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現代の怪談―The Contemporary Kaidan―  作者: 坂本小見山
09.''The End of Kaidan, Part II'' 「最終決戦 後編」
27/42

解説 〔第九回〕

メイキング オブ 「現代の怪談」〔9〕

~アイデンティティを巡る戦い~



☆人格の「(コア)」はどこに?☆

 園里香の正体は鈴木緑ではなく、「限りなく鈴木緑に近い園里香」であった。

鈴木緑から、肉体を移植され、記憶を移植され、性格まで移植され・・・。

さて。

園里香の部品は、何が残っているのか?

そう。何も残っていやしないのだ。


 同じことが、暗黒旋士にも言える。

彼は、肉体も、記憶も、性格も、全てが代替品なのだ。

彼は果たして、本当に「かつての暗黒旋士」と言えるのだろうか?


 第二話の解説でも述べたが、このシリーズのテーマは「変わってしまうもの」と「変わらぬもの」の対立である。

全てが変わってしまったのに、それでも園を園たらしめている「(コア)」とは、一体何なのか?


 その答えは「自覚」である。

と、私は見ている。

何なら、「アイデンティティ」と言い換えてもいいだろう。

「私は特殊刑事・園里香よ」

「私は暗黒刑事・・・」

彼らが自らをそう称することこそが、人格の核ではないだろうか。


 「見間違い」や「聞き間違い」という言葉はあっても、「喜び間違い」や「怒り間違い」という言葉はない。

内面的なものは、本人の感覚が即ち「事実」となるのだ。


 川添は、園の「自分が園だという自覚」を、鈴木の肉体に移植したのだ。

どんな技術を使ったのか?

それは論うだけ野暮と言うもの。

きっと「現代の怪談」の世界には、我々には思いも寄らないようなスピリチュアルな技術があるのだろう。



☆鈴木緑☆

 さて、大方の読者が気付いておられることと思うが、鈴木のモデルは、あの三島由紀夫氏である。

彼は、自身を「最後の剣士」だと自覚していたのではないか。

そして、剣士の時代にとどめを刺し、自らもその後を追ったのではないだろうか。


 話は逸れるが、最後の剣士と言うと、もう一人思い起こされる人物がいる。

西郷隆盛である。

彼は、新しい時代を作るために「武士として」戦った結果、皮肉なことに、その武士のいらない世界が到来してしまった。

アイデンティティに基いた行動の産物が、そのアイデンティティを扼殺する、言わば「親殺し」となったのだ。

その挙句に、廃棄された伝統の象徴として祭り上げられてしまったのは、至極自然な流れだったと言えよう。

そして、彼もまた、最後の武士を自らの手で処分したのである。


 鈴木緑の自決も、これらと同じ行動原理に基いたものだ。(強いて言えば西郷に近い)

彼女は、戦争を終わらせるために戦う剣士として育てられた。

彼女の存在理由は、消費されることを前提としたものだったのだ!

中央連合の敗戦によって、存在理由を消費されてしまった彼女は、自分で自分をお払い箱にしたのだ。

それを助けた川添の行動は、言ってしまえば父親のエゴイスティックな愛情である。

だから結局、助けることができたのは、彼女の肉体だけだったのだ。

彼女の精神を救出するには、彼女に再び「戦場」を与えてやることしかないのだ。

そして、恐怖大魔王との最終決戦が、彼女の精神を一時的に救出することになった。


 それも終わり、恐怖大魔王の悲劇が二度と起こらないことを願ったから、彼女は再び眠りに就いたのだ。

こうして、鈴木の肉体は、再び園の精神のものとなったのである。



☆ペンスピナー同士の決闘☆

 他方、二人のペンスピナーの戦いも決着した。


 ペンスピナー・麻咲は、言わばこの戦争のアウトサイダー(部外者)である。

他の者は皆、何らかの因縁で繋がっている。

それに対して麻咲は、「怪奇現象から人間を救う」という目的以外、この戦争との接点がない。

つまり彼は、この戦争のイデオロギーから独立しているのだ。


 私は、麻咲のアンチテーゼたる暗黒旋士にもまた、同様のポジションを宛がった。

彼が憎んでいるのは「昭和期の中央連合(の総長)」であり、それを現代の「中央平和連合」に仮託しているに過ぎない。おばけ会議の思想とも全く関係がない。

そのお陰で、麻咲と暗黒旋士は同じ戦場に立つことができ、相反する者同士の決戦が実現できたのだ。


 ここで、普段とは一味違う麻咲が前面に出てくる。

それは、「救いのヒーロー」としてではなく、「武勇に燃える戦士」としての麻咲である。

これは、旧シリーズでは頻繁に見せた麻咲の顔である。

しかし、このシリーズでは殆ど見せなかった。

麻咲のこの側面は、やがて来る「真の最終決戦」への伏線になっているのだ。



☆恐怖大魔王という悲劇☆

 守るのは難しい。だが、壊すのはあっけないほど簡単である。

多くの者を愛するほど、愛する者を守れずに悲しみを負うリスクが高くなる。

それならいっそ、愛さずに壊す側に回れば、傷付かずに済むのである。

「ゾンビになってしまえば、ゾンビを恐れる必要はもうない」

というのと同じ理屈である。

こうして「おばけヒーロー」は、恐怖大魔王となってしまったのだ。


 彼はどうするべきだったのだろう。

その答えは、閨川の次の台詞に集約されている。

「人間には、悪になる自由を蹴って、敢えて善を選び取れる尊厳がある!」


 たとえ善を為す理由がなくなったとしても、己の自由意志で善を為す。

これができれば、人は誰でもヒーローになれるのではないだろうか。



☆未来への希望☆

 ラストは、「現代」と「伝統」の和解を描いて、一応のハッピー・エンドにした。


 これこそ、私の願いなのである。

リベラルな思想を核に据えつつ、伝統に培われたセンスをも決して軽んじない。そんなスタンスを取るべきだと私は思う。

これが和魂洋才ではないか。

伝統の良い部分を残しつつ、現代文明の良い部分を取り入れれば、社会はよりよくなるはずだ。


 しかるに現代社会は、この逆になっているのではないか。

日本の悪い部分を残し、良い部分を捨ててしまっている気がしてならない。

いくつか例を挙げよう。


 一つは「横書き化」。

平仮名というのは、縦書きのために開発された「漢字の筆記体」である。

これを無視して横書きを取り入れた結果、日本語の文面は非常に書きづらいものとなってしまった。

実際、横書きで乱雑に書いた結果、「お」の最後の払いが右に曲がり、「む」の出来損ないのようになっている奇っ怪な文字を、私は何度も見た。

日本文化の優れた面が台無しにされている例である。


 もう一つは「文鎮」。

私は問いたい。こんな優れた文具を、なぜ現代人は使わないのか。

私は、机の上に文鎮を常駐させている。

紙の上に文鎮を置き、その上にペンを滑らせておけば、片手が空くのだ。

空いた片手で、辞書が持てる。コンピュータのキーが叩ける。背中が掻ける・・・。

実際、敗戦までは、文鎮を日常的に使っていたらしい。


 逆に、日本文化の悪い面は、依然として残されたままだ。

米を主食とする食生活は、どうしても栄養が炭水化物と塩分に偏ってしまう。

米食そのものが悪いと言っているのではない。やはり我々大和民族の口には米が合う。

だから、塩分を控えた惣菜を、少量の白米で食するのがベターではないだろうか。


 畳に直接座る生活スタイルも、私は良くないと思っている。

矢鱈に疲れるし、猫背にもなる。

私はやはり、椅子に座る生活が好きだ。足腰が楽だし、視界も良い。


 これらの例は、あくまで私の個人的感想に過ぎない。

私がこの物語を通して伝えたかったのは、あなた方読者の一人ひとりが、ご自身の生活に問題意識を向けることを忘れないでいただきたいということなのだ。

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