第四話・前半
[第四話]
(一)
読者よ。あなたは、黒は闇の色、白は光の色だと考えるだろう。しかし、今宵あなたが体験する捩れた世界では、そうとは限らないのかもしれない・・・。
(二)
知る人ぞ英雄と呼ぶ丈夫、麻咲イチロウは夜空を見上げた。星は見えず、濃い灰色の雲が空を覆っていた。
「降りそうだな・・・。」
やや癖のある黒髪を具え、前を開けた漆黒のスーツの内に純白のワイシャツを身に着け、首に朱赤のスカーフを巻き、風のように飄々と、それでいて堂々とした歩みを進めるその姿は、当に美麗の粋を結集せしめた威容と言えよう。
「朝までには晴れるまい。朝日は拝めないな。」
彼の素性は、一通りのものではなかった。彼は「武道ペン回し」を武器に、心霊現象を浄化し、自衛隊や警察組織の、特殊な部署から報酬を得て生業としていた。今宵も、彼は己の全てを奉げる天職に勤しんでいるのである。
彼は歩みを止めた。その視線の先に、何かに怯えるように声を上げつつ走っている若い男があった。
「あれだな。」
男は、赤信号に足を止められ、辺りを警戒しながら信号が変わるのを待っていた。だがやがて、道路を挟んで向こう側の歩道に立つ、小学生ほどの少女に気付いた。彼は慄き、踵を返し、別方向に走り始めた。
彼は閑静な住宅街に至り、突き当たりを左折した。するとその先には、先程と同じ少女がいた。男は来た道を引き返そうとして振り向いた。彼の足に、何かがぶつかった。彼は下を見た。
「ううっ!」
青白い顔の少女が、彼を見上げ、にったりと笑った。彼は腰を抜かし、這って逃げようとした。
彼の背後から、丁字路の三方向から、三人の同じ顔の少女が、すーっと近付いてきていた。
そのとき、誰かが上から降ってきて、彼をかばうように立ち塞がる者があった。麻咲であった。
「助けてくれ!」
男は麻咲にすがった。だが、麻咲は男の縋る手を振り払い、ペンを彼に突きつけた。スカーフと同じく、朱赤の、大きなペンであった。躄り退る男に、麻咲は迫った。
「必殺・武道ペン回し!」
麻咲は指でペンを猛烈な速さで回し、男に叩き付けた。
男は叫んだ。だが、すぐに痛みがないことに気付いた。男は麻咲を見、そして周りを見回した。少女たちの姿は既になかった。
麻咲が説明した。
「かつてお前が殺害した少女の霊は、とっくに成仏し、涅槃に至っている。」
「え?」
麻咲は、尻を地に着けている男の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「罪の意識を持ち続けるのは悪くない。だが、お前は既に、刑務所で罪を償った。良心の呵責で自滅することはない。」
「私は責められるべき人間です。それなのにあなたは私の存在を肯定して下さるのですか。」
麻咲は男の肩を軽く叩き、立ち上がり、去ろうとした。
「ありがとう、麻咲イチロウ。」
そう言われて、麻咲は立ち止まった。名乗ってもいないのに、名前を呼ばれたのだから。
「どこかで遇ったか?」
「私はあなたのことを知っている。」と男。
「すまんが、思い出せない。名前を言ってくれ。」と麻咲。
「私は・・・」
そのとき、麻咲は男の顔を見て、柄にもなく驚愕した。
麻咲を驚かせた顔面を持つ男は言った。
「私は、麻咲イチロウだ。」
(二)
麻咲と同じ顔を持つ男に、麻咲は言った。
「笑わせるな。ペンスピナー・麻咲イチロウとはこの俺のことだ。貴様は何者だ。」
「落ち着いて。」
と、麻咲の横から中年女性が口を挟んだ。その顔を見て、麻咲は目を見開き、言った。
「あんたは・・・、七年前、一緒に戦った、菩薩峠会長じゃないか!」
女性は麻咲の背中をさすりながら、椅子に座らせた。
麻咲は辺りを見回した。そこは、先程の暗い夜の住宅街ではなく、白一色の、病院の診察室だった。
「よく見て。私はカウンセラーの仏峠よ。」と女性。
「私は正木一郎。君の担当の心療内科医だ。」と男。
麻咲は、自分が恐怖を感じているということに気付き、驚いた。彼はこれまで、常人ならば耐え難い程の恐怖を齎すべき怪奇現象や死霊に、勇猛果敢に挑み、勝利を収めてきたのである。彼には、この恐怖が自分のものではなく、まるで他人の恐怖を肩代わりしているかのように感じられた。
麻咲は次に、自身の服装が変わっていることに気付いた。黒いスーツではなく、白い病衣である。そして、何となく、背が縮んでいるように感じた。麻咲は医師に、鏡を見せるよう頼んだ。その声も変わっていた。
鏡に映っているのは、先程麻咲が助けた、あの男の顔だったのだ。だが今はその顔に、なぜか親しみを覚えていた。
麻咲の口は、無意識に言葉を発した。それは、彼の脳が、彼の意志に依らずに、勝手に紡いだ言葉のようだった。
「私は・・・、坂本山臣です。」
(三)
西暦二〇一三年の三月上旬。兵庫県神戸市の、精神科病院の病室に、一人の青年が面会に来た。青年は浅葱色のパーカーを羽織っており、手には土産の菓子箱を持っている。
「よう、坂本。一般病棟に移れて、おめでとう。」と青年。
「相浜・・・相浜誠二君か。先生から聞いたが、迷惑掛けたそうだな。」と坂本。
「気にするな。」
椅子に腰掛けた相浜に対峙して、坂本もベッドに腰掛けた。
「実は、まだ自分が麻咲イチロウだという実感が抜けないんだ。昨日、幽霊の幻覚に怯えていた殺人犯――つまり僕――を救ったという記憶がある。それに、半月程前、人体模型の化け物を斃したというリアルな実感があって、ありありと思い出せるんだ。君のことだって、父の弟子の『相浜清牙』だという気がしてならないんだ。」
「それはお前が書いた小説の話だ。」
「小説?」
「お前はこの二年間、自分の妄想を小説として書き溜めてきたそうだ。」
「その題名は?」
「最新の作品は、『現代の怪談』だ。」
(四)
その日のカウンセリングのとき、仏峠は坂本に聞いた。
「自分が坂本山臣だという、実感はあるかしら?」
「正直に言って、ありません。」
坂本は率直に答えた。
「いいわ。じゃあ、どこに違和感があるのかしら?」
困り顔の坂本は、徐ろに述懐した。
「麻咲イチロウとしての記憶が、ありありと思い出せるんです。『オロチ退治』、『メーソン戦争』、『通り悪魔』、『蛙の怨霊』。どれもこれも、私が直接体験した、紛う方なき、私の記憶なんです!」
坂本の口調はいつの間にか熱を帯びていた。
彼は一度呼吸を整えた。
「私自身もおかしい。こう感情的になることはなかった。昨日までの私は、もっと理性的で、殊勝で・・・。」
暫しの沈黙の後、仏峠は、口元に薄く笑みを浮かべつつ言った。
「昨日までのあなたも、同じことを言っていたわ。でも、一つだけ昨日と違うわ。」
「それは?」
「あなたに、坂本山臣としての記憶が戻ったことよ。入院する前の、出来るだけ新しい記憶を、言ってもらえるかしら。そこから現在の記憶に繋がれば、あなたがあなただという実感が沸く筈よ。」
坂本は述懐を始めた。
「私は、中学生のとき、小学生の少女を殺して、逮捕されました。二一歳のときに出所し、単位制高校に入学しましたが、実家に居辛くなり、嘗てのバンド仲間で大学生の相浜君の下宿に身を寄せました。そのお返しに、私は嘗て教師志願だったので、彼の苦手科目の神学の面倒を見てあげていました。」
(五)
二〇一〇年の晩秋、土曜の午前。相浜の下宿の白い壁は、窓辺から差し込む白い朝日に照らされ、更に白く輝いていた。
相浜は、神学の授業の試験勉強のため、坂本に助言を求めていた。
相浜はメモを取り終わると、改めて言った。
「いつもすまんな。」
「居候の身で、役に立つなら幸いだ。」
そのとき、坂本の携帯電話が電子メールを受信した。実家の母親からであった。高校にすぐ来い、とのことであった。
坂本は、高校に着くと、会議室のドアを叩いた。
「どうぞ。」
彼は中に入った。
会議室では、二つの長いテーブルが向かい合わせに置かれており、向こう側には理科の女性教師と、生活指導部の男性教師、そして担任の若い男性教師が座っていた。こちら側の席には女性が一人しか座っておらず、さながら三人に責められているかの如くあった。女性は振り向いた。それは、涙に濡れた母親の顔であった。
純白の白衣に身を包んだ担任教師に、母親の横の席を勧められ、坂本は座った。担任は、微笑を浮かべて優しげに言った。
「坂本君。今日、何で呼ばれたか、解る?」
「いいえ。」
すると、黒尽くめの理科の女性教師が、強い口調で
「昨日の解剖の授業で、坂本君、マウスの肉を食べたでしょう。そのことです。」
と言った。
「生肉を食べて、体調でも崩したらどうするんですか。君の身がどうなろうと、私は知ったことではありません。もしものことがあった場合、解剖の授業が出来なくなってしまい兼ねないんです。」
「先生、そういった御発言は、相応しくないと思うのですが・・・。」
担任が口を挟んだ。
理科教師は、溜息を吐いた。
「とにかく、もうこんなことは、二度としないで下さい。解りましたか?」
「はい。」
坂本は首肯した
暫く、沈黙が流れた。五人とも、口を利こうとしなかった。坂本が、沈黙を破った。
「まだ何か?」
母親は、息子の非礼を教師に詫びると、坂本に言った。
「誠実にしてなさい。」
しかし、坂本は黙らなかった。
「私は今、『実験動物の肉を食べてはならない』という命令を頂戴し、それに服従する意を表しました。用が済んだのでしたら、これで失礼して宜しいですか?」
「山臣!」
母親が声を荒げたが、すぐに担任教師が制し、口を開いた。
「先生はショックだったんだ。信じていた君が、そんなことをしたって聞いて。」
「そうですか。それで?」
坂本は尚も、飄々と言った。
「いや、それだけなんだけどね・・・。」
母親が、坂本に向かって言った。
「私だってショックよ。どうしていいか、解らないのよ。」
「どうもしなくていいんじゃない?僕は今、命令に従いますと言ったじゃないか。」
坂本は、徒に感想を述べ立てるだけの会議に、心底うんざりしていた。
担任教師が母親に言った。
「とにかく、一度病院に診せて下さい。」
「病院とは、どっちの病院ですか?」
「どっちの、とは?」
「精神病院か、普通の内科か・・・。」
「ああ、普通の内科です。念のために、食中毒の検査をお願いします。」
坂本が校門を潜ってから約二時間後に、彼は母に伴われて出てきた。二人は一緒に歩いた。
「親に迷惑が掛かるようなことはしないでちょうだい。」
「僕は何もしてないよ。」
「莫迦者。実際に迷惑が掛かったじゃないの。」
「僕は命令に背いた訳じゃない。寧ろ、さっき命令に従う旨を述べたじゃないか。」
「この、親不孝者!」
母は、息子に平手打ちを加えた。
「あなたは、命令に背いた訳じゃないかもしれないけど、一般常識に背いたのよ。」
一般常識。その言葉は、坂本の耳に、怨敵の名として響いた。頬に走った苦痛は、その怨敵の報復として感ぜられた。
二人は、どこまでも白い太陽の下を、共に歩いていったが、途中で坂本が別れを告げた。
「相浜君の家はこっちだから。」
「病院はこっちよ。」
「行かなかったら退学になる訳でもなし。」
「勝手になさい!」
母親は去って行った。
坂本にとって、病院は恐怖の対象であった。病院は白い。そして、そこには必ず血の赤がある。
白と赤。それは彼にとって恐怖の取り合わせであった。
白は、少年院の更生センターの色であり、自分が異常者だと自覚させられた場所の色であった。そして赤は、罪悪感の色であった。四年前、少女を殺害したときに見た、あの毒々しい程に鮮やかな赤である。
彼がマウスの肉を食べた理由には、それもあった。赤の血に染まった、白のマウス。それを食べることで、「白と赤」の恐怖を克服しようとしたのだ。もっとも、理由はそれだけではなかったのだが。
坂本は、相浜の家に向かわず、公園に寄った。公園には池があり、その周辺にベンチがあった。坂本はベンチに腰掛けた。するとそこに、どこからともなく、土色に黒の縞模様の入った雉猫がやってきた。
「よう、ゴロダルマ。」
坂本は、そう言って猫の頭を愛撫し、その横面に口付けした。猫は「ブルルルル・・・」と喉を鳴らし、坂本に頭を擦り付けた。ふと見ると、ベンチの前にグミが落ちていた。誰かが落としたのだろう。猫は、グミに気付き、それを食べようとした。だが、結局猫の口には合わなかったようだった。
「要らないなら、もらっていいか?」
そう言って坂本は猫からグミを受け取った。そしてそれを手で摘み、まじまじと見た。白い日光が、半透明のグミに透き通り、グミ全体が白に見えた。
(普通なら、落ちていたもの、野良猫が咥えたものなどは、食べない。一般常識では・・・。)
坂本はそう考えた後、このグミを頬張った。甘い果実の風味が、口の中に広がった。さっきまで白かったグミに、生き生きと色が付いたように感じた。それと同時に、彼の中に、達成感が広がった。憎き一般常識を、また一つ克服したと感じた。それは、マウスの肉を食べたときと同じ達成感だった。