったんだ!」
叫びとともに刀を抜き放ち、閨川守はかつての仲間たちに立ち向かった。それと同時に、彼らの銃口が、一斉に火を噴いた。
閨川は、自分の体が、弾丸の衝撃で宙を舞うのを感じた。空中で体が仰向けになったとき、視界を、暗雲に覆われた夜空が埋め尽くした。
痛みは感じたのだが、小説の梗概のように、それは単なる損傷の情報でしかなくなっていた。
(私は人類を守れなかった。だが、そのことに素直な慙愧を感じられる私に、最後に戻ることができたのは、里香、君のお陰だ・・・。)
閨川は無念と感謝を胸に、静かに目を瞑った。
背中が地面の接近を感じた。
(十五)
閨川は目を開けた。命は終わっていなかったのだ。
目前の光景は相変わらず夜の天であったが、地面があるはずの背後からは、白銀色の光が漏れていた。
塔から降りてきた特殊刑事達が、建物から出て来た。皆、慄然とした面持ちだった。
閨川を受け止めた光が、彼の背後から擦り抜けて、銀色の光の塊となった。閨川の銃創はふさがっており、撃ち込まれたはずの弾丸は辺りに散らばっていた。
瀕死の園は、上着を着せられて担架に乗せられていた。光の塊は、園の傷付いた腹部に向かって、光の筋を放った。
やがて光芒が消えると、園は目を開け、上体を起こした。そして、ワイシャツの上から自分の腹を触ると、傷はふさがっていた。本人のみならず、担架を担いでいた特殊刑事も驚愕した。
特殊刑事たちの背後から、道明寺の姿の太陰怪獣も現れた。そして言った。
「どういうことだ。」
光の塊は、少しずつ太陰怪獣たちの方に進み、やがて人の形を成した。
それは白いマントを着ており、その背に、漆黒の、癖の付いた、腰まで掛かる長髪が被さっていた。
閨川には背後しか見えなかったが、園たちはその顔を見て驚いていた。
やがてその人物は、閨川を顧みた。その顔を見て、閨川も驚いた。
あろうことか、金色の目玉シールが額に貼られた、死んだはずの麻咲イチロウの顔であったのだ!
「イチロウ・・・!」
「イチロウ?誰だ。」
白目との境界線だけを残した白い瞳を閨川に向け、男は不思議そうにそう言った。
「私の名前はペンスピナーだ。目玉シールから生まれた、希望の化身だ。」
そこに、赤井たちが駆けつけた。
「藤沢じゃないか!」と閨川。
「閨川刑事、こんなところで遇えるとは・・・。あれは麻咲さんではありません。あれは、あたしたちが麻咲さんからもらった希望が実体化したものです。そのイメージが、麻咲さんの外見を再現しただけです。」
ペンスピナーと名乗ったその男は「そういうことか」と言った。そして、しっかと敵を見据えた。
「私は貴様を倒すために生み出された!」
「笑止千万!返り討ちにしてくれるわ」
太陰怪獣は両腕を顔の前で交差させた。
「太陰変身!」
敵の背から無数の桃色の触手が出で、本体を包み込むと、離陸し、巨大化を始めた。
やがて空中で、敵は肌色の立方体に変容した。そして、桃色の目玉から、無数の銅色のシールを吐き出し、それらは幽霊兵団に変じた。
園と閨川は刀を抜き、幽霊兵団に応戦した。
「ペンスピナー、ここは任せて!」
「解った。」
ペンスピナーは、地を蹴り、マントをはためかせて跳躍した。
「出でよ、辰砂紅蓮!」
彼の叫びに従い、彼の足元に、赤い蓮の花が出現した。蓮はペンスピナーを乗せたまま、天高く飛び上がった。
敵はペンスピナーに無数の触手を放った。
ペンスピナーは蓮に乗って、驚くべき速さで飛び、触手をかわしながら宙を舞った。
戦いが、始まった!
(十六)
一方地上では、閨川、そして特殊刑事たちが幽霊兵団と戦っていた。腕に覚えのある赤井も参戦、拳法を駆使して敵をいなしていった。
川添は特殊刑事たちに呼びかけた。
「お前たち、やめろ!我々は敗れたんだ!」
そのときだった。
「仁!もういいじゃないか。」
低音の、それでいてよく響く、稲妻のような声が聞こえた。川添はその顔を見て驚いた。
「栄山君・・・!」
それは、褐色の肌を持ったスキンヘッドの初老の巨漢であった。
彼こそは、二十数年前、たった一人で特殊課の基盤を築いた伝説の傑物・栄山猛であったのだ。
「人類は新たな希望を得たのだ。再び戦おう!」
「我々は既に負けを認めたんだ!今更覆してはいかん!」
「お前は、幾度となく希望を裏切られて、疲れているだけではないのか!あの、若い戦士たちを見ろ。」
川添は辺りを見渡した。もはや戦場と化した地上では、特殊刑事達が、またも与えられた希望を素直に享受し、それが踏みにじられるかもしれないのに、尚も無我夢中で戦っていた。そして空中では、その新しい希望の申し子が太陰怪獣に向かって猛烈な勢いで飛んでいた。
太陰怪獣の巨大な単眼から放たれた破壊光線が、ペンスピナーを包み込んだ。
数秒後、敵は、ペンスピナーはもう焼き払えたものと思い、破壊光線を止めた。しかし、ペンスピナーは無傷で、尚も接近してきていた!
ペンスピナーの足は一瞬蓮から離れ、回し蹴りを放った。敵は体勢を崩したが、すぐに立て直して、ペンスピナーに攻撃の触手を放った。
「猪口才な!」
ペンスピナーは再び蓮に足を接し、右手を横に突き出して叫んだ。
「出でよ、竜血降魔法輪!」
すると、彼の手に、赤い法輪が現れた。
地上では、閨川たちが、敵の夥しい数に、苦戦を強いられていた。
刀を握り締めた園が、二人の敵と同時に戦っていると、別の幽霊兵団が、彼女の死角から襲い掛かってきた。敵の気配に気付いて振り向いたとき、その幽霊兵団は、既に投げ飛ばされていた。投げ飛ばしたのは川添であった。
「警視、いいんですか。」
「いい筈があるか。だが今は戦うしかないだろう!」
そうして、彼もまた混戦に身を投じていった。
乱闘の中、閨川と栄山は背中合わせになった。
「嬉しいよ。生きてまたあなたに会えて。」
「閨川。立派になったな。」
「あの六人を集めたのはあなただな?」
「ああ。そうだ。」
二人は幽霊兵団に取り囲まれていた。
「十年前のように、一気にいくか。」と栄山。
「ああ!」と閨川。
栄山は飛び上がり、閨川は刀を構えた。
「水蒸気よ、刀身に集え!」
「タケシ・ドリル・キック!」
「飛沫斬り!」
二人は、瞬時に大量の敵を殲滅した。
一方、空中のペンスピナーは、法輪をペン回しのように回して放った。太陰怪獣はそれをかわしたが、法輪は太陰怪獣を追跡し、見事に命中した。
法輪は太陰怪獣を捉えたまま尚も飛び続け、数十メートル先の路面に、爆音を轟かせて太陰怪獣を叩き付けた。
折しも幽霊兵団を片付けた閨川たちは、着地したペンスピナーの許に駆けつけた。
「やったか!」
赤井が嬉しげに言った。
しかし、太陰怪獣の声が、遠くから返ってきた。
「この我をここまで追い詰めるとはな。だが、勝った気になるなよ・・・。」
不気味な立方体は再び浮遊し、建物の谷間から姿を現した。そして、立方体の底辺から幾本かの桃色の触手を伸ばし、ペンスピナーに向け、念を込めた。
すると、ペンスピナーの足元から無数の黒い影が現れ、絡みついた。苦しむペンスピナーに、敵は不敵に笑いながら言った。
「それは、麻咲イチロウが救えなかった者どもの亡霊だ。」
影は、おのがじし未練を口にした。
「僕は死んでいない・・・。」
「静香さん、僕は君の世界に来られたんだよね・・・?」
「あなたは言ったじゃないですか。希望を捨てるな、と。だから私は死など受け入れませんよ・・・。」
「私が死んだなんて嘘よ・・・。」
やがて、ペンスピナーは無数の亡霊に飲み込まれ、影の塊となってしまった。
「いいざまだ、ペンスピナー!己の不甲斐なさをじっくりと味わって死ぬがいい!」
束の間の勝利の希望は、幻であったのか。そう思われたときだった。
「あなた方は死んだのです。」
女性の声が聞こえた。
閨川たちが見ると、それは、まだうら若い尼僧であった。
園と閨川には、その顔に見覚えがあった。そしてやがて、彼女が誰なのかに気付いた。それは、あの大島恵であったのだ。
無数の影は、ペンスピナーを覆い尽くして、既に五十メートル程にまで膨れ上がっていた。大島はそれを仰ぎ見て語りかけた。
「あなた方は死んだのです。しかし、あなた方にはまだ希望がございます。ペンスピナーのお力となって、共に衆生を救うことです!」
彼女がそう言い放ったあと、静寂が強調されて、どこからか、緩やかで甘美なキャロルが流れていることが気付かれた。
そのとき、皆の手の甲や鼻に、冷たいものが当たった。雪だった。そしてそれは、いかにも戦場に似つかわしからぬものに思われた。
ペンスピナーを覆う無数の影は、天から舞い降りた雪に触れられるにつれ、銀色の光を放った。
「何だ、この光は!」
太陰怪獣は言った。
やがて、光となった亡霊たちは、人の形を成した。それは、銀色の蓮に乗り、銀色のマントに身を包んだ、巨大なペンスピナーの姿だった。彼は、霊たちと一体化して、光の巨人となったのだ・・・!
さしもの無関心な民衆も、巨人の神々しい姿に、目を奪われざるを得なかった。
「あれは何だ!」
「あれは神のお姿だ・・・。」
「仏様だ!乱れた世を正しにご来光下さった、慈悲深い方だ!」
人々はおのがじし言った。
なおも聞こえているキャロルは、「きよしこの夜」であった。それはまるで、巨人がまとう、音の羽衣のようであった。
彼の額の目玉シールが、ガラスが割れるような音を立てて砕け散った。そして、彼の白かった瞳に色が宿った。
舞い降りる雪に、その銀色の光を反射させながら、彼は厳かに言った。
「私は、今は亡きペンスピナーの使命を受け継いだ。私は・・・、魔に咲く光の花、太陽旋士・麻咲イチロウだ。」
太陰怪獣は、巨人=麻咲に猛烈な速さで迫った。麻咲は、銀色に輝く法輪を突き出した。
そのとき、川添が叫んだ。
「麻咲、加減しろ!封印の儀式を行う!」
麻咲は、それがまるで聞こえないかのように、法輪を親指の上で回した。
「必救・仏道法輪回し・・・!」
そう言い放つと、接近した太陰怪獣に、法輪を放った。敵は光線を放ったが、それをものともせずに、法輪は敵の本体に命中した。
「ぐわああああ!」
太陰怪獣の叫喚が響き渡り、ペンは敵を貫通した。そして、空中で大爆発を起こしたのだった。
(十七)
やがて、麻咲は再び光に包まれた。その中から、等身大の麻咲が舞い降りた。白いマントと長髪の姿であったが、瞳には、生前の麻咲イチロウと同じ命の色が宿っていた。
皆は彼に駆け寄った。そして、複雑な面持ちで彼を見た。雪は既に止んでいた。
「なぜだ、なぜ倒してしまった!」
川添はそう言いながら麻咲に迫り、その頬を殴った。麻咲はしかし倒れなかった。
「貴様のせいで、人類はやがて滅亡する!」
麻咲を更に殴ろうとする川添を、栄山が制し、麻咲に向き直った。
「お前の決断には、意味があると信じている。聴かせてくれ。」
「あんたは、栄山の親父さん・・・か。出会って間もないころ、麻咲イチロウはあんたに言った。俺の使命は人を救うことだ、と。だがそれは、人類を繁栄させることとは違う。」
「・・・お前は、お前の使命を果たしたんだな。もはや何も言うまい。」
そのときだった。
「ふっふっふ。我は倒されぬ。」
雲の上から不気味な声が聞こえてきた。
「人類ある限り、我は滅びぬ。だが、ペンスピナーよ。この勝負は、我の負けだ。我は再び、陰から人類を苦しめることにしよう。さらばだ・・・。」
その声が、彼らが聞いた、太陰怪獣の最後の声だったのだ。
皆は暫く呆然としていたが、赤井が沈黙を破った。
「結局、これしか解決策はなかったということか。」
その場にいた誰もが、それ以上のことを言えなかった。
突如、彼らの視線が、麻咲を超えてその背後に回った。そして彼らはどよめいた。
麻咲は振り向いた。すると、麻咲の背後には、赤いスカーフを巻いた、半透明の麻咲の姿があったのだ。
マントの新麻咲はスカーフの旧麻咲に歩み寄った。旧麻咲は、自分と同じ半透明のペンを取り出した。
新麻咲は手を差し出し、それを受け取った。ペンは、その手に吸い込まれるように消えた。
相対する新麻咲と旧麻咲。それは二人ではない。実は一人なのだ。左手と右手が、同じ一人の人間の別々の部分であるように。
新麻咲がそのことに気付いたことを、旧麻咲は見越したように、微笑みを浮かべた。そして、夜空に吸い込まれるように消えていったのだった。
(十八)
新しい麻咲イチロウは、その後、初代麻咲の記憶を(不完全ながら)復元された。
「十七代目・竜血旋士」の称号も、代を変えずにそのまま引き継ぐことになった。
更に、竜血寺の監修のもと、警視庁開発部が、生前の麻咲愛用のペンとそっくりのペンを完成させ、新麻咲に贈った。
粗方が元通りになったのであった。
しかし、本人はどうも、自分の状態に馴染めずにいた。
「俺は、生前の麻咲を模したレプリカに過ぎないのじゃないか。」
彼は、記憶の不完全さを思い知る度にそう言った。
その都度、閨川は言った。
「記憶障碍を患ったと思えばいい」
と。
しかし、彼にはどうしても違和感が拭えなかった。自分が一度死んだのは事実だ。一度、全てが終わったのだ。それなのに、今こうして人生が存在することへの違和感・・・。
ときは流れ、西暦二〇一七年、春。
閨川、園、川添、栄山、そして赤井の五人が、東京の空港に集まっていた。彼らの前には、麻咲の遺品に身を包み、元の麻咲の髪型にした、麻咲の姿があった。彼は、閨川が関東を、園が近畿を統べることになった新生・特殊課に日本を任せて、ドイツに旅立つ決心をしたのだ。怪奇現象を退治するために。
畢竟、彼は麻咲として戦うことでしか、自分が麻咲であるという自覚を得られないのだ。
日本での彼の時代が三年も前に終わった以上、彼は自分が自分でなくなってしまう前に、己を必要としている戦場へと赴かねばならないのだ。
閨川は、戦友としてそのことをよく心得ていた。全身に朝日を浴び、ポールで仕切られた向こうの世界へ去り往く麻咲の後姿こそ、麻咲の時代の終焉を告げるものであった。
閨川は、自分の頬を伝う、冷たい感覚に気付き、それを拭い去った。
(涙など、いずれときが拭い去ってくれる・・・。)
だが、彼の意にかかわらず、涙は溢れ出た。
「すまなかった、イチロウ。お前の苦衷を理解してやれるのは、私だけだったのだ・・・!」
嗚咽に紛れたその呟きを聞いて、麻咲が顧みたとき、閨川はすでに目の前まで迫っていた。
麻咲には、その一瞬が永遠のごとく感ぜられた。
あの戦いの夜、対峙した二人の麻咲は、あくまで同じ麻咲であった。だが、自分と麻咲とは別人なのだ。それがどんなに近くとも。
当たり前のことだろうか?否!いま麻咲を抱きしめている閨川は、それでもなお、麻咲に溶け込まず、あくまで閨川なのだ。その理由を問われれば、「彼が閨川守であるから」としかいらえようがないではないか!
無限に広がる空のもとで、殆ど一体の如く近くにいるのに、彼らは他者であれるのだ。
生前の麻咲の歴戦を、この麻咲のものとして、しかも肯い、抱きしめている。それでも、閨川は麻咲ではない、一個独立の人間であり続けることができるのだ。
他者があくまで他者であること。このことこそ、時の流れによって自分が如何に変遷しようと、あくまでその自分であり続けるという神秘に対する、答えだったのだ!
閨川が閨川であるという事実が、麻咲をも麻咲たらしめるのだ。そのことに感謝を込めて、麻咲は閨川の耳元に囁いたのだった。
「さようなら、現代の・・・怪談。」
ペンスピナー 麻咲イチロウの事件簿 現代の怪談編 完
2016/11/26起筆
2016/12/19公開
2024/02/07文章手直し(セリフ以外)




