第七話・前半
[第七話]
(一)
浮世離れした美しい花畑で、どこからか女性の声が聞こえてきた。
「ねえ、私のこと、思い出して。」
・・・西暦二〇一三年六月末のある日の午前。場所は長野県某所。
二七歳女性の松本茉莉は、ハッと目覚めた。
先程の花畑は、夢であった。彼女はバスの中で寝ていたのだ。
目的のバス停は、彼女が夢を見ている間に、とうに過ぎ去ってしまっていた。
四方の車窓を、雨がばらばらと打っていた。
彼女はバスから降りると、傘を広げ、バスの進行方向と逆の向きに歩き始めた。
この辺りに、彼女は土地勘があった。三年前、この近くのアパートに住んでいたのだ。
彼女はふと、三年前が懐かしくなった。彼女は、戻る道の途中で、横道に入った。あのアパートの近くに寄ってみたくなったのだ。
少し歩くと、アパートが見えてきた。
彼女は、雨の中、アパートの前に立った。そして、当時に思いを致した。
・・・あの頃は、血気盛んだった。己の意志の力で、夢を掴み取ろうとする闘志に満ちていた。ミュージシャンとして大成するという夢であった。思えば、あのアパートが、自分が最後に「自分」であった場所だったのかも知れない・・・。
そう思ったとき、彼女は、あることを思い出した。当時、仲の良い「メール友達」がいたのだ。その友達は、松本と同年代の女性であり、彼女もまた松本とそっくりな夢を持っていたので、二人はすぐに意気投合したのだ。そして、奇しくも、松本がこのアパートを引き払った日に、彼女は亡くなったのである。そう考えると、このアパートがまるでその友達自身であるかのように思えてきた。
そのとき、松本は、さっきの夢を思い出した。あの声は、ひょっとしてあのメール友達のものだったのではなかろうか?とすると、あの花畑は、死者の住むという霊界であろうか。もし、そうだとすれば、松本が寝過ごした挙句にこの場所に立ち寄ったのもまた、死んだメール友達の導きかもしれない。松本はそう思った。
(きっと、たまには自分のことを思い出して欲しかったんだわ。)
松本は、元来た道を戻り、再び雨の中を歩き始めた。
歩きながら、彼女はふと考えた。
――死んだ彼女に、メールを書いてみよう。
松本は、携帯電話を開いた。当時と同じ携帯電話である。彼女は、死んだ友達のメールアドレスを入力し、メールを書き始めた。
〈三年振りにメールします。長いこと放っておいて、ごめんね。・・・〉
彼女は、来た道を戻りながら、メールを書いた。
やがて、本来降りるはずだった停留所に差し掛かったとき、彼女はメールを書き終えた。
〈・・・このメールがあなたに届かないことは分かってるわ。私の思いを、あなたに伝える術はもうない。でも、最後に言わずにはいられない。私は、あなたの友達でよかった、って。〉
書き終えると、松本は送信予約時間を設定した。携帯電話同士の相性のせいか、予約して送信しないと、すぐに自分の携帯電話にメールが返ってきてしまうということを、手が覚えていたのだ。
送信予約のボタンを押したとき、松本はなぜか、ぞくぞくっと寒気がするのを感じた。
(雨のせいかしら?)
そう思った。
これが恐怖の幕開けとなることなど、松本はまだ知る由もなかったのである・・・!
(二)
所変わって、山中の目立たぬ寺。山門には、「竜血寺 別院」の文字が刻まれている。
ここの本堂で、一人の男が座禅を組んでいた。歳は三十前後であり、純白のワイシャツに黒のズボンを穿いている。そして、彼の傍らには、畳まれた黒のジャケットと、朱色のスカーフが置いてあった。
彼の名は麻咲イチロウ。一子相伝「武道ペン回し」の継承者にして、フリーランスの悪霊退治業者である。
やがて彼は禅の修業を終えると、ジャケットを着てスカーフを巻き、襖を開けて本堂から出た。
「僧兵長様。」
そう呼ぶ声の方に目を向けると、傘を差した若い雲水が、麻咲に歩み寄ってきていた。
「その呼び方は止してくれ。それで、何か用か?」
「老師様がお見えになっています。ご挨拶なさいますか?」
「ああ、すぐ行く。」
麻咲はそう言うと、本堂の隣室の襖を開けた。
「ご無沙汰しております、老師。」
麻咲はそう言って、頭を垂れた。
「ヨウ、麻咲。元気そうじゃな。お前も『地下水脈』を調べに来たのか?」
茶を啜りながらそう言ったのは、山伏のような出で立ちの老爺であった。
「何のことです?」
「なんじゃ、唯の偶然か。いやなに、この地下を走っておる水脈に、武道ペン回しの発祥にまつわる発見があったと聞いて、運動がてら調べに来たのじゃ。」
(三)
その頃、長野県・北安曇郡の観光地の、ある豪勢な旅館に、松本が来ていた。
「勝手を申していることは承知ですが、どうかここで働かせて下さい。」
そう言って、畳みの上で辞儀をした松本に相対していたのは、和服姿の温厚そうな初老の男性であった。
「茉莉、頭を上げなさい。」
彼に言われ、松本は頭を上げた。
見ると、彼は悲しげな面持ちをしていた。
「七年前、お前がミュージシャンになると言って家を出てから、私はしばらく諦めがつかなかったが、今では、お前の妹に跡を継がせるべく修行させている。」
松本は、神妙な面持ちで彼の言葉を聴いた。彼は続けて言った。
「私も、父としてお前を助けてやりたい。だが私には、この旅館を守り、家族を守る義務がある。六〇〇万円もの借金を抱えているお前を置いておくことはできないのだ。どうか、苦衷を察してくれないか。」
松本は、神妙な面持ちのまま、再び頭を垂れた。
父は、懐から封筒を取り出し、松本の前に差し出した。松本はそれを手に取った。冷房が効いているせいか、封筒の表面は、先程まで人肌に触れていたとは思えぬほど冷えていた。中身はどうやら現金のようであった。
「私たちのことを家族と思ってくれるなら、どうか、家族を守るためと思って、身を引いてくれ。」
松本は手切れ金を押し頂いた。
(四)
実家の旅館を去った松本は、雨傘を差して歩いていた。
借金の返済期日は一月後に迫っているというのに、職は一向に見つからなかった。よしんば見つかったとしても、六〇〇万円という大金が、一月で返せる筈もない。そのことが、彼女の急く気をも萎えしめていた。
もはや懊悩する気力も失せ、心中でどうにでもなれと言い放ちつつ、彼女は雨中を彷徨していた。
そのとき、不意に携帯電話の着信音が電子メールの受信を告げた。彼女は、携帯電話を開いた。
はて・・・?
彼女は、怪訝な面持ちを呈した。差出人の欄には、自分のメールアドレスが書かれているのだ。
訳が解らないまま、彼女はメールを開いた。
〈茉莉ちゃん、こんにちは!元気?私は元気よ。・・・〉
ますます訳が解らなかった。彼女にはメールで雑談するような友人もいないし、相手のメールアドレスは表示されていないので、誰なのか、皆目検討が付かない。
〈・・・今日はレコード会社に行ってきたよ。オーディションには落ちちゃったけど、個人的に私の曲を気に入ってくれた音楽関係者がいたのよ。バンド仲間はみんな道半ばで諦めちゃったけど、私は夢を諦めないわ。それじゃ、またメールするわ。じゃあね!〉
・・・気付いた途端、松本はぞっとした。どう考えても、三年前に死んだ友人の書くメールにそっくりなのだ。
そんなことは有り得ない。きっと、何かの間違いで、携帯電話が、過去に彼女から届いたメールを、再度受信してしまったのだろう。
そうだ。きっとそうだ。先刻、死んだ彼女にメールを送ったのが原因かもしれない。彼女が死んだのは三年前だから、恐らく彼女のアドレスは、もう存在しないだろう。存在しないアドレスにメールを送信予約したことが、誤作動のきっかけになったとも考えられる。ひとまず、そう考えて納得することにした。
(五)
一方、「竜血寺・別院」では、麻咲が老師に打ち明け話をしていた。
「実は、先日ある猟奇殺人事件に関わったのですが、そのとき、被害者の死体の中に、見覚えのある顔があったんです。それは、以前俺が悪霊から助けて、やっとのことで立ち直ってくれた男だったんです。」
「無敵のペンスピナーたるお前とて、全能の阿弥陀如来ではない。救えなかったことを悔やむというなら、それはお前の驕りじゃろう。」
「だとすれば、俺は何のために戦っているのでしょうか。」
暫しの沈黙の後、老師は立ち上がりざまに言った。
「いいものを見せてやろう。付いて来るがよい。」
(六)
松本が実家から渡された手切れ金は、全部で十万円あった。彼女は、その一部を使って、ファースト・フード店で昼食を摂った。
漸く人心地が付くと、これまで空腹に紛らわされていた心細さが浮き彫りになった。彼女を待つ未来が、もはや明るいものではないということは、覚悟していた。だが、やはり不安を感ぜずにはいられなかった。
夢が潰えてからというもの、彼女は閉鎖的になり、不安を分かち合ってくれる友人などはいなかったし、実家からも絶縁を言い渡されてしまった。しかし、そんな中、一人だけ、彼女には親しい人物があった。それは、二年来の恋人であった。
彼女は、無性に彼に遭いたくなった。そこで、一ヶ月振りに彼にメールを打った。返信はすぐに返ってきた。丁度、彼にも話すべきことがあったとのことで、二人は久々に会うことになった。