解説 〔第十一回〕
メイキング オブ 「現代の怪談」〔11〕
~狂気の恋物語~
今回は、麻咲はおろか、お馴染みの顔触れが一人も出てこない。
これまでの話では、「怪談」で狂気を提示し、「ヒーロー」が正気を代表して怪現象を解決する、という構成を取ってきた。
しかし今回は、狂気を狂気のまま味わっていただくために、敢えてヒーローを登場させなかったのだ。
☆恋愛の脱論理性☆
唐突だが、ドイツ語には、「知る」に相当する動詞が二種類ある。
"kennen"と"wissen"である。
"kennen"には、「この目で見たので、今もありありと思い出せる」というような、臨場感あるニュアンスがあり、"wissen"には、「その情報を持っている」というような、機械的なニュアンスがある。
科学万能主義は、「凡そ"kennen"できるもので、"wissen"できないものはない!」と断じてしまう。
(因みに科学は"Wissenschaft"と言う。さしずめ、「知り得る限りのもの」とでも訳すべきだろうか)
しかし怪談というジャンルでは、「"kennen"はできても、"wissen"はできないもの」をも描くことができるのだ。
そしてそれこそは「狂気の領域」なのである。
では、狂気の領域に属する事柄は、フィクションの中にしか存在しないのだろうか。
いや、実は我々のごく身近にもあるのだ。
例えば、「恋心」である。
恋心ほど、言葉で説明の付かないものはない。
明らかに「性」に関係があるにも関わらず、「性欲」からは無限の距離で隔てられている。
「あなたが好き!」は、決して「私はあなたに性欲を覚えています」という意味にはならない。
恋愛とは、論理の枠組みから逸脱した概念なのである。
(「恋愛」が実在することからも、科学万能主義が正鵠を射ていないことが窺えるだろう)
☆音楽と恋愛☆
音楽は、言語がなくても、自分の感情を相手に伝えたり、相手に特定の感情を抱かせたりすることができるツールである。
だから、論理を受け付けない恋愛という概念をも表現することができるのだ。
しかし、音楽と恋愛には、それ以上の強い関係があるのではないかと思う。
まだ言語を知らない、我々の遠い先祖が、愛する者に思いを伝えるために、歌を用いていたとしても不思議ではないのではないか。
エンマコオロギやカネタタキが異性を求めて歌うように。
私には、それが今日の音楽の源流となっているように思えてならないのである。
日野剣太は、ピアノソナタの作曲に没頭し、どんどん「正気の世界」から遠ざかって行った。
それと同時に、シズカへの片思いが彼を「狂気の世界」へと引き込んで行った。
これは、音楽と恋愛が同時進行するものであるということを暗示しているのだ。
しかし結局、日野は音楽からも恋愛からも足を洗い、「正気の世界」に戻ることを選んだ。
彼のこの判断は、いかにも健全であった。
・・・だが、もはや全ては遅すぎたのである。
☆どこから狂い始めたのか☆
読者の目線は(=日野)は、いつの間にか狂気の世界にフェード・インしていた。
もはや麻咲イチロウのようなヒーローすら救出に来られない領域にシフトしてしまったのだ。
では、どの辺りまで引き返せば、正気に戻れる見込みがあったのだろうか。
つまり、正気と狂気の不明瞭な変わり目に、敢えてボーダー・ラインを引くとしたら、どこなのだろうか。
これは、私があなたに投げかけたクイズである。
このクイズには答えがない。
私は、このボーダー・ラインをどこに設定しても矛盾が生じるように設計した。
言い方を変えれば、どこに設定しても、ちゃんと「狂気の物語」として成立するのである。
このクイズに挑戦するとき、あなたは既に、狂気の世界に引きずり込まれ始めているのだ。
今回の話は、これまでの「客観的に読む怪談」とは一味違う、「読者体験型の怪談」なのである。




