第十一話・後半
(八)
彼が学校に来ることを億劫に感じる最大の理由は、無聊にあった。授業の内容は理解できず、一年下の同級生たちと交友を持とうともしなかったのだ。
昼休みは、机に伏して寝入った風を装って、同級生らの姦しい雑談に耳を傾けるのが、退屈凌ぎの良策であった。
「母さんから卒業アルバムを借りてきたんだけど、見てくれる?あの噂、本当らしいよ。・・・ほら、ここ見て。『残念なことに、私達のクラスメイトが行方不明になりました。間宮静香さん。私達は、あなたの無事を祈っています。』。でね、母さんに訊いてみたら、最後に間宮さんがいた場所、あの音楽室なんだって!」
「やっぱり、音楽室の幽霊は本当なんだよ!」
それを聞いて、日野は、伏せていた顔を上げた。首筋の皮膚に冷たい緊張が走っていた。
あのシズカは、幽霊だったというのか?いや、そんな筈はない。一度、校門の近くで遇った彼女は、現実的世界に齟齬なく嵌め込まれた、確かに実在の人物だったのだ。
そのとき、彼はあることを思い出した。前回会ったとき、音楽室の鍵を開けたのは日野であるのに、シズカは既に室内にいたのだ。あのとき、彼は、適当な説明を講じて納得してしまっていた。
そう言えば、確かに、音楽室で見た彼女には、どことなく、現実の世界から少しずれた次元の住人のような印象があった。
彼は帰路で、ずっとそのことを考えた。考えれば考えるほど、彼女が現実ならざる世界の住人であるという観念が強くなっていった。
帰宅後、彼はピアノに向かうと、片手で例の旋律を奏でた。
彼は、この期に及んでも尚、シズカに対する恋慕の念が消えていないことに気付いた。
そして、この感情の中に、かつて父が母に対して呈したような蛮性があるかどうか、探った。しかし、いくら探しても、それは見当たらなかったのだ。
それは、飽くまで純粋な恋情だったのだ。痛みが飽くまで純粋に痛みであるのと同じように、この恋情は、それ以上に分割できない、素粒子のような、それ自体で完結した、純然たる・・・恋情であったのだ!
彼は、抗うことをやめ、この旋律で、作曲計画を進めることに決めたのだった。
(九)
それから毎日、日野は、学校に来た。シズカの霊との再会の機会を求めて。放課後は、必ず音楽室を訪れた。毎日鍵を借りていては訝しまれるので、音楽室の前まで行って、扉が開いていないかどうかを確認した。しかし、一向に扉が開いている時は来ず、シズカとも遇えなかった。
そうしている間に、曲は完成に近付いた。最初はロンドソナタを書くつもりだったのだが、あの旋律にロンドソナタ形式は相応しくないと気付き、二部形式に変えてしまった。
この頃の彼は、久し振りに活き活きとしていた。彼の目には生気が戻り、胸が張られたことで、今まで影が落ちていた顔にも、光が差していた。
やがて夏休みが始まったが、彼は、学校の音楽室の前に日参した。しかし、依然としてシズカには遇えなかった。
夏休みを全て費やして、曲は遂に完成した。完成した曲を、彼は「彼岸のアダージョ」と題した。
完成したとき、彼は、あることに気付いた。この曲の調が、前作「怪談のソナタ」に対して、ちょうど、下属調であったのだ。
彼は思った。
(これは、ピアノソナタの一部だ。そうに違いない。)
と。
ピアノソナタの諸々の定義から言っても、かの「怪談のソナタ」が第一楽章で、この「彼岸のアダージョ」が第二楽章であると考えると、納得が行った。
そして、第三、第四楽章に続くのだと、彼は直感したのだ。
彼は早速、第三楽章の作曲に取り掛かった。第三楽章は、陰鬱を吹き飛ばすような、テンポの速い、三拍子の情熱的なスケルツォを企画した。
彼は、健康を肯えるほどにまで、健康を取り戻していたのだ。しかし、それは、シズカが非現実的な存在であることを前提とした健康であった。現実世界に向き合った健康ではないということに、彼自身は気付いていなかった。
夏休みが終わっても尚、日野はシズカと再会できなかった。彼は、もうシズカに遇えないのではないかと懸念した。懸念に抗うように、彼は、根気強く音楽室に通った。
窓から見晴るかす山は徐に色めき、残暑の中にも、風は微かな涼を運びつつあった。
(一〇)
九月の末。第三楽章「火のスケルツォ」が完成した日の翌日。
何日か、秋雨が続いたが、その日は偶さかの秋晴れであった。
昨日までの雨をまるで意に介していないような、その叙情的な夕日に、彼は、前回シズカと会った日を髣髴した。
(こんな日こそ、シズカさんとの再会に相応しいのになあ・・・。)
彼は、好都合を露骨に期待した。シズカに「現れて欲しい」という期待が、知らず知らずのうちに、「今に現れるぞ」という希望的観測、あるいは妄想にすり替わっていたのだ。
彼は、音楽室を指して歩いていた。
その途中で、彼は、前方を行く男女二人の学生に目を奪われた。それは、シズカとヒデトシであった。
日野の心の中には、再会の歓喜と、この二人の関係への懸念との、相反する二つの感情が混在していた。
もはや、シズカが生者か死者かなどは、問題ではなくなっていた。
彼は、二人が恋人同士であって欲しくないと、祈るような気持ちで二人の後を付けた。二人は、やがて音楽室に入って行った。
暫くして、日野も音楽室に至った。そして、扉を微かに開け、中を窺った。
室内には、二十人ほどの生徒が座っていた。その中に、シズカの姿もあった。
黒板の前に、ヒデトシが立っていた。
「それでは、音楽史研究会のミーティングを始めよう。諸君、変身を解いてくれたまえ。」
それを聞いたとき、日野は安心した。二人に関する疑惑は、一先ず据え置きになったのだ。
だが、次の瞬間、彼は目を疑った。部員たちの姿が、次々と、赤やら青やらの、光る人型の怪人に変わっていったのだ!
見たところ、男性は全身青一色、女性は全身赤一色のようであった。
青い怪人になったヒデトシが言った。
「同士諸君。人間どもは、折角我々が与えてやった『音楽』を、斯くも零落させてしまった。」
「そうだそうだ!」
他の怪人たちも口々に共感した。
怪人の一人が立ち上がって発言した。
「私は、折角あのベートーヴェンという男を使って、音楽をキリスト教の手から人間の手に奪い返してやったのに、人間どもときたら、それを、近代思想至上主義という別の宗教に易々と渡してしまったんだよ。人の好意を無にしやがって!」
他の怪人も声を上げた。
「儂なんか、ジョン・ケージという男に音楽をくれてやったのに、あろうことか奴はそれを実験材料にしてしまった。もはや、人間に音楽など、勿体ない!」
ヒデトシが、皆を制して言った。
「諸君の気持ちはよく解った。そこで訊きたい。これからも人間に音楽を与え続けたいと思うかね?」
「思わない!」
「よし。それでは、人間から音楽を取り上げることに、異存はないね?」
そのとき、赤い怪人が発言した。その声は、シズカであった。
「全ての人間が悪いと決め付けるのは、急進的過ぎないかしら?」
「甘いね、人間なんて皆一緒だ。」
そこに、別の青い怪人が口を挟んだ。
「いや、シズカ君の意見にも一理ある。音楽と言うのはだね・・・」
・・・こんな怪奇な光景を目の当たりにしているのに、日野は何ら恐怖を感じず、自分が恐怖を感じていないということへの違和感もなかった。
それは、例えるなら、夢に幻想を見ているときに、もしそれが現実なら感じるであろう恐怖を、夢の中であるがゆえに感じないのと似ていた。
そのとき、怪人の一人が、声を上げた。
「人間がいるぞ!」
その声に従って、怪人たちは一斉に日野の方を見た。
「すいません。立ち聞きする気はなかったんですが。」
日野は、論点のずれたことを言った。
「憎き人間め、先ずはお前から音楽を吸い取ってやる!」
そう言われたとき、初めて、彼は身に危険を感じた。
そのとき、赤い怪人のシズカが声を発した。
「待って。その人は私の知り合いよ。」
シズカは、人間の姿に戻り、日野に歩み寄った。
「あなたには、音楽を愛する資格があるわ。どう?あなたも、私たちの仲間にならない?」
シズカは、日野に手を差し伸べた。日野は、その手を取ろうとした。すると、彼の手は、青い光を放ち始めた。
彼は、考えるに先んじて、手を引っ込めた。手は、人間のものに戻った。
あれほど疎んでいた現実世界だというのに、いざ完全にそこから去ろうとすると、ほとんど反射的に、未練が現れたのだ。
「心配ないわ。こっちに来れば、こっちが現実になるんだもの。そして、そっちが非現実になるのよ。」
「僕は・・・、やっぱり、こっちに残るよ。」
「そっちには、あなたの生き甲斐はないのでしょう?分かってるのよ。」
「いや、僕はやっぱり、小説家を目指したいんだ。」
日野は、自分の口から出た言葉に驚いた。彼はそのとき、漸く、自分が文学に希望を残しているということに気付いたのだ。
シズカは、寂しそうに言った。
「・・・そう。少し寂しいわ。じゃあね。」
シズカは手を振った。
次の瞬間、怪人たちは、シズカを含めて、姿を消していた。そこには、日野が一人立っているだけだった。
(十一)
六世紀、仏教の伝来と共に、本邦に輪廻思想が広まった。
読者に近しい人が亡くなったとき、仏式なら、「四十九日の法要」というのを行ったことだろう。人が死んで間もない頃は、「中有」と呼ばれる幽霊のような状態をとっており、四九日後に「生まれ返り」を果たす、という思想に由来する習慣である。(注5)
他方、日本古来の信仰では、人は死ぬと、黄泉の国に移住すると言われている。
この「黄泉の国」と、現実世界「中つ国」は、「千引の岩」で隔てられているとは言え、地続きになっているとされる。
そして、死者が、黄泉の国から現実世界に帰ってくることを、「蘇り」と呼ぶのだ。
「生まれ返り」と「蘇り」。この二つは、由来も違えば、意義も違う。しかし、共通して言えるのは、現実的世界と、非現実的世界とが、互いに無関係ではなく、例えるなら、「怪談のソナタ」の、あの「寂寥」の旋律のように、異なる調で現れていても、実は同じ曲の別の部分に過ぎないのと、同じことなのだ。そして、曲の終盤で同じ調で反復されたように、誕生や死といった、生命と非生命の転換のような大事件のときに、二つの世界の間で行き来が起こるのである。
日野は、音楽室での一件以来、「現実」と「非現実」の連続性を、もはや疑い得ないものとするようになった。彼は、あの体験を、現実と非現実の境界線上で起こったことと考えた。
あれから、シズカが再び現れることはなかった。
恐らく、彼女は、昔、行方不明になったときに、現実ならざる世界に移住したのだ。そしてその出入口が、音楽室にあったのだ。と、彼は考えた。
(十二)
しかし、事態はそう単純ではなかった。
更に数日後、秋が深まった十月上旬のある日、彼は、学校の廊下で、シズカに遇ったのだ!
「シズカさん・・・だよね?」
「ええ。尾松静香だけど、君は・・・、ああ、傘を貸してあげた人だよね?」
日野は、この他人行儀な態度を、人目を忍んでのことと思った。
「後で、話したいことがあるんだけど。」
そう言って、彼は、放課後に約束を取り付けた。
二人は、音楽室の前で待ち合わせた。
「話って、何?」
「君がこの間、ここで赤い怪人に変身したときのことなんだ。」
「は?何のことよ。」
「ここで、人間から音楽を没収する話をしていて、僕を異世界に誘ったじゃないか。」
「何よそれ。あなた、気違いじゃないの?」
そう言って、尾松静香は踵を返してしまった。
日野は、あれが全て、自分の妄想か夢であったのかと思った。
ならば、あの行方不明になった間宮静香は無関係だったのか?校門の近くで尾松静香と遇ったのは、本当は初対面であったのに、彼の妄想が、そのときの会話の内容を、再会の挨拶にすり替えてしまったということなのだろうか?
彼は、去り行く尾松静香に言った。
「僕、君に傘を返したっけ?」
その質問は、一つの試金石だった。もしも、彼が傘を返していなければ、傘を返したあの日のこともまた妄想だということになり、首尾が一貫するのだ。
しかし、彼女が振り向いて返した答えは、「予想外なことに」、「予想通りの」答えだった。
「返してもらったわよ。音楽室で。」
もはや、現実と非現実は入り乱れ、収拾が付かなくなっていた。
だから、これから後の物語には、「もし、これが日野の妄想ではなく、現実であるなら・・・」という前置きが必要だろう。
(十三)
彼はその後、高校を中退し、アルバイトをしながら、小説家を目指して奮闘した。
数年が経ったある日、彼に朗報が訪れた。小さな出版社の新人賞を、彼の作品が受賞したのだ。
彼の心に、俄かに歓喜が湧出した、そのときであった。
「良かったわね。おめでとう!」
彼の横で、声が聞こえたのだ。
彼は振り向いた。しかし、誰もいなかった。今、はっきりと聞こえたその声は、忘れかけていた、あのシズカの声だったのだ!
そのとき、彼の頭に、旋律が浮かんだ。それは、小説家への第一歩を踏み出した彼への応援歌のような、優しげな行進曲であった。
なのに、彼の胸には、空虚感が広がっていた。彼の頬を、涙が伝った。
彼は気付いた。
「ああ・・・、この旋律は・・・、書きかけの、あのピアノソナタの、最終楽章だ!」
もしも、彼にとって、文学と音楽が逆だったら?音楽に挫折し、文学に逃げ込み、そして再び音楽家を目指す人生だったら、こんなことにはならなかったのではないか?
今・・・、そう、今頃になって、彼は悟ったのだ。音楽は、文学と違い、あくまでも「恋」なのだ。理性を媒体とする文学と違い、理性を超越した「恋」なのだ。音楽と恋情は、同じ一つのものの、別々の側面なのだ。
彼は、泣きながら、部屋の窓を開けた。下を覗くと、地面は遠かった。しかしそれは、「あっちの世界」ではなく、「こっちの世界」のものであった。「非現実」ではなく、「現実」の存在だったのだ。
先程の旋律は、彼の頭から既に消えていた。彼は、音楽の感動の外側に立って、ピアノソナタ全体を、あたかも手に取って見るように、品定めすることができた。
第三楽章までは完成しているのに、最終楽章だけ、薄っぺらな完成予想図のままであった。
このとき、彼は初めて、自分を見捨てた父親の心境を理解した。
「こんな文弱に育てた覚えはない!」
あのとき父は、息子を「失敗作」と見做したのだ。
それと同じく、日野は今、完成されるべきピアノソナタが、完成されることを放棄されてしまったのを感じた。しかも、日野自身の手によって!
これがもし失敗作だったら、彼自身の手で捨てることができたろう。父が彼を捨てたように。しかし、彼は、彼の自由意志で、完成を放棄してしまっていたのだ。
彼は、窓から身を乗り出した。驚いた通行人の金切り声が、如何にも「アンチ・音楽」的であった。それは、この行為への、絶対的な肯定のようであった。
彼は落ちた。数秒のフライトの後、彼の頭に、一瞬間、強い打撃が加わった。それが、この現実世界の「果て」であったのだ。
(十四)
音楽の感動は、素晴らしいものである。だからこそ、それを浮気相手に選んではならないのだ。生涯愛し続ける伴侶とする覚悟がない者が、音楽に身を投じると・・・。
そうすると、自分で自分の感動を、それが根差している自身の精神ごと引き裂くことになるのだ。
現実と非現実は、不可逆的に入り混じり、二度と狂気の世界から戻れなくなるのである。
第十一話・完
注5:宗派によって異説が存在するが、ここでは、最もルーツに近いと思われるものを示した。
2016/09/15起筆
2024/01/04文章手直し(セリフ以外)
―――次話PR―――
おばけ会議の残党・道明寺の逆襲が始まる。
そんな中、何と、我らがヒーロー・麻咲が、戦いを放棄する!
麻咲の思惑とは、一体何なのか?
いよいよ最終部に突入する、次回「新たなる戦い」請うご期待!




