4.さよならなんて言わない
ゴールデンウィーク初日、私は朝からラーメン丼の仕込みに追われていた。
調理道具を除いて、私物は全て整理した。あとはこれをジンに食べてもらって、会長の分の夜食を用意したら、私はこの部屋を去る。
正式に引き受けた仕事を途中で投げ出すなんて、今までの私にはありえないことだ。経歴に汚点が残るのは、悔しいけれど仕方が無い。設備や待遇面でのレポートは完璧に仕上げたし、最大の問題点である会長については、今の私にできることは何もない。
会長は強い人だから、きっと一人で立ち直っていけるはず。
むしろこのまま私と親しくなればなるほど、『嘘』に気付いたときのダメージが大きくなる。
頭の中で整理した客観的な分析。それを私は溜息で壊した。
「……ううん、会長のせいにしちゃダメだ。問題は私の方だもん」
仕事として取り組むならば、このまま完璧に男子を演じていればいい。そのまま一年経ったら、何も言わず会長の元から去る。私の痕跡は理事長が消してくれる。
ロボットみたいに心を空っぽにすれば耐えられる。でも、私にはできない。
私はこれ以上、会長に嘘をつきたくないから……。
くつくつと煮える野菜の鍋に涙の塩味が落ちそうになり、私は慌てて蓋をした。それから掃除の仕上げと日課の筋トレをしているうちに、太陽は澄み切った青空のてっぺんに昇っていた。
「さて、準備完了。あとはジンが来るのを待つだけ、かな」
独りごちながら、私は部屋の右側の壁にそっと触れてみた。その壁の向こうに想う人は居ないと分かっていても。
いつもは生徒たちの賑やかな喧騒に包まれているこの場所も、今日はとても静かだ。ゴールデンウィークは監獄から出られる貴重なチャンス。一日でも無駄にしたくないと、昨夜のうちに教員も含め大部分の人間がここから消えた。残ったのは私とジンと会長、あとは管理人だけ。
しかし会長は今朝早く「急な用事ができた。夕方には戻る」と伝言を残し、バイクで出かけてしまった。会長が戻ってきたとき、私は既にここから消えているのだ。きっとショックを受けるに違いない。その後どうなるかは想像に難くないけれど、私に関する全ては理事長が引き受けると約束してくれている。
さよならを直接言えないのは寂しいけれど、落ちついたら手紙でも書こう。
嘘をついてしまったことは……いつか謝ろう。
ぼんやりとそんなことを考えていると、ジンと約束した十二時ジャスト、インターフォンが鳴った。
私は液晶画面を確認もせずにドアを開き――
「んっ……」
自分の唇から漏れた呻き声で目が覚めた。早鐘を打つ鼓動に逆らうように、深く息を吸いゆっくりと眼を開く。
私は、薄暗い場所に横向きで転がっていた。
鼻をつくのは埃の臭い。瞬きするたびに、ぼやけた視界が鮮明になっていく。まずは身体を動かさずに、五感だけで情報を収集する。灰色の低い天井。空間の広さはそれなりにあるが、ごちゃごちゃと物が置いてあるせいで狭苦しく感じる。それらは私にとって見慣れた物ばかりだった。
どうやらここは体育倉庫で、私はマットの上に居るらしい。
次に確認するのは自分の境遇だ。少しずつ身体を動かしていく。特に痛みを感じるところは無い。後ろ手に手首をガムテープで縛られているものの、足は自由。軽い頭痛は嗅がされた薬品の名残だろう。
こんな安直な手に引っ掛かるなんて……という反省はひとまず後回し。より正確な状況を把握しようと動かした眼が、一人の人物をキャッチした。
見知らぬ男だ。身長は百七十センチ程度、やせ型で華奢な体つき。顔立ちはそれなりに整っているものの、特徴は薄い。うちの学校の制服を着ているけれど見覚えがないということは、たぶん上級生なのだろう。
そして、その奥に佇むもう一人……。
九十度傾いた角度で見上げたジンは、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
「アンちゃん……」
ジンの呟きが澱んだ空気を震わせる。すると制服姿の男がこっちを見て、嘲るようにフンと鼻を鳴らした。尊大な態度に、今回の主犯が奴なのだと察する。対して「ゴメン」と繰り返されるジンの声は掠れ、仕立ての良さそうな白いシャツは汗ぐっしょりだ。
ある意味対照的な二人を見比べて、フル稼働した私の頭が一つの結論を導き出す。
「そっか……去年までここにいた従兄、ジンは卒業生だなんて一言もいわなかったよな。さては『会長に追い出された特待生』ってあたりか」
私はできる限りの低く冷たい声色で告げた。こんなことをするなんて、会長に聞いていたとおり最低のカス野郎だな……とまではさすがに口にしなかったものの、冷めきった侮蔑の視線を向けてやった。
あからさまな私の挑発に、すかさずカス野郎が反応する。
「察しが良いなぁ。さすが会長お気に入りのペットだけあってよ!」
ジンとは似ても似つかぬ、擦れ切ったチンピラのような表情を浮かべたカス野郎が、私に向かって容赦なく蹴りを繰り出した。これで犯人は確定だ。コイツを背後で操る人物がいて、また別の思惑が絡んでいたりすると面倒だけれど、今回はその心配は杞憂らしい。
さほど運動が得意では無さそうなカス野郎の蹴りは、私が身をよじったことであっさり外れた。咄嗟にジンがカス野郎の背中に飛びつき羽交い締めにする。
「兄さん! アンちゃんには何もしないって言ったじゃん!」
珍しく大きな声を出したジン。その声が建物全体を震わせると、慌てたカス野郎はジンの頬を平手で殴った。パシンと乾いた音が響き、ジンは怯えて俯いてしまう。そんな一連のやりとりで、私は二人の力関係を見抜いた。
ジンはカス野郎に逆らえないのだ。きっと幼い頃からずっと。
となると、当然ジンがこの学校に入ったのも特待生の私に近づいたのも、全てカス野郎の命令で……。
「ジン、オレを餌にして会長を呼び出したの?」
私は率直に問い掛けつつ、体勢を変えた。寝転んだ姿勢から勢いをつけて上半身を持ち上げ、体育座りになる。
磨りガラスの小窓から差し込む僅かな光の中、正面から見たジンは今にも倒れそうなくらい青白い顔をしていた。それでも私の問いに応えようと、小さく頷く。私は深い溜息を吐いた。
こんな状況になって初めて、どうしようもない自分の甘さに気付いた。
思い返せば、会長の悪い噂を流していたのは全てジンだったのだ。一見そうと分からないような……私の身を案じるような言い回しだったけれど、それが結果的に会長を貶めていたことは間違いない。
またジンは、俺を通して会長の情報を収集していたのだろう。ジンを信頼し切った私は、まんまと大事なネタを流してしまった。
ゴールデンウィークで学校から人が消える中、残ったのは私とジンと会長、あとは寮の管理人だけ。卑屈なストーカーがぬか喜びするような、絶好の機会だ。
ただこの計画には大きな穴がある……。
「でもさ、会長が来たとしてその後どーすんの? 会長は強いからジンなんて一発でやられちゃうよ?」
ジンの背が高過ぎて、座ったままでの会話は首が疲れる。私は背中を丸めて一度後方へ転がり、反動を利用してピョンと立ち上がった。二十センチはあるだろうマットの厚みに上げ底されて、ジンと初めて目線が並ぶ。
「ジン?」
「あの、俺、どうしていいか……」
入学式の日、壇上に立ったときよりもっと激しく身体を震わせ、ガチガチと歯の音を鳴らすジン。私はなるべく柔らかく微笑みかけた。
「ジン、オレを信じて? 今すぐ解放してくれたらこのことは誰にも言わない。会長にも『オレとジンで企んだドッキリでした』ってごまかしてあげる。だから部屋に帰って一緒にラーメン丼食べよう?」
「アンちゃん……」
優しすぎるジンの視線は、正面の俺と右隣に立つカス野郎、二つの間を行ったり来たりする。長年つき従ってきた『ご主人様』と、ほんの一ヶ月足らずの友達、どちらを取るか迷っているのだろう。
仕方なく私は、決定的な台詞を告げた。
「本当はもう気付いてるんだろ? 今までソイツから散々聞かされてきたことが全部嘘だって。会長は何も悪くない、むしろ悪いのは――」
そこで飛んでくるカス野郎の足。私はその汚い靴底が届く直前に身を引き、蹴りを受けた風を装って再びマットへ倒れ込む。粉っぽい埃が一斉に立ちのぼり、私はゴホゴホと咳き込んだ。慌ててジンが私に駆け寄ろうとする。
その時、閉ざされた重たい鉄の扉がガタンと音を立てた。
「――真咲ッ!」
差し込む光が、舞い上がる埃を粉雪のように煌めかせる。
暗闇に目を凝らす、細められた碧い瞳。それを見るだけで、私はなぜか涙が出そうになった。
「何のつもりだ、土屋……?」
さすがの会長でも、行間を読み切れない状況だろう。
想像するに、今朝会長はどこかへおびき出された。無駄足を食って戻ると、今度は『安藤真咲を預かった』なんてベタな脅迫文を見つけて、内心パニック状態で駆け付けたに違いない。
そして今――いざ現場に踏みこんでみれば、そこには予想外の人物がいた。
倒れた私を強引に立ち上がらせ、首筋にナイフを当てているのが土屋と呼ばれたカス野郎は想定内。しかしその脇には、私にとって親友ポジションのジンが居る。
会長の人間不信は完治していない。頭の中では、誰を敵とみなすか決めかねているのだろう。一ヶ月一緒に過ごした私には分かる。クールな眼差しの奥に秘めた、焦りも、怒りも……。
私は緊迫した空気をぶち壊すかのごとく、いつも通りの呑気な口調で会長に語りかけた。
「あのね会長、ジンはコイツの従兄なんだって。だから無理やり協力させられて」
「黙れっ!」
首筋に鋭い痛みが走る。皮が薄く切れたようだ。
それは意図的なものじゃなく、コイツの手が震えたせい。
私は先日シチューを食べた夜を思い出す。会長は「試しに手伝わせろ」と言って包丁を握ったものの、一個目のジャガイモでまんまと指を切ってしまった。人間、慣れないことをするもんじゃない。
クスッと笑みを漏らした私に、会長が低い声で問いかける。
「おい真咲、大丈夫か……?」
「ん、ヘーキ」
私は会長に笑顔を向ける。会長も私に笑顔を返す。たったそれだけの行為が、嫉妬に狂うカス野郎を追い詰める。
会長は前髪を乱暴にかきあげると、相手を挑発するような、からかい混じりの口調で告げた。
「じゃあ土屋、話を聞こうか。要求は何だ? といっても俺からは、天国行きの片道チケットしか用意してやれねぇけど」
「うるさい! こっちに来るな! そこで、土下座しろ!」
興奮したカス野郎は、私の耳元に唾を飛ばしながら叫ぶ。オエッと思い顔をしかめると、後方から微かな声がした。
「兄さん、もうやめよう……?」
首にチクチク当たっていた刃が僅かに遠ざかる。震える手でカス野郎の手首を掴み、自分の方へ引っ張ろうとするジン。非力な細腕だけに引き離すまでは至らないものの、抵抗してくれたことが何より嬉しい。
――そろそろ、終わらせよう。
私はもう一度ジンに微笑みかけ、正面を向いた。
「会長、とりあえずそこのドア閉めてもらえますか?」
私の提案に、今度はカス野郎も文句をつけなかった。密室の方が安心できるとでも思ったのだろうか。そんな保障はどこにも無いのに。
会長は軽く頷くと、後ろ手に倉庫の扉をまさぐった。重たげな音を立てて鉄の扉がスライドしていく。
そして訪れた、暗闇。
眩しい光を背負い金色に輝いていた会長の髪が、漆黒に変わる。光に慣れた目は塗りつぶされた闇だけを映す。
刹那――身体が動いた。
物ごころつく前から、何千何万と繰り返してきた動作。ナイフを持つカス野郎へ一度体重を預け、右肩をねじり込みながら頭を横にずらす。刃の届かないところまで上半身を傾けると、その勢いで縛られた後ろ手の腕を振り上る。イメージ通り、柔らかな鳩尾に握り拳が深々と収まる。
そのまま右足を振り上げ、よろめく相手の胴体につま先を飛ばす。ドサッという鈍い音と再び舞い上がる埃が、終了の合図。
状況を察した会長がすかさず振り向き、今閉ざしたばかりの扉を強引に押し開くと――
「ゴメン、面倒くさいから片付けちゃった」
眩い光の中、私はにっこりと微笑んだ。足元に転がるカス野郎を踏んづけた、女王様のポーズで。
その傍に崩れ落ち、嗚咽を漏らすジン。
会長はしばし瞠目した後、私に最高の笑顔をプレゼントしてくれた。
◆
もうじき、発車ベルが鳴る。
無人駅に滑り込んだ四両編成の電車は、ホームでのんびりと時間調整中。お洒落な藍色のかっぽう着をきたお婆さんが、「急ぎなさいな」と親しげに声をかけ乗り込んで行く。
古びた待合室のベンチには、切符を握りしめた私と会長だけが取り残された。
「……どうしても行くのか?」
「はい、転校の手続きも済んでますし」
チッと舌打ちし、私を至近距離からギリッと睨んでくる会長。その碧い瞳には苦渋の色が浮かぶ。
体育倉庫の一件が無事片付いた後、用意したご飯を大急ぎで片付けて予定通りバス停へ向かった私を、会長は強引に引き止めた。それでも私の決意が覆らないと分かると、しぶしぶバイクでここまで送ってくれた。
初めての二人乗り。しかも会長に堂々と抱きつけるなんて最初で最後かもしれない。そう思った私は、広くて逞しい背中にギュッとしがみついた。
緑の匂いのする風と、薄手のシャツ越しに伝わる体温を感じながら、私は湧き上がる未練を断ち切った。余計な感情を排除した、完璧な仕事モードの『アンドロイド』に変わった。そうすれば私は強くなれる、笑顔でさよならできると分かっていたから。
ただ会長にとっては、逆効果だったのかもしれない。
可愛がってきたペットの猫が強くしがみついてきたら、離れがたくなるのも理解できる。例え猫の方がその腕から逃れようと暴れたとしても。
……というか、今は会長の方が猫みたいだ。
「俺がこんなに言っても、ダメなのかよ」
繰り返される可愛い我侭。どんなに睨まれても、全く怖くないどころか笑みさえ浮かんでしまう。
「会長ってば、さっきからそればっかり。もう時間無いんですよ? 他に言うこと無いんですか?」
苦笑混じりに問いかけると、会長は思い出したようにポンと膝を打った。ジーパンに包まれた長い脚を組み、身体を引いて私の全身をしげしげと訝しげに見つめる。
「……そういや、お前って何者? 女みてぇな細っこい身体して、何であんなに強いんだ?」
想定内の質問に、軽く安堵する。
引き受けたミッションが終了したとき、親しくなった相手に私は必ずこう答えていた。
「あんまり細かいことは言えないんですけど……実はうちのお父さん、とある国の特殊部隊で働いてるんです。おかげでお母さんもオレもちょっと危険な立場らしくて、この手の自衛手段はみっちり仕込まれてきました。まあ、会長と似たようなものですね」
気ままな主婦を装ったお母さんの本業は『ボディガード』なのだ。理事長ともその関係で知り合ったのだろう。腕力では男性に敵わないものの、その柔軟な感性やら直感力で様々な危機を乗り越えてきたとのこと。
そして私も、お母さんの血をしっかり受け継いでいる。まだ未熟なところは多々あるものの、既に跡継ぎとして期待されているらしい。
確かに、依頼を受けて誰かを守るのは嫌いじゃない。
でも本当の夢は、大切な人のために料理を作ることで……。
「――じゃあオレ、そろそろ行きますね」
泣き顔なんて見せたくない。
勢いよく立ち上がった私は、膝を伸ばし切ることができず元の姿勢に戻った。
「行くなよ」
リュックの肩ひもを掴んで離さない会長。子どもっぽい意地悪に私は苦笑する。
「ホント我侭なんだから……会長が土屋を許した理由が、何となく分かった気がしますよ」
同類とは言わないまでも本質は同じ。手に入らない玩具を前に駄々をこねているようなものだ。
私が放ったからかい混じりの皮肉に反論してくるかと思いきや、会長はすんなりと肯定した。
「まあ、そうかもな。ただ言っとくけど、奴を許した訳じゃないぞ。気付いたんだよ。こっちが何も言わず放置するのが奴には一番堪えるってな」
私は『正解』という意味を込めて、軽く頷いた。あの手の輩はターゲットのリアクションを求めるから、何をされても相手にせずスルーというのが一つの有効な対策。そこに自力で辿りつくなんて、会長もずいぶん成長したものだ。以前の会長ならきっと奴を完膚なきまでに叩きのめして、さらなる逆恨みを生んでいたことだろう。
なんて、やや上から目線の感想は会長に伝わってしまったらしい。まるでピーマンを口に含んだときのように、露骨に嫌そうな顔をする。
「お前ペットの癖に、ときどき偉そうだよな。なんだかこっちが操られてる気になる」
「えー、そんなことないですよー」
「棒読みすんな。ただ今回の件はさ……気付かせてくれたのは、真咲だよ」
会長は自分を偽らない。
膝が触れあうほど近い距離でも眼を逸らさない真っ直ぐな眼差しや、少し掠れぎみのハスキーボイスや、くしゃりと前髪をかき上げるしぐさや……全てが私の心に流れ込んでくる。アンドロイドのガードを打ち破るほどのパワーで。
「今までの俺は、一方通行の感情なんて知らなかった。向こうからそう思われることには慣れてたけどな。悔しいけど、今の俺はお前に『片思い』ってワケだ」
「……そんなこと、ないですよ?」
「実際そうなんだよ。俺は自分のことを全部話したのに、お前は俺に何も言ってくれない。大事なところだけはさりげなくかわすんだ。お前が今まで何をしてきて、これからどこに行こうとしてるのかも、俺は知らない」
「それは今言った通り、家庭の事情で」
「いや、そういうことじゃねぇだろ? お前は何も言わずに、俺との関係を一方的に絶ち切ろうとしてる。それが許せねぇだけだ」
会長の言葉がグサグサと胸に刺さる。それでも私は眼を逸らさず、正面から受け止める。
「土屋と比べるのもオカシイけどさ……あんな最低な奴でも、アイツ――ジンは土屋を切らなかった。『自分が責任持って更生させる』なんて、なかなか言える台詞じゃねぇよ。それだけ強い絆があるってことだろ。なのにお前はあっさり俺を見捨てるんだ。本当の理由も言わずにな」
会長の大きな手が固い握り拳を作る。私はそこに自分の手を重ねたくなるのを何とか堪えた。返す言葉が思いつかず、ただ静かな時だけが流れる。
つかの間の静寂は、駅舎の壁にかかった古時計のボーンという音で打ち破られた。そろそろ本当に出発の時間だ。
立ち上がった私を、会長はもう止めなかった。
「……でも、悪あがきしたところで、相手を苦しめるだけってこともあるんだよな。お前が何も言わずに行くなら、俺はそういうお前を含めて丸ごと受け入れるべきなのかもしれない」
少し照れたようにそっぽを向いて、駅舎の壁にかかった古時計の方へぼそぼそと言葉を投げる。
駄々をこねるばかりだった子どもが、一歩大人になった。そんな複雑な心境を表すように、会長はふくれっつらを作る。
今回カス野郎の取った手段はサイアクだったけれど、会長の方にも得る物はあったようだ。
というか……こうして拗ねる会長は、可愛過ぎる!
堪え切れなくなり、私はクスッと笑みを漏らした。会長はますます苛立ち、焦燥感を滲ませて私を上目遣いに睨みつける。
「つーかお前、さっきから何でそんな冷静なんだよ……お前俺のこと好きなんじゃねーの?」
「そういう会長こそ、オレのこと大好きなんですよね?」
いつものからかいを逆手に取ってやると、会長は珍しく口篭ってしまう。頬だけでなく、耳の先まで赤くして。
これはきっと、ホームから差し込む夕焼けのせい……私はそう思い込もうとして、止めた。
男とか女とか、友達とか恋人とか、そんなカテゴリ分けはもうどうでもいい。
私は誰よりも会長が好きで、きっと会長も……。
「ね、会長。またオレに会いたかったら、一つ約束してもらえませんか?」
「なんだよ」
拗ねて再びそっぽを向いてしまった会長の頬に、私はそっと唇を寄せた。羽の先でくすぐるように、軽く。
「――な、真咲ッ?」
言い訳なんて通用しないくらい真っ赤になった会長に、ダメ押しの一撃。
初めて見せる〝女の子〟の笑顔と声で。
「もう私以外にフェロモン出さないで下さいね? 例え超美人でお嬢様な許嫁が現れても――」
最後の台詞に被った、けたたましいベルの音。
飛び乗った電車の窓越しに見つけた会長は、魂が抜けたように呆けた顔をしていて……私はその姿を心のカメラに焼き付け、胸の奥の宝箱にしまった。
電車が揺れ出すと、シルバーシートに座っていたさっきのお婆さんが寄ってきて、お向いさんの私にハッカ飴とガーゼのハンカチをくれた。
私は飴玉を口に放り込み、ハンカチで顔を覆った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。ラスト一話はエピローグになります。二人の未来にご期待くださいませ。