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現代の怪談―The Contemporary Kaidan―  作者: 坂本小見山
11.''The Lost Song'' 「失われた歌」
31/42

第十一話・前半

[第十一話]

(一)

 いつの時代、どの民族にも、音楽はある。音楽は、人間にとって欠かし得ないものなのだ。今宵は、そんな音楽にまつわる、一つのミステリアスな話を体験して頂こう・・・。



(二)

 高校の音楽の実技試験は、日野剣太(ひのけんた)にとって、一つの屈辱であった。


 彼の歌は拙劣を極めた。試験は、バス、テノール、アルト、ソプラノの四人一グループで行われたので、他の三人の顰蹙を買ったのだ。


 西暦二〇一三年二月。日野の通う、大阪の成星(じょうせい)高校の廊下にて。


「これって、一種の連帯責任だよな。」

 実技試験の後の休み時間、バスが呟いた。明らかに、アルトの日野への当てこすりであった。日野は黙っていた。

 テノールも口を開いた。

「せめて『迷惑かけた』くらい言ったらどうなんだ?」

 そう言って、日野の肩を突いた。日野はしかし、謝るどころか相手を睨み返した。

 あわや一悶着が起こりかけたとき、ソプラノの女学生が日野を庇った。

「やめなよ。日野君には何の責任もないじゃない。」

「いや、そもそも学校を休みまくってる日野が悪いのであって・・・」


 ソプラノの言葉には、何の他意もなかったが、日野は、それを「庇うふりをして嫌味を言った」と解釈した。それほどまでに、日野の、歌に対する劣等感は、彼の認識の目をひずませていたのだ。



 もし、彼の同級生に対して、「彼の長所は音楽だ」などと言ったら、ジョークとみなされることだろう。



(三)

 その日の夕方。

 学年末の短縮授業で、学生たちは、とうに午前中に帰ってしまっていた。


 誰もいない音楽室に、日野が現れた。

 彼が手袋を外すと、手袋越しに伝わった外気の寒さのために薄紅味を帯びた、鍵盤を愛撫するために在る触手のような、繊細な指が現れた。


 彼はピアノの前に座した。手に、窓から差し込んだ朱赤の夕日が、温かく触れた。

 彼は冷えた鍵盤に指を置いた。そして、力を込めた。


 日野はなぜ、ここでピアノを弾こうと思ったのか?そこには、音楽に対するプライドを辱められた、この「場所」に対する、雪辱の意図があったのだ。


 彼の指が、本のページを捲るように紡ぎ出した旋律は、とても悲しげなものであった。喪われた「思い出」の死を悼み、嘆いて歌っているような旋律であった。

 彼の、ビスク・ドールのような、神経質な美質を備えた顔にも、曲調にシンクロした懐古の深刻が宿っていた。


 やがて曲は、どこか浮いたような調に移り、曲調も打って変わった。それは、成仏を諦めた地縛霊の、乾いた冷たい諦念のような、寂寥としたものであった。(注1)


 曲が進むと、寂寥は更に厳しさを帯び、アレグロの畳み掛けるような焦燥を呈した。そして、旋律の成す緊張が絶頂に達したとき、彼の指は鍵盤を押さえつけたまま止まった。


 空間に落ち着きが取り戻され、最初の、あの嘆くような旋律に戻った。その旋律に続いて、また例の寂寥とした旋律が始まったが、今度は転調せず、さながら悲しみと地続きの寂寥といった気色であった。

 そして、寂寥が余韻を残して鍵盤に染み入るように、曲は終わった。(注2)



 音楽の世界から現実の世界に戻った日野は、そのとき漸く、室内にいる見知らぬ女学生に気付いた。

 彼女は、椅子に座り、演奏者の日野自信をまるで無視しているかのような格好で、あたかもCDプレイヤーから流れる音楽を聴くような態度で、しかも熱心に彼の演奏を聴いていた。


 彼女は、余韻が止んでから、日野に顔を向けた。嫣然と微笑んだその顔は、どこか大人びた、凛とした優しさを帯びていた。

「悲しい曲ね。でも好きよ。何ていう曲?」

「『怪談のソナタ』。」

「誰の曲?」

「僕。」

「君の作曲。どういう心境で作ったの?」

 このとき、彼女が「すごいじゃない!」などと、作曲したこと自体を褒めるような言い方をしなかったのは、大いに日野の意に適った。然れども、彼は彼女の質問に、彼の音楽に対する考え方と相反するものを見て取った。

「僕が何を表現したかなんて、どうでもいいですよ。あるのは、聴き手が何を感じたかだけです。」

 閉鎖的な彼が、珍しく持論を述べた。それは、二人のいるこの音楽室が、浮世離れした象牙の塔のように感ぜられたからであった。


「あら、でも、私がいなければ聴き手はいなかったじゃない?」

「聴き手が実際にいなくても、聴き手を想定しさえすればいいんです。」

「聴き手がどんな感想を持つかも含めて?」

「うん。」

「ふうん。君、名前は何て言うの?何年生?」

「日野。一年生です。」

「私も一年生よ。日野、何君?」

「日野剣太。君は?」

「シズカよ。」

「君は、どうしてここに?」

「ここで会合があるの。まだ時間があるんだけど、早めに来たのよ。」


 日野は、その会合について聞こうとはしなかった。彼はやがて、簡単に挨拶して、帰って行った。



(四)

 野に活気が復活する季節。年度が明けたが、日野は二年生にはなれなかった。


 彼が学業を等閑にし始めたのは、中高一貫であるこの学校の、中学一年生の秋だった。

 当時、日野は文芸部におり、文化祭に出展する純文学「さらばペンよ」を書いていた。彼はそのために、生活の全てを奉げていた。その頃の彼にとって、執筆こそが、諸々の行為の意味であり、全ての価値の行き着くゴールであったのだ。

 しかし、その身命を賭した執筆は、虚しく終わることになった。執筆に勤しむあまり、中間試験の勉強を疎かにし、成績不振の懲罰として、部活動を休止させられたのだ。

 彼は、文芸のために学業を犠牲にし、その結果、その両方を失ってしまったのだ。


 以来、彼は、何をやっても、結局報われぬような気がして、全てに対して億劫になってしまった。

 そして彼は、趣味のピアノに逃げ込むようになった。電子ピアノに繋がれたヘッドホンの内側に隠遁したのだ。

 こうして日野は、現実から逃避するようになったのだ。


 剣道家である父は、息子に対する予ての不満を爆発させた。

「こんな文弱に育てた覚えはない!」

 そう言う父に対して、母は、彼を庇った。

 彼は、母に連れられて、現在のマンションに引っ越したのだ。



(五)

 何事も成さぬまま、時は経ち、初夏になった。


 ある日、休み勝ちの日野が、気が向いて登校した。しかし、そんな日に限って、午後から天気が崩れて雨に変わったのだ。彼は、この偶然を、自分の不運に結びつけて考えた。



 その日の放課後、彼は、傘がないので、濡れて帰ることにした。

 校舎から出ると、雨粒が彼の肌に掛かった。彼のたおやかなうなじから、雨粒が体温を少しずつ吸い取ってゆくのが感じられた。


 校門の近くまで来たとき、彼を呼ぶ声があった。振り向くと、見覚えのある女学生であった。一瞬、それが誰か判らなかったが、やがて「シズカさんだよね」と言った。

 なぜ、一瞬判らなかったのか。それは、冬に遇ったときと違い、如何にも下世話なこの現実の世界に、彼女の存在が溶け込んでいたからだった。


「久し振りね。傘は?」

「忘れちゃったんだ。」

 彼がそう言うと、シズカは鞄を漁り、予備に持っていた折り畳み傘を日野に差し出した。

「ありがとう。いつ返せばいい?」

「また遇ったときでいいわ。」


 そう言われたが、学校にあまり来ない彼には、偶然に任せれば、再会の機会は永遠に失われてしまうように感じられた。

 彼は、シズカと再会するのに、相応しい時と場所を考え、提示した。

「水曜日の放課後、そうだな・・・、三時くらい、時間ある?」

「ええ。どうして?」

「じゃあ、その時間に、音楽室に来てくれる?そのときに返すよ。」

 それは、以前に音楽室で偶然出会った誼で傘を貸してくれたシズカとの再会の場所として、如何にも相応しい場所に思われた。



 雨中の帰路を歩む日野は、自分の心が浮ついていることに気付き、自ら恥じた。

 日野は、その心の高揚の理由について考えることを避け、剰え、その感情そのものを、なかったことにしようと努めた。

 彼は、今書いている曲のことに意識を集中させようとした。彼は、大規模なロンドソナタ形式の楽曲を構想していた。しかし、一向に旋律が思い付かなかったのだ。


 彼はやがて帰宅し、ピアノに向かった。そして、戯れに、片手を鍵盤に乗せて、旋律を紡いでみた。

(哀愁、できるだけ濃厚な哀愁を帯びた旋律を・・・。)

 そのとき、不思議に、今まで思いつかなかった、新しい旋律が紡ぎ出されたのだ。だが、彼はそれには満足できなかった。

(違う。こんな甘ったるい哀愁じゃない。もっと、英雄の死を悼むような、勇壮な哀愁を、聞く者に感じさせる楽想が欲しいのだ・・・。)



(六)

 水曜日の授業は午前中で終いであった。その日の三時、日野は、職員室に行き、忘れ物を口実にして音楽室の鍵を受け取った。


 午前中の雨は止み、やや傾いて、微かな憂いを帯びた日の光が、雲間から放たれて、窓から校舎内に差し込んでいた。日野は、久しく気候のこんな好都合に遇っていなかったから、少し拍子抜けしてしまった。


 音楽室に入ると、既にシズカはいた。

 彼女は、コピー用紙の束を持ち、見入っていた。それは、口実に説得力を持たせるために、日野がわざと置き去りにしたものだった。

「やあ。」

 声をかけられて、シズカは彼に気付いた。

「これ、君の?」

 そう言ってシズカは、手に持っているコピー用紙を指し示した。それは、ベートーフェンの楽譜のコピーであった。(注3)

「うん。」

「私も好きよ、ベートーヴェン。特に交響曲第九番。」(注4)

「僕は第五番が好きだ。」

 そう言ったとき、日野は、交響曲第五番、俗に言う「運命交響曲」と、今の自分とのギャップに、羞恥を覚えた。「運命」――嵐のように荒々しい第一楽章から、ひと時の安堵をもたらす第二楽章、そして暗鬱な行進曲である第三楽章を経て、勝利の凱歌たる第四楽章に至るという、まさに苦難を打ち負かして栄光を掴み取るような勇敢を湛えた大作。かつて、小説家を夢見ていた小学生時代の日野は、この作品が大好きだった。だが、全てを放擲してしまってからの四年来、彼はこの曲を聞かなくなっていた。それを、シズカの共感を得た勢いで、咄嗟に好きな曲として挙げてしまったことを、彼は恥ずかしく感じたのだ。


 彼は、話題を逸らそうと、傘を返し、礼を言った。

 シズカはそれを受け取りながら言った。

「ベートーヴェンは偉大だったわ。でも、彼の後に続いた音楽家たちが、音楽を台無しにしたのよ。」

「どうして?」

「彼は、それまでの枠を壊して、自由な音楽を作ったわ。でも、後の音楽家たちは『自由』と『好き勝手』を一緒くたにしてしまったのよ。そして、芸術の名の許に、愚にも付かないノイズが乱造されたんだわ。」


 日野は、シズカの論に大いに賛成だった。

 実際、彼もまた、十九世紀以降の「前衛的」音楽に対して大いに不満を持っていた。

が、それだけではなかった。

 彼は、クラシック音楽の荒廃に、かつて彼が所属していた文芸部の風潮をオーバーラップせしめていたのだ。


 この学校の文芸部員らは、自己満足しか能がない「軽薄な大衆小説」ばかり書いていた。心情描写や季節の詠嘆といった、文学の醍醐味と言える要素を、まるで欠いたものさえ多かった。


 プロットの軽薄さは、一例を挙げれば、次のようなものである。

 ――頓死した主人公が、冥界の法廷で浄玻璃の鏡を割り、超能力者に転生を果たし、原理主義教団の魔手から世を守り、やがては多くの女性の愛を欲しいままに得る――、といった具合であった。


 日野は戯れに、その小説の作者に、仏教の伝来によってもたらされた輪廻思想と、日本古来の黄泉の国という概念との比較の話題を持ちかけたが、相手の反応は、予想通り軽薄なものだった。

「宗教の話はちょっと・・・。これは飽くまで小説だから。」


 無論、日野は宗教の宣伝をしようとした訳ではない。寧ろ、客観的かつ真摯にそれらを分析する態度をとった日野の方が、より作家としての誠実を具えていたと評すべきだろう。


 日野はそう言った連中に囲まれながらも、一人、ひたすら純文学を目指した。

 その彼の作品が、日の目を見ることなく闇に葬られ、かの軽佻浮薄な似非娯楽小説が文化祭に出展されたことを思うと、日野は屈辱の念に堪えなかった。



 そのとき、日野の背後から、声が聞こえた。

「シズカ、この人は?」

 日野は、驚いて振り向いた。

 声の主は、如何にも明朗で、健康的な男子学生であった。

「友達よ。彼は、音楽を良く理解してるのよ。」

 シズカは次に、日野に男子学生を紹介した。

「この人はヒデトシ君。近々、一緒に『音楽史研究会』を作ろうって言ってるの。」

「どうも。」

 日野は、ヒデトシに挨拶した。

 シズカはヒデトシに言った。

「ねえ、彼も研究会に加えない?」

「いいね。どうだい?君さえ良ければ。」

 日野は慌てて断った。

「いや、僕は、留年していて部活動禁止なんだ。」

「気にしなくていい。どうせ非公式のクラブなんだから。」

「考えさせてくれ。学業のこともあるし・・・。」

 そう言うと、日野は、逃げるように帰ってしまった。



 彼の心は動揺していた。

 さっき、二人に対して感じた疎外感。それは、単に二人が親密そうだったからだけだろうか?


 日野は、二人の関係について、想像を逞しくしていた。

(もしや、恋人同士なのではないか?)

 しかし、だとすれば、どうなのだ?自分とは無関係のはずではないか?

 ・・・日野は、もはや認めない訳にはいかなかった。自分が、いつの間にか、シズカに魅かれていたということを。



(七)

 日野は、シズカに対する感情を紛らわすために、またも、例の作曲に没頭しようとした。しかし、依然として旋律は思い浮かばなかったのだ。


 ・・・あの雨の日、彼の指がほとんど無意識に紡ぎ出した、あの旋律。

 あれから何度もピアノの音の奥に、欲しい旋律を探したのだが、その度に、あの旋律が現れ、いよいよ彼の心に根を下ろしてしまったのだ。


 哀愁はある。確かにある。しかし、これじゃないのだ。彼が欲しいのは、もっと崇高で、どこにも目的地を持たない、それ自体で完結した悲しみであったのだ。


 しかるに、この旋律ときたら・・・!

 どこかを目指しているのに、その目的地は、この現実世界のどこにも見当たらず、ただその目的地への憧憬だけが、耐えがたい寂しさを以って、徒に心を急かすような、人間的な「弱さ」に基く哀愁なのだ。

 彼にはもう、この旋律の正体は判っていた。

 これは、紛う方なく、シズカに対する感情の顕現だったのだ。


 そのことが、彼のこの旋律に対する反感を強めた。


 潔癖の彼は、恋慕の念というものを、夙に下世話なもの、世俗的なものとして蔑んできた。それには、次のような訳があった。

 ――彼の両親は、剣道場で知り合い、大恋愛の末に駆け落ちして結婚した。そのことは、彼も幼少期から聞かされていた。

 しかし、彼の父は、彼の母に、度々無理強いをした。彼も何度かその現場を目撃したのだが、それは如何にも冒涜的で、母性や人格といった尊ぶべきものを度外視し、ただの肉体としてしか母を見ていないものに感じられた。


 ・・・こうして日野は、恋愛感情というものを、陵辱への欲求と同一視するようになってしまったのだ。


 彼は、恋情を克服せねば、シズカに対する自分の言動が、全て不誠実なものになってしまうと思った。

注1:「地縛霊」とは、民間信仰で、自分の死が受け容れられず、終焉の地に留まって、同じ怪異を壊れたレコード盤のように繰り返す幽霊を指す。


注2:ソナタ形式の、文章での再現を試みた。ソナタ形式の特徴は、二つのテーマを対比することにある。

序盤の「提示部」で、二つのテーマは別々の調で初登場し、終盤の「再現部」で、二つのテーマが同じ調になることで、「地続き」になるのである。


注3:Beethoven。"v"はドイツ語では「フ」に近い発音をする。


注4:シズカの発言のように、「ベートーヴェン」と音写するのが主流だが、これは、英語読みの氾濫に因るものである。

日本の人名に置き換えると、"Nirezaki"を「ナイアーゼイキ」と読むようなものであり、適切ではないと筆者は考えている。

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