第五話・前半
[第五話]
(一)
滋賀県高島市。
西暦二〇一三年五月末の、ある昼下がり。
医大生の藤沢優子は、琵琶湖の西岸を歩いていた。この湖岸には、桜の木が並んでいる。嘗ては絢爛を誇ったが、今はその殆どが枯れ果て、十七本を数えるに留めている。
藤沢は足を止め、この粗末な桜の木を懐かしそうに眺めた。幼い頃、彼女の母は新興宗教にはまり、それが原因で両親は離婚し、母はこの街に引っ越した。そして、父の目を盗んで何度かこの街で母と密会したのだ。
彼女は、やがてあるマンションの一室の前に来た。そして、呼び鈴を鳴らした。足音が聞こえ、やがてドアが開き、中年の女性が現れた。
「優子ちゃん?」
「母さん・・・。」
母は、藤沢を抱きしめた。
「十年の間に、大きくなったわね!」
彼女は歔欷した
(二)
同じ頃、先程の場所から北に少し離れた湖岸を、一人の男が歩いていた。スーツの前の開けたセミ・フォーマルな服装に、橙色がかった明るい赤のスカーフを棚引かせている。その相貌は進路をしかと見据え、足取りは飄々としながらも飽くまで勇ましく。溌剌とした面持ちの彼は、心中にて呟いた。
(俺の使命は、地球上に存在するあらゆる絶望を粉砕することだ。そして、それが出来るのは、この俺だけだ。)
ふと、彼を呼ぶ声があった。
「イチロウ!」
男=麻咲イチロウは、声の方を向いた。紺のネクタイを締めた、長髪の青年が、笑顔で歩み寄ってきていた。
「よう、閨川。三カ月前の『化け蛙事件』以来だな。」(注1)
麻咲もそう笑顔で返した。
麻咲と閨川守は歩みを共にし始めた。
「先々月、人体模型の化け物と戦ったそうだな。」
「ああ。何者かが目玉シールを貼って妖怪化させたようだ。お前はあのとき、裏切り者の特殊刑事と戦っていたそうだな。」
「ああ。彼女も目玉シールを持っていた。」
「話を総合すると、どうやら、目玉シールを流通させている『組織』があるらしいな。」
「結局、私は捜査から外されてしまったから、当分は手が出せない。」(注2)
二人は、漣のねを真横に聞きつつ、情報を交換し、互いを労い合った。
「ところで麻咲。この街に来た『目的』は同じだと思うが、お前自身は大丈夫なのか?」
「うん?」
麻咲はきょとんとして聞き返した。
「何年か前、何かのついでに話してくれただろう。琵琶湖に対してトラウマを抱えていると。」
「心配は要らない。俺はちゃんと使命を果たすさ。」
「いや、私はお前自身のことを心配しているんだ。私がこの事件に当たっているんだから、お前がわざわざ自分の傷口を開く必要など、ないんじゃないか?」
閨川は、歩みを止め、麻咲の顔を見据えた。
麻咲も歩みを止め、やがて嫣然と微笑み、閨川の目を見て言った。
「琵琶湖に来ると、嫌なことを思い出してしまうのは確かだ。だが、俺はとうに、そのトラウマを克服している。この俺に心配など、無用だ。」
その力強い言葉に、閨川は暫し圧倒された。そして、その眩い微笑は、七年前、麻咲と初めて出会ったときに見たものと同じであった。
(三)
その日の夕刻、藤沢は帰途にあった。彼女は、琵琶湖を跨ぐ橋を渡っていた。
ふと、彼女の視界の端で、水面を何かが動いているような気がして、そちらに目を向けた。黄昏時の薄闇ゆえに、はっきりとは見えなかったが、水面から手が出ているように見えなくもなかった。彼女が目を凝らしたとき、その何かは既に沈み、水面にかすかに、黒い大きな影が揺蕩うのが見えたが、やがてそれも消えた。
もしや、誰かが溺れていたのではないか?彼女は、ああでもない、こうでもないと、想像を逞しくした。しかし、もはや真相は水底に沈んでしまっていた。
(四)
藤沢はやがて、別の町にあるアパートの自室に帰したが、風呂にも入らず、疲れた四肢を布団に横たえた。
彼女は数時間眠ったが、やがて目を覚ましてしまった。時計の針は、二時を指していた。さっきまで夢に見ていたのは、今日見た高島市の情景であったのだが、その全てが灰色に染まっているようで、とても寝苦しかったのだ。
彼女は、電気を点け、おもむろに服を脱ぐと、部屋着に着替えた。そして、また布団に横たわった。眠れば、また灰色の夢を見るだろう。とは言え、体は疲れているし、何をする気力も湧かなかったのだ。
日中、彼女は三年の往時を偲ぶために高島市を訪ねた。それなのに、訪れた場所や、目に映った景色の、どれに対しても懐かしさを感じることが出来なかったのだ。全てが、「過去を思い起こさせるもの」ではなく、「今、現に見えているもの」としてしか感じられなかった。彼女の計画は、失敗に終わったのだ。ただ徒に、思い出というサンクチュアリを、土足で踏み荒らしてしまっただけだった。
「苦しいなあ、苦しいなあ。」
突如聞こえたその声に、彼女は戦慄した。今、ベランダの外から、はっきりと聞こえた。
彼女は身を起こし、恐る恐るベランダの外を見渡した。何もなかった。空耳だろうか・・・?それにしては、いやにハッキリと聞こえた。
彼女は身を横たえたが、目が冴えてしまい、再び眠りに就くことは不可能だった。
(五)
藤沢が目を覚ましたのは、午前の授業が終わる寸前であった。
謎の声への恐怖故に朝まで眠れず、日が出てより急に睡魔に襲われ、寝過ごしてしまったのだ。
彼女は顔を洗い、学校の学生食堂で遅い朝食を摂った。
彼女は、ふと、近くの席でコーヒーを飲んでいる、中年の男女に目を遣った。男性の方は、彼女の知っている教員だった。女性の方は、同じく教員であり、彼の妻でもあった。
二人の会話を、藤沢は聴くともなく聞いた。
「人生なんて、分からないものよね。」
それに対して、夫が返した。
「どうしたんだ?急に。」
藤沢は、二人の会話を、聴くともなく聞いた。
「働き始めた頃は、貧乏で、お昼ご飯も食べられない程だったわ。でも今は、不便はしていないじゃない?」
「そうだなあ。こんな結婚生活が送れるなんてなあ。俺なんか、朝飯も抜いていた程だぜ。」
二人は軽快な口振りで話す。
「あたし、古着屋でしか服を買えなかったわ。」
「よし、俺の勝ちだ。俺は貧乏時代に裁縫の腕を上げたよ。」
「負けたわ。」
それを聞いて、藤沢は、居た堪れない気持ちになった。彼女自身には、何の貧困の経験もないのだ。
だが彼女は、やがて自信を取り戻した。自分にも、自慢できる苦労があるじゃないか、と考えた。子供の頃、両親が離婚してから、人生が狂い始めた。これは「立派な苦労」と言えまいか。経済的なものばかりが苦労ではなかろう。この苦労もまた、あの夫婦の苦労に恥じない不幸である。彼女はそう自分に言い聞かせた。
(六)
その日の夕方、藤沢は、アパートに帰り、夕食を摂り始めた。彼女はテーブルの向きを変え、壁に背を向けて座った。普段ならベランダに背を向けて座るのだが、ベランダから謎の声が聞こえた昨日の今日とあっては、恐怖を払拭できようはずもない。
彼女は、一体あの声は何だったのだろうか、と考えた。
彼女の脳裏を、『影』がよぎった。昨日、琵琶湖で見た、あの水面の影である。もしや、あれはこの世ならざる何かであり、ここまで憑いて来てしまったのではないだろうか・・・?
突然、彼女は右に飛び退いた。彼女は壁を見たが、そこには何もなかった。
・・・今確かに、何かが髪を引っ張ったのだ!
左の髪に、まだありありと残っているその感触は、ちょうど鷲掴みされたような感触であった。
いや、違う。そんなことは有り得ない。そう思おうとすればするほど、彼女は、また昨日の橋に行ってみたくなった。それは、怪異の発端を土足で踏み荒らすことで、目に見えぬ恐怖を克服しようとしたのかもしれなかった。
(七)
既に夜九時を回っていたが、彼女はあの橋に赴いた。
昨日と同じように、左側の歩道を歩きながら、左側の水面を見た。やがて、霊の影を見た、あの場所に辿り着いたが、何も現れなかった。彼女の目に映るのは、車の往来だけであった。
・・・?
おかしい。
彼女は、左側に水面を見ながら歩いていたのだ。それなのに、なぜ今は、左側に車道を見ているのだ?
彼女は、自分がいつの間にか来た道の方を向いていることに気付いた。無意識に反転したのだろうか?彼女は、元の向きに戻ろうと、右を向いた。
・・・そこには、巨大な手があった。
藤沢は、腰を抜かして絶叫した。そして、車道に転げ出た。
クラクションの音が響く。自動車が、目前に迫っていた。全身から冷や汗が吹き出た。
次の瞬間――
彼女は、誰かに歩道に引き戻された。間一髪、自動車は通り過ぎた。
見ると、彼女を助けたのは、長髪の青年、すなわち閨川守であった。閨川は、橋の手すりに駆け寄った。そして、水面を見た。水面には波紋が広がっており、波紋の中央で黒い影が水中に消えていった。
「逃げられたか・・・。」
閨川は、藤沢を顧みた。
「ここは危険だ。行け。」
藤沢は、彼の言葉に従って走り去った。
藤沢は、橋を渡り終えたときに気付いた。アパートとは逆の岸、つまり、昨日と同じ岸に来てしまったのだ。そのとき、彼女を呼ぶ声があった。見ると、母であった。
「何かあったのね?」
「うん。」
「話は後で聞くわ。今夜はうちに来なさい。」
藤沢は、言われるままに、母の車の助手席に座った。母が車を運転するということを、彼女はそのとき初めて知った。
因みに、彼女の実家には車がなかった。なので、彼女は車というものに馴染みが薄かった。この車は母のものであり、運転しているのも母であるのに、どことなく、他人の家に上がり込んでいるような、よそよそしい心持がした。
車は橋を渡り、更に北上し、高島市に入った。やがて二人は、母のマンションに到着した。
藤沢は、母に、昨日からのことを話し、そして言った。
「母さんの宗教の霊能者さんに、お願いできないかな・・・。」
藤沢がそう言うと、母は、意外そうな顔をした。
「ええ、いいけど・・・。」
(八)
翌日、学校を休んだ藤沢は、母に連れられて、ある場所に来た。それは、江戸時代に建てられた儒学の塾であった。
この塾を建てたのは、江戸時代初期の儒学者・中江藤樹である。彼は、「近江の聖人」の異名をとり、現在でも特に地元住民から絶大な支持を受けているのだ。
母は言った。
「私達の教祖様の息子さんは、実は中江藤樹先生の生まれ変わりなのよ。」
「そうなんだ。」
母は、藤沢の頭を愛撫しながら、そう嘯いた。
「優子ちゃんが、我が教団のことを受け入れてくれて、嬉しく思うわ。」
そう言われて、藤沢は嬉しくなった。尊敬する母に褒められることが、彼女を嬉しくさせたのだ。
彼女は、ふと、堀溝に目を遣った。餌を貰おうと、何匹もの鯉が集まってきていたのだ。藤沢は、水に手を浸け、鯉の頭を愛撫した。
(九)
その後、彼女は教団の霊能者に引き合わされた。藤沢は畳の上に端座させられ、和服姿の中年男と対峙した。
藤沢は、その霊能者に、昨日からのことを話した。霊能者は、暫く黙って、藤沢の目を見つめた。息が詰まるような、張り詰めた空気が流れた。
やがて、霊能者は沈黙を破った。
「お前さん、学生生活の上で、何か心にしこりがあるな。」
藤沢は驚いた。図星であった。
「お前さんには、琵琶湖で溺れ死んだ霊が何人も憑いておる。恐らく、お前さんの心の迷いに漬け込まれたのだ。話してみなさい。」
藤沢は、己の胸中を打ち明けた。
「実は、もともと医者になりたくもなかったのに、医科大学に入ってしまったんです。それで、入学してから、目的を失ってしまって。受験勉強が終わって気が抜けたのとも相俟って、主席から落ちこぼれに転落してしまったんです。」
「お前さんは、心が清いのだ。だから、学生生活に対して、真摯に目的を求め、それが得られず苦しむのだ。」
霊能者は、温かい面持ちでそう言った。
そして霊能者は、除霊の儀式を行った。
やがて、儀式がすむと、霊能者は言った。
「お前さんに憑いていた霊は、全て成仏した。もう、怪奇現象は起こるまい。」
「ありがとうございます。」
霊能者は、一呼吸ついた後、諭すような口調で
「心が清い者は、霊に漬け込まれる。そこで神仏は、心が清いもののために、霊に憑かれないための教えを下さったのだ。今回の除霊は、一時しのぎに過ぎない。我が教団に入ることこそ、抜本的な解決策なのだ。」
と断定したのだった。
注1:第二話。苦戦する閨川に、麻咲が助勢した。
注2:第三話。二人は、同一の事件の別々の局に面していたため、遭うことはなかった。