解説 〔第一〇回〕
メイキング オブ 「現代の怪談」〔10〕
~六者六様の「罪びと」たち~
第一部が終わり、第二部が始まった。
ということで、この話は原点回帰を期している。
第一話の解説でも述べたように、「現代の怪談」のコンセプトは、「『怪談』の現代における再構成を目指す短編集」である。
ゆえに、麻咲の登場は必須ではない。そのことを強調したくて、今回は麻咲に欠席してもらった。
そして今回は、出来るだけ、主人公・鬼塚の目線のみから描くように心掛けた。
そうすることで、より「実話怪談」らしく見せたかったのだ。
さて、今回のテーマは、「人は誰でも罪を犯し得る」ということである。
「私は大丈夫!」と自負している人にも、平等にその危険があるのだ。
この話には、六つのパターンの「罪を犯してしまった人々」が登場する。
順を追って個別に解説したい。
☆パターン①「そもそも善を志さないタイプ」☆
例:宮野
人間は誰にでも、自分の快楽のために悪を為す衝動に駆られることがある。
だが、普通は「良い人間でありたい!」と欲するから、この衝動にブレーキがかかるのだ。
万が一、悪を為してしまったときは、「こんな自分は恥ずかしい」と感じるのが一通りであろう。
しかるに、宮野は違う。
彼には善への誇りもなければ、「こんな自分であらねばならない」というアイデンティティもない。
自分の1の快楽のためなら、他人に10の苦しみを与えることも厭わないのだ。
快楽のために生きている、酔生夢死の軽薄児である。
そんな救いようのない男だが、生まれたときから違った人生を歩んでいたらどうだろう?
例えば、生まれてすぐに、里親に預けられて、違った教育を受け、違った人々と出会っていたら。
彼は、人並みの良心を具えた人間になっていたかもしれない。
普通の人が、普通の良心を持ち合わせているのは、言うなれば「恵み」なのである。
☆パターン②「仕事で已む無く手を汚したタイプ」☆
例:児島
「トロッコ問題」という有名な思考実験がある。
暴走しているトロッコに乗っていて、線路の先には十人の作業員がいる。
ブレーキは壊れていて、このままでは十人は確実に轢死してしまう。
しかし、ハンドルだけは生きており、進路を切り替えることが出来るのだ。
だがその進路にも、一人の作業員がいる。
つまり、十人を見殺しにすれば、一人を殺さずに済むが、十人を助けるためには、一人を殺さねばならない。
というものだ。
単純に人数だけを考えれば、十人を助けるべきである。
だが、殺される一人の立場から見ればどうだろう。
運転手が何もしなければ、自分は無関係で済んだのに、運転手がハンドルを切ったばかりに、十人を救うために殺されるのだから、堪ったものではない。
「十人の見殺し」が「一人の積極的殺害」に形を変えただけで、罪の総量は変化していないのである。
児島は、このような、罪を犯さざるを得なかった人の典型なのだ。
☆パターン③「快楽に負けたタイプ」☆
例:東
先ほど、宮野は良心がそもそも欠如しており、欲求のままに行動したのだと述べた。
一方、東には良心があった。しかし、強すぎる殺戮の欲求に負けてしまったのだ。
これは、第六話のテーマにも通じている。
人並みの(或いはそれ以上の)良心があったからこそ、彼は自分がオミドリサマに追い詰められていることを、致し方ないこととして受け容れたし、聖が自分を暗殺しようとしていることに気付いても、止めなかったばかりか、庇うための遺書まで書いた。
人間の攻撃本能は強烈である。鍵が掛けられているだけで、実は誰もが持っていると私は見ている。
その鍵が、何かのはずみで開いてしまったが最後、攻撃本能は本人の意志に関係なく暴走してしまうのだ。
誰にでも、東のようになってしまう可能性があるのではないだろうか。
☆パターン④「過失タイプ」☆
例:神野(轢き逃げの男)
設定上は「神野」という名前があるのだが、鬼塚が名前を知らなかったため、固有名詞では一度も呼ばれなかった。
乗り物を運転する人は分かると思うが、轢かれる恐怖より、轢いてしまう恐怖の方が大きいものだ。
私は自転車乗りなのだが、時折、「危険運転のトラックにでも撥ねられたらイノセントなままで死ねるのになあ」などと本末転倒な観念に駆られることさえある。
幸いにも、私はまだ人を撥ねたことはない。
これは、「幸いにも」であり、「まだ」なのである。
「自分は大丈夫」という観念だけは持たないよう、常に自分を戒めながら走っている。
道路上では、誰もが加害者になり得るのだ。
☆パターン⑤「緊急避難タイプ」☆
例:鬼塚
自分か他人か、どちらか片方しか助からないとき、咄嗟に自分を優先してしまうのが人間である。
麻咲なら、「片方しか助からない」と言われても、そこを曲げて他人も助けて自分も助かるだろう。
だが、我々は麻咲のような超人ではない。
凡人の我々は、極限状態に立てば、たちまちエゴイズムが露になってしまうのだ。
☆パターン⑥「それが正義だと信じているタイプ」☆
例:聖
いちばんたちが悪いのはこのタイプだと思う。
こういう人種は、自分が手を汚しているという自覚すらないのだから。
強いて言えば、彼の行為は「必要悪」である。決して「善」ではない。
どうしても暗殺せねばならないと思いつめたのなら、それが悪であると自覚しつつ手を下し、その後潔く自首し、罪を償うべきだったのではないか。
義憤というものはまことに胡散臭い。
「私は決して罪を犯さない!」と驕り、罪を犯してしまった人々を差別していることに他ならないのではないか。
こういう人種には謙虚さが欠落しているのではないだろうか。
☆オミドリサマ☆
今回の怪獣「オミドリサマ」を一言で表すと「良心の番人」だ。
良心は美しい。だが同時に、暴君でもある。
「善を為せ!」と人間に命令しておきながら、人間側の情状は全く酌んでくれない。
当然、人間の釈明にも耳を貸さず、背いた者には容赦なく「罪びと」の烙印を押すのだ。
私は以前、山岳信仰で有名な某神社に詣でたとき、自然の清冽さに感嘆すると同時に、ある種の「怖ろしさ」をも感じた。
山の見えざる目に、心の奥まで見透かされているような、畏怖の念であった。
極めて清いものは、極めて恐ろしいのである。
それを表現するため、オミドリサマの容姿は山岳信仰をモチーフにした。
日の出と同時に実体化するシーンは、朝日を背負った霊山の荘厳な風景をイメージしている。
注連縄は、神道において俗界と神域を隔てる標識であり、オミドリサマが神聖な存在であることを表現しているのだ。
更に、台詞にも配慮した。
オミドリサマの台詞は、純粋な和語だけで構成されており、漢語などは一切使われていない。
古来の山岳信仰の雰囲気が演出できたのではないだろうか。
ところで、園里香は、このような神聖な存在を斬ってしまった訳だが、これで良かったのだろうか?
読者諸賢には、是非とも、批判的に考えてみて欲しい。
知的なバッシングは大歓迎である。




