第二話・前半
告
本話は、動物虐待を肯定するものでもなければ、過激な動物愛護運動に傾倒するものでもございません。純粋に、登場人物の心的交流を描かんとしたものでございます。一切の思想的他意はございません。
[第二話]
(一)
その少年は、とにかく蛙が好きだった。
人間の友達は作らず、蛙にだけ心を開いた。
小学生の彼は、蛙への愛に溺れていった・・・。
(二)
西暦二〇一三年二月上旬。長崎県の、ある大学のセミナー室で、「実験動物シンポジウム」が開かれていた。現在の演目「マウスの他我認識能力に関する実験 島田裕」は、結論に差し掛かっていた。
「・・・このように、AKRマウスを用いた社会行動テストは、いずれも、他個体の感覚に共感する能力の高さを示しています。」
島田は、最後に、今後の課題と謝辞を述べると、思い出したように、ちらほら鳴りかけた拍手を制して、最後に一言付け加えた。
「他人の痛みを、直接感じることはできません。しかし、自分に置き換えて想像することならできます。それは、他の動物の痛みに対しても同じです。」
会場は、しんと静まっていた。
「現在の動物実験では、爬虫類未満の動物には、感覚はないものとして扱われますが、苦痛の質は、そう明確に線引きできるものではありません。例えば、蛙や昆虫に対しても、その痛みを、『我々が』想像できる以上、その苦痛に配慮するための法整備が必要と言えるでしょう。」
質疑応答が始まると、島田の本務校の学部長が提言した。
「先生が最後に付け加えられた発言についてですが、先生は動物実験の廃止を訴えられているのですか?」
「そうではありません。両生類と爬虫類の間で、はっきりと線引きをしてしまうべきではないと申したのです。具体的には、感情移入をし易いかどうかです。極端な例ですが、我々は空気の痛みを想像することはできません。しかし、木の痛みなら、少しは想像できます。まして昆虫ならもっと想像し易いでしょう。そして両生類、爬虫類、原始的な哺乳類、高等な哺乳類、そして類人猿・・・と、段階的に使用することを提案したのです。これこそが、三R原則の『リプレイスメント』に適うと思われます。」
そのとき、学部長の左隣に座っていた研究者が提言した。
「先生のご提案には、具体性が見受けられません。感情論に拠る分類は慎むべきです。」
そのとき、この彼と学部長の周辺からクスクスと笑い声が聞こえた始めた。
「感情論ではありません。この度の私の実験成果を利用して、他我認識能力を数値化し、感覚能力の指標とするのです。」
そのとき、司会者が島田を制し、彼に壇上から降りるよう言った。
嘲笑が興る中、先程の聴講者が野次を飛ばした。
「島田先生は、いつから文系に転向なされたのですか!」
と。
学部長の一派は、島田を見下してきた。理由は、彼の研究内容が、いささか「文系的」であったからである。
賢明な読者の中には、学問の聖域たる「大学」に、理系分野から文系分野に対するいわれなき侮蔑があることを、訝しく思われる方もおられるかもしれない。しかし、本邦の生物学研究者の間には、このような偏見が猖獗を極めているのが実情なのだ。島田が、博士であるにも拘らず、しがない講師の身に過ぎぬのも、このためであった。
さて、島田は、発表会のあった大学から少し離れた、長崎県島原市のビジネスホテルに泊まり、明日本務校に帰ることになっていた。
(三)
島田のホテルから、そう遠くないところに、寂れた住宅街があった。
その夜、そこで、無数の雨蛙が、きっちりと二本の行列を成して前進していたのである。
雨蛙たちの行く先には、池があった。彼らは、そこに次々と飛び込んでいった。
やがて、水面上に、黒い影が現れ始めた。蛙が池に飛び込む程に、黒い影は大きくなっていった。
黒い影は、二メートル程に達した。
げえろ、げえろ、げえろ、げえろ。
影の中から、鳴き声が聞こえてきた。
そのときだった。突風が吹き、黒い影を吹き飛ばしたのだ。
雲の谷間から、月の光が差し、人影を照らした。
それは、紺のコート、黒のスーツに身を包み、紺のネクタイを締めた、長髪の青年であった。その精悍な顔立ちは、冷静さの内に力強い攻撃本能を湛えているようであった。
げえろ。
黒い影は、長髪青年に飛び掛った。
青年は、片手を敵にかざした。するとどうだろう。敵は宙で静止した。
「やあっ!」
青年は、手も触れずに敵を投げ飛ばしたのだ。
げえろ、げえろ。
敵は水面上で蠢いていた。
青年は、手刀を高く構えた。
「月光よ、私の右手に集え。」
なんと、宙から光の粒が出で、青年の手に集まってきたではないか。
青年は、光り輝く手刀を後ろに引くと、叫んだ。
「超能力・フォトン光線!」
そのとき、彼の手から、敵に向かって光線が放たれた。
光線は、敵に当たるかに見えたが、間一髪のところで、避けられてしまった。青年は敵を探して走ったが、もはや敵の姿はなかった。
「逃げられたか・・・。」
(四)
翌朝のこと。
長崎市の警察署に、目立たない別棟がある。これこそは、人知れず心霊事件を捜査し、霊から市民を守っている「警備部・特殊課」の長崎支部秘密基地なのだ。
ここに、先程の長髪青年が現れた。
「閨川警部に敬礼!」
起立している隊員たちが一斉に腰を折った。
「楽にしてくれ。」
長髪青年=閨川守警部は言った。
隊員の一人が、歩み出て、閨川に言った。
「閨川警部。わざわざご足労をお願いして、申し訳ありません。今回の事件は、我々の手には負えないのです。」
「構わん。怪獣退治は、初代隊長から直々に頂いた、私の使命だ。」
「助かります。」
二人は握手を交わした。
閨川は、一人の若い女性隊員に目を遣った。
「彼女は?見ない顔だが。」
女性隊員は自ら答えた。
「始めまして。私は今日来たばかりの研修生で、竹中邦子と申します。民俗学班に配属予定です。」
「そうか。頑張ってくれ。」
二人は握手を交わした。
(五)
一方、島田は、荷物をまとめ、ホテルのチェック・アウトを済ませ、長崎を観光した。
彼は長崎市の繁華街ではなく、島原市の漁師町に興味をそそられ、散策した。それは故郷・兵庫県北端の香住(現・香美町)に似ていたからだった。
昼下がり頃、彼はあの池の前を通りかかった。空は曇り、蛙の声が響き、雨が降りそうな気色であった。
彼は、菖蒲の生えたぬかるみの中で、何かが蠢いていることに気付いた。菖蒲の中に、中年男がしゃがみ込んでいたのだ。横には大きな発泡スチロールの箱が置かれていた。
島田は、男が何をしているのかを見極めようとした。男は、菖蒲の中から、何かを掴んでは箱に入れ、掴んではまた箱に入れていた。
男は、島田の視線に気付き、箱に蓋をし、そそくさと去ろうとした。箱を抱えて歩き始めた男の背中に向かって、島田は、独り言のように呟いた。
「北村?」
男は足を止め、ゆっくりと振り向いた。
「あんたは?」
島田は、男が呼び掛けに応じたにも拘らず、予想が誤りであったかと思った。それ程までに、男の面貌は、彼の知る「北村」という男から掛け離れていたのだ。
島田は、男の、殆ど灰色に近い顔に向かって、答えた。
「島田だが・・・、北村だよな?」
「島田・・・島田裕か?」
島田は、ようやくその男が北村であると確信した。
北村は、島田の小学校時代の親友だった。
北村は蛙を溺愛していた。
あるとき、同級生の不良グループが、嫌がらせのために、北村の前で一匹の蛙を殺めたことがあった。北村は烈火の如く怒り、大勢の不良グループ相手に大立ち回りを演じた。
同級生の島田は、この顛末の唯一の目撃者として、教師に対し彼を弁護した。当時虚弱だった島田にとって、不良グループの逆襲は恐怖ならざりえなかったが、彼は何より、北村一人を悪者にしようとする教師たちへの反抗心に駆られ、彼を弁護せずにはいられなかったのだ。これが、二人が親友になったきっかけであった。
中学に上がるとき、島田は転校し、香住を遠く離れた。その後、文通を続けていたのだが、あるときから、返信が途絶えていたのだった。
(六)
北村の住むアパートメントは、池のすぐ近くだった。世辞にも整った環境とは言えず、歩く度に床が、ぎい、ぎい、ぎい、と鳴いた。
島田は北村に伴われ、彼の部屋に来たのだった。北村は、左手で先程の箱を抱え、右手で鍵を回した。ぎいいいいっ、と、音を立ててドアが開いた。
北村は箱を部屋の前に置くと、先に部屋に入った。
「入れ」
言われて島田が足を踏み入れた先は、生活必需品のすべてが四畳半に詰め込まれた世界だった。中央には、卓袱台が鎮座しており、その向こうの正面には、割と大き目の窓があった。
北村が窓を開けた。するとその向こうには、あの池が広がっていた。池は、さながら一幅の絵のように、部屋に溶け込んでいた。
二人は卓袱台を挟んで座った。
「あれ、蛙を集めてたんだろ。」
島田は、例の箱に目を遣った。
「まあな。それより、お前は夢が叶ったそうだな。新聞の記事に、お前の研究のことが載ってたよ。おめでとう。」
「ありがとう。でも、小さい記事だっただろ。」
島田は、はにかんだように笑った。島田の視線は、窓から飛び出し、池を越えて虚空へと吸い込まれていった。
「博士号授与式の日。あの日こそが、俺の全てだ。」
島田は、独り言のように呟いた。
「俺という男は、あの日に死んだ。」
北村は不思議そうな顔をした。
「『死んだ』だって?」
「夢なんてものは、一度叶ってしまえば、後には何にも残らない。今の俺は燃えかすだ。」
それを聴いた北村は、暫く考え込んだ後、言った。
「夢を追っていた頃のお前は、やがて夢が叶う未来をも内包していたと言える。とすると、今のお前も、嘗てのお前の一部なんじゃないか。」
「ハハハ。議論好きも変わっとらんな。」
暫しの沈黙の後、島田は更に続けた。
「変わってないな、お前。最初、お前の感じが変わったことに驚いたが、やはり変わってなくて安心したよ。蛙を飼ってることもな。」
「いや・・・」
北村は、何かに耐えるかのようなしかめ面を見せた。
「俺も変わってしまったんだよ、島田・・・。」
北村の、歯を食いしばって俯く姿が、「問うてくれるな」と言っているようだった。
島田は、最初、北村の無言の要求に応じようとした。しかし、かれは、あえて言った。
「北村。俺は、お前を兄弟だと思っている。それは今も変わらない。お前がどう変わろうと、それを俺が受け止めないと思ってくれたまうな。」
北村は返す。
「実は、誰にも打ち明けられないのが心苦しかったのだ。よし、言おう。だが、この告白は、非難されて然るべきものだ。これを聞いてお前が俺を見捨てたとしても、恨みはしないから、安心してくれ。」
北村は告白し始めた。
「俺は、蛙を殺すために飼っているんだ。」
島田は絶句した。他の者ならいざ知らず、嘗て蛙を溺愛していた北村が、蛙を殺しているというのだ。島田は、全身の皮膚に凍て付くような痺れが走るのを感じた。
彼は、動揺を御しつつ、更に聞いた。
「何があったんだ。」
「小学生のとき、不良グループが、俺の目の前で蛙を殺したのを覚えてるか。」
「ああ。」
「中学の頃、同じことが起きたんだ。そのときも、俺は奴等を叩きのめした。だが、あのときと違って、庇ってくれる奴はいなかった。教師は、乱暴者の俺を悪者扱いした。そこから、不良グループの、独特のいじめが始まった。」
島田は息を呑みながら話を聞いていた。
「奴等は何度も、俺の前で蛙を殺した。俺は、耐えるしかなかった。味方はいなかった。動物愛護法さえも、『爬虫類未満は適用外』としてしまう。」
島田はそれを聞いて、昨日の発表会の、あの屈辱を連想した。
北村の告白は続く。
「奴等の殺し方は、どんどん残虐になっていった。奴等は、虐待を楽しんでいるようだった。俺は、抵抗することも許されぬまま、来る日も来る日も、その惨状を見せられ続けたのだ。」
島田は、北村の当時の心中を慮り、胸が締め付けられるように、息が苦しくなった。
「だがやがて、見せられている俺自身にも、邪悪な心が芽生えた。『芽生えた』というより、人間が本来持っている残虐性が首をもたげた、というべきかも知れない。知らないうちに、俺は、その虐殺を見ると、興奮するようになっていった。そして、俺自身、虐殺せずにはいられなくなってしまった。今も、蛙を共食いさせているところなんだ。」
告白を終え、北村は言った。
「到底、俺が許せないだろう?」
しかし、次の瞬間、島田の震える手が、北村の肩を掴んだ。
「さぞや、辛かったろう・・・。」
それを聴いて、北村の積年の緊張が振り切れた。
北村は、島田の胸に縋りついて泣いたのだ。それは、母に全幅の信頼を寄せる乳呑児のようだった。
島田の腕は、北村の背に回った。
北村は、赦された自分が次に何をするべきか、よく知っていた。だから、島田が次に何を言うつもりかも、よく判った。
北村は自分から言った。
「共食いさせている蛙たちを、逃がすよ。」
「よく言った、北村。俺も傍に付いていてやる。」
他の者ならいざしらず、島田がそう言ったのは、北村が本当に逃がすかどうかを監視するためなどではなく、純粋に北村の心を支えんがためであると、北村にはよく判った。