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3.楽しいペット生活のおわり

 そのとき会長は、いつも強気な瞳に初めて恐怖の色を滲ませた。

「お待たせしました! リストランテ安藤の人気メニュー『ラーメン丼』ですっ」

 フェロモン魔王との、ペット脱出をかけたガチンコ勝負。私の装備は鎧じゃなくてかっぽう着。手にはロングソードの代わりにシルバーオタマ。そしてフローリングの上には、使い慣れたデザインのちゃぶ台と座布団。

 これらのアイテムは全て、お母さんが勝手に手配したものだ。なんという先見の明!

「さ、熱いうちに召し上がれ!」

 熱々の湯気が立つ丼をちゃぶ台に置くと、座布団の上で胡坐をかいていた会長が上半身をのけ反らせた。その反応は予想通りで、私は内心ほくそ笑む。

 昨夜は一時的にショックを受けたものの、良く考えれば料理は得意中の得意。このゴッドハンドが生み出すミラクルマジカルなオリジナル手料理で、我侭なご主人様をギャフンと言わせられるなんてしめたものだ。

「……これ人間の食い物だよな。犬の餌じゃねーよな」

「失礼なっ! 分かりました、まずオレが毒見しますから」

 私は丼に刺さったスプーンを引き抜き、麺・スープ・米をバランスよく乗せて一口。

「んー、美味っ!」

 ベースがインスタントラーメンとは思えない、複雑且つ芳醇な味わい。隠し味に数十種類のスパイスを混ぜたこのメニューは、私の考えたレシピの中でも一番の自信作だ。

「ハイどうぞ?」

 一瞬「あ、間接キッス」なんて考えながらスプーンを返すと、会長は恐る恐るそれを丼に差し込み、私に倣って一口。

「……美味い」

「やった!」

 思わず座布団の上でぴょんと飛び跳ねてしまう。私の密かな夢はコックさんなのだ。家庭の事情を考慮すると、その夢が叶う可能性は低いけれど。

「なんかコレ、独特な香り……ドップラー効果じゃなくて」

「ナンプラー?」

「そうそう。ソレが、効いてて」

「もー、食べながら話すのは行儀悪いですよ?」

 ペットからの逆しつけを受けて、会長は軽く眉をひそめつつも素直に従う。少し拗ねた顔が子どもみたいで可愛らしい。つい見とれて、自分の箸が止まってしまう。

 私の夕食は、本物のシェフが作ったビュッフェのメニューだ。さっき料理をしている間に会長が取ってきてくれた。このさりげない優しさが嬉しい。

「あー美味かった。ごちそーさん」

 余程気に入ったのか、ラーメン丼を一気にかきこんだ会長は、満足気に微笑んだ。

「これ食べて思い出したんだけどさ、俺ガキの頃一回だけ買い食いしたことがあるんだよ。カリカリした揚げ麺の菓子……ヘビースモーカーじゃなくて」

「ベビースター?」

「あ、それだ。スゲー美味くて感動してさ。でもメイド頭のババァに見つかって、身体に悪いもの食うなって怒られた」

 私の頭には、叱られてしょんぼりするチビッ子の会長が浮かぶ。思わず笑い声をあげると、いつものように眼光鋭く睨みつけてくる……そんなコワモテな顔にもだいぶ慣れた。むしろ優しさとのギャップで、魅力が倍増する。

 何より、私の手料理を『美味い』と言って、これから毎日食べてくれるなんて……。

「なんか新婚生活って感じ……」

「何か言ったか?」

「ううん、何でもないです……」

 私は俯いて、かっぽう着の裾をくにくにと弄ぶ。

 この状況は非常にマズイ。そう気付いたものの、ドキドキと勝手に鳴りだす心臓の音は止められない。

 せめて顔や態度に出さないようにと、私は気持ちを引き締めた。今の私が会長をハートマークの目で見たら、本物のヘンタイだ。会長はもちろん、ジンやクラスの皆もドン引き間違い無し。絶対バレないように注意しなければ……。

「そーだ、真咲の母親ってお前に似てる?」

 またもや唐突な質問に、私は思考停止させられる。

「えと、顔はあまり似てないですけど」

「でも美人だろ」

「まあそーですね」

「やっぱり。あのエロジジイ絶対狙ってやがる。邪魔なガキを余所へやって、ついでに恩も売ろうって魂胆だな」

 ぶつぶつと、愛情たっぷりな愚痴を漏らす会長。私はちゃぶ台の上を片付け、お茶の支度をしながら適当に相槌を打つ。

「身内の恥晒すのもナンだけどさ、うちのじーさんかなり女好きなんだよ。あちこちに子種ばら撒いて、そのせいで直系の俺は何度も危ない目にあってさ」

「はぁ、それは大変でしたね」

「おかげで小さい頃から、空手やら格闘技系は一通り習わされてさ。多少腕が立つようになったのは怪我の功名ってヤツだな」

「なるほど、会長最恐伝説のルーツですね」

「ハハッ、なんだそりゃ。また妙な噂仕入れてきたな……ま、中学まで俺が荒れてたのは事実だからしょーがねぇ。でも今はだいぶ丸くなったぞ? この監獄の中には、さすがに腕力でかかってくるヤツは居ねぇからな。代わりにくだらん噂流したり汚ねぇ手を使うヤツは居るけど、そんなの俺は痛くもかゆくもねーし」

 私は程良く引き締まった会長の胸や腕をこっそりチェックし、その発言にも納得する。あの理事長秘書には及ばないものの、高校生ではきっと敵無しの強さだろう。

 一度手合わせしてみたい……なんてうずうずし始める自分の心のままに、私は尋ねた。

「でも腕が立つのに使えないなんて、逆にストレス溜まりませんか?」

「お、良く分かったな。そーなんだよ。さすがに体育の柔道やらで発散するわけにもいかねーし……」

 と、そこまで言って会長はちょいちょいと私を手招きした。これは内緒話の合図だ。私は紅茶の飲み頃を伝える砂時計の残量をチェックすると、ちゃぶ台の上に身を乗り出して顔を近づける。

 頬に吐息がかかる距離で、会長は悪戯っ子のようにクスッと笑った。

「実はたまに夜バイクで抜けだして、隣町まで行ってるんだよ。そこには俺と似たようなガキがたむろしてるから、一緒に走ったりしてる。ついでに限度超えた悪さするヤツをボコったりしてな」

 お約束のような『裏の顔』だ。私はボソッと呟いた。

「……そうですか、会長は暴走族の頭だったんですか」

「バァカ、そんなのと一緒にすんなよ。他人に迷惑かけるような走りはしてねーっつーの」

 近寄せたおでこをパチンと指先で弾かれ、私は唇を尖らせて身体を引いた。顔が火照って仕方ないのを、おでこの痛みのせいとすり替える。

「だけどさ、ときどき悪いと思うこともあるんだ。他の奴らは長期休み以外ここから抜け出せないってのに、俺ばっかり好き放題やってさ……だから、俺の存在が多少なりともストレスのはけ口になるなら」

「や、それは違うと思います」

「真咲?」

「一日見て回りましたけど、ここのセキュリティなんてけっこうザルですよ? 他人の侵入は難しくても、内部の人間が出入りするのは簡単です。ただ皆はリスクを考えてそれをしないってだけで」

 お坊ちゃんたちにとって、自由と危険は表裏一体だ。

 会長は敵を撃退できるだけの力を手に入れたから、こうして自由を満喫できている。その力を得るのに相当の努力が必要だということは、私にも良く分かる。努力したくないなら、大人しく檻の中に居た方が楽しく生きていける。

 この学園は、監獄ではなく要塞なのだと理事長秘書は言った。大事な子どもたちが危険に晒されず、のびのびと高校生活が送れるように……。

 そうやって狭い世界で守られながら、心は少しずつ澱んでいく。会長への悪質な噂はその兆候だ。

 私は入学早々に巻き込まれた騒動を思い出し、パシンとちゃぶ台を叩いた。

「とにかく、いくらストレスが溜まるからって、会長に不満をぶつけるなんておかしいです! そんなことのために会長がわざわざ悪役を引き受けるのも変だと思う!」

 カーッと頬が熱くなる。照れ隠しじゃなくて本気で感じる怒りのせいだ。たぶんうちのお母さんも、この学校の話を聞いたとき理事長に対してこんな態度を取ったに違いない。

 そんなつまんない世界、私がぶっ壊してやる!

「真咲、お前……」

 会長はフッと微笑んで、私の頭へ手を伸ばした。短くしてしまった髪をくしゃくしゃと撫でてくる。まるで本物のペットにするみたいに。

「分かってんのか? うちの学校で一番立場が弱いのは、特待生なんだぞ?」

「それが何ですかッ」

「やっぱ分かってねーな」

 私の頭から心地良い重さが消える。代わりに耳の奥に残ったクスクス笑い。

 再びドキドキの波が押し寄せてきたので、私はそれをごまかそうと紅茶を注いだ。会長もさっき食べたラーメン丼を消化したようで、甘いデザートへ視線を移す。

「……まあソレはさておき、最初の話な」

「うちのお母さんのことですか?」

「そう。じーさんは狙った獲物は逃さないっつーか、欲しいモノは絶対手に入れなきゃ気が済まない、我侭なガキみたいな性格でさ」

「その遺伝子、会長にもしっかり受け継がれたんですねぇ」

「バカ、一緒にすんな。俺はそんなことしねーよ。今まで付き合った女は、向こうから来たヤツばっかだし」

 さりげなく自慢話を披露すると、会長は紅茶を一気に飲み干し、デザートのタルトフレーズを頬張った。フォークを使わず豪快にかぶりつき、指についた赤いジュレを舐めるしぐさがいちいち絵になる。硬派なキャラに見えて実は甘いものが好き、というあたりも可愛いギャップだ。

 このフェロモンを抑制するには、いったいどうしたらいいのやら……。

 悩める私の乙女心も知らず、会長は楽しそうに仮説を展開する。

「つまり、真咲がここに来たのは、全部じーさんの策略かもしれないってこと。高校と電話会社に手回して、真咲がその学校行けないようにして、真咲の母親に泣きつかせてさ」

 会長の意外な推理を聞いて、私はうーんと唸った。確かに理事長は策略家っぽいし、孫である会長が言うならありえなくもない。

「万が一そうだとしても、うちのお母さんは別の意味で最恐っていうか……まあ今のところはお父さん一筋ですよ?」

「じーさんはそういう相手ほど燃えるタイプなんだよ」

 お母さんはそういう相手ほど天然でかわすのが上手いんです、と微妙な言い争いになりかけて、私は自重する。代わりに、最も気になる疑問をぶつけてみることにした。

 パソコンに入力した、例の中途半端な仮説を裏付けるために必要な――会長の恋愛事情。

「あの、もしかして会長も、そういう女性が好みなんですか……?」

 その一言が沈黙の引き金になった。会長の唇は固く引き結ばれ、形良い眉の間にシワが寄る。

 まだ出会って二日目。この話題を振るのは早過ぎた……?

 私が謝罪の言葉を口にしかけたとき、会長は突然「ぶはっ!」と吹き出した。

「ちょっ、何で笑うんですかっ?」

「真咲はホント可愛いヤツだなぁ」

「え、ええっ?」

 目尻に浮いた涙を拭うしぐさを見るのも、今日で二度目。きっと私はこの先、何度も会長を泣かせてしまう……そんな甘い予感が胸をくすぐる。私は煩悩を振り払うべく、冷めかけた紅茶を飲んだ。

 その瞬間。

「さてはお前、俺に惚れたな?」

「――ぶはっ!」

 吹いた。

 スプラッシュを顔面に浴びた会長は、固まる私を無表情で見つめた後「男同士だぞ、冗談に決まってんだろーが」と呟き……さらに「ペット期間無期限延長」と告げた。


 ◆


「……っていう感じ?」

「そっかぁ……」

 昼食後のコーヒーブレイク。夜毎行われている会長との〝密会〟についてざっと説明すると、ジンはホッと息をついた。

「アンちゃんが会長にいじめられてなくて、本当に良かったよ」

「まあ、ペット扱いは相変わらずだけどなっ」

 身分を偽っての男子高生活も、早一ヶ月。

 その間私の正体がバレる気配も無く、人間関係はすこぶる良好。ただ入学初日の噂話以降、クラスの皆は私が会長の名前を出すたびに不自然に話題を逸らして……それは『会長イコール猛獣』という認識が根強く残っているからだと思っていた。

 ところが真相は違った。私と会長が毎晩部屋で何をしているかをネタに、賭けをしていたというのだ。

「にしても水臭いなぁ。オレ会長のコト誤解されてると思って、ずっと悩んでたのに」

「ゴメンゴメン。だけどアンちゃんの言い方もさ、あまりにも必死で会長を庇うから『絶対脅されてる』って言い張る奴がいてさ」

「むぅ……そんなこと言われたって」

「でもホント安心した。実は従兄から聞いてたんだよね。会長の世話係になったら、どんな酷い扱い受けるかって……」

 ジンの薄い眉が垂れ下がり、俺のテンションもゆるゆると落ちる。

 きっと去年のペット君はあの鋭い眼で「不味い!」と睨まれて、さぞかし胃の痛い思いをしたのだろう。そもそも一介の高校男子が、偏食な王子様の胃袋を満足させるなんて奇跡に近い。

 私が見知らぬ前任者に想いを馳せていると、突然ジンが叫んだ。

「そーだ! 今度俺にも作ってよ、そのラーメン丼。あとエビフライパンと、チャーハンマーボーパスタもいいなぁ」

 ここのゴージャスな食事を「まあまあかな」とぬかす、グルメなお坊ちゃまのジン。腕試しにはピッタリの相手だ。

「いいよ。日曜の昼で良かったら……って、来週はゴールデンウィークか。ジンはどーすんの?」

「うん、普通に実家帰るけど」

「そっか、オレの予定はまだ決まってないんだ。一人寂しく寮生活かも。うちのお母さんたぶん海外だから、帰っても誰も居ないし……」

 私の台詞は尻すぼみになり、最後は吐息に変わった。

 最近お母さんからのメールは途絶え、電話も通じなくなってしまった。お父さんが絡んだ途端、優しい天女様から冷血な雪女キャラに変身するお母さんは、可愛い娘のことなどすっかり忘れてしまったに違いない。いっそパスポートを処分してしまえば良かった。まあそんなことをしても、サクッと偽造されて焼け石に水だろうけど……。

 溜息を連発する私を見て、ジンが明るい口調で言った。

「あのさ、俺帰るの一日遅らせるよ。ゴールデンウィークの初日、一緒に遊ぼう?」

 ジンの優しさに、私の胸はキュンとなる。

 会長にドキドキしながらの手料理もいいけれど、親友のためというのも悪くない。

「分かった。楽しみにしてて!」

 自信満々に胸を張る私を見て、ジンは幸せそうに笑った。


 ◆


「あの、会長?」

「ん、このパイ包みシチュー美味いな。舌火傷したわ」

「〝熱気球シチュー〟です……って、それはどーでも良くて」

 私が冷たいウーロン茶のグラスを差し出すと、当たり前のように会長も手を伸ばす。指先が、一瞬重なる。それだけで苦しくなる呼吸をなんとか整え、私はクールに問いかけた。

「えっと、会長はゴールデンウィーク、実家に戻られるんですよね?」

「ああ、いいよ」

 脈絡の無い返答。すっかりシチューにムチューな会長は、私の話なんか聞いちゃくれない。

 そう思って肩を落とすと、会長はスプーンを放り出してニイッと笑んた。私が一番好きな、強気百パーセントの笑みで。

「バァカ。ちゃんと行間読め。真咲の浅知恵なんてお見通しだって」

「え……」

「お前ここに残るんだろ? だったら俺も付き合ってやるっつってんの」

「でも、会長のうちって厳しいんじゃ」

 余程不安そうな顔に見えたのだろうか。会長は「俺に何か命令できる奴がいると思うか?」と囁きながら腕を伸ばし、軽くデコピン。私は夢心地で額を擦る。

 どうしよう、嬉しい!

 一瞬舞い上がりかけたものの、慌ててウーロン茶を流し込みクールダウン。

 そうだ、喜んでる場合じゃない。

「まあ会長がそう言うなら、オレも付き合ってやってもいいですよ」

 偉そうな態度をそっくりお返しする。可愛くない憎まれ口も、ペットの甘噛みのような攻撃にしかならず、会長は笑みを深めるばかりだ。

 この一ヶ月、私は会長に関する様々な情報を集めた。最初は仕事だからと仕方なく……なのに気付けば、私自身がもっと会長を知りたくなっていた。近づき過ぎちゃダメだと分かっていたのに。

 会長が、外部生を使い捨てのペット扱いするなんて全部嘘だった。悪意のある誰かの流した噂に尾びれや背びれがついたものでしかない。

 本物の会長は、乱暴だったり我侭なように見えて、その実とても繊細で優しい。この学園について何も知らない私にいろんなことを教えてくれて、「何かあったらすぐ俺に言えよ」が口癖で。

 そんな風に守られて、好きにならない女の子がいる訳無い……。

 でもこれが恋ではなくて、ただの憧れならいいと本気で願ってしまう。なぜなら私の仕事は、会長に相応しい許嫁のための下ごしらえだから。

『会長には、超美人なお嬢様の婚約者がいるらしい』

 そんな噂をキャッチしたのは、初めての手料理を振る舞った翌日だった。そのとき私は、自分の直感の正しさを再確認すると共に……覚悟を決めた。

 私は腕利きの料理人。素の会長から過剰な灰汁フェロモンを抜いて、女性好みの柔らかくて舌触りの良い素材に変える。

 会長の魅力は、自分を偽らないこと。常に感情をオープンにしていることだ。

 自分の容姿に頓着しないぶっきらぼうさも、他人を見下すようなクールさも、不良っぽくも見える熱血さも、心を許すとすぐにスキンシップを取りたがる癖も、全てが女子にとっては魅力にしか映らない。

 だからちょっとずつ、私は会長を『逆調教』していくのだ。

 上手く行けば、来年の春には会長のキャラも変わっているはず。普通の女子に対しては、過度な期待をさせない程度にフェロモンを抑えさせる。

 いくら会長が格好良くても、『営業スマイル』を作っているとしたら大抵の女子はピンとくるものだ。それが女子との距離を作る見えない壁になる。

 百パーセントの笑顔は、特別なときだけでいい。

 大切なたった一人だけにこの笑顔を……。

「真咲、あのさ」

 ハッとして顔を上げる。いつの間にか空になったシチューボウル。いつもなら「お代わり」とか「デザート」なんてご主人様発言が出てくるのに、会長は意外な一言を告げた。

「ゴメンな」

「えっ……どうしたんですか、急に」

「真咲には相当世話になってるし、今回付き合うのはそのお詫び」

 会長は一度天井を見上げて言い淀んだ後、ふっと自嘲すると静かに語り出した。

「本当は俺、他人なんて信用できないと思ってた……いや、じーさんだけは別かな。あとは全員、嘘つきの裏切り者」

 嘘つき、裏切り者。

 その言葉が、鋭い刃となって胸を抉る。

「俺さ、昔からずっとじーさんには『強くなって弱い奴を守れ』って言われてきた。じーさんは、目の前に困ってる奴が現れたら必ず助けるんだよ。騙されても裏切られても。そうやってじーさんが捨て犬拾うみたいに連れてきたガキを、クソ忙しいじーさんが面倒見切れる訳が無いんだ。だからうちの学校に放り込んで、俺に守れって」

「それはさすがに、その……無茶な話ですね」

 そうやって拾われた一人である自分が言うのもナンだけど。

 と、皆まで言わずとも会長は分かってくれた。伸びかけた前髪を乱暴にかき上げて、再び言葉を紡ぐ。

「最初は俺も頑張ったんだ。小学生くらいの頃なんて、男なら誰しもヒーローに憧れる時期だろ? いっちょ前に正義感に燃えてさ。でも奴らの本音は違うってことが、だんだん分かってきた。奴らは弱いフリしてるだけなんだ。俺に媚びてるだけ。その中身は、金が欲しい、名誉が欲しい、あとは……俺自身が狙いだったとかさ。特に女は皆そう」

 私は黙って会長の話を聞く。ちゃぶ台の下に回した拳を、固く握りしめて。

 そんな人間ばっかりじゃない。そう言いたくて、言えなかった。

 自分には隠されたミッションがある。何より私は男のフリをして会長に近づいた……大嘘つきだ。

「真咲に初めて会った時、入学式の最中だってのに俺かなり失礼なこと言ったろ? 実を言うとあん時が一番荒んでたんだ。去年俺が『守ってた』奴がさ、当然男なんだけど……俺に入れ込んだんだ」

「えと、入れ込んだっていうのは、その」

 男子高には必ずあるという禁断の……という私の邪な妄想は、あながちハズレでもなさそうで。

 会長は、うっかりニンジンを口にしたときのように不味そうな表情を作る。

「ホント、訳分かんねーよな。当然俺はきっぱり突き放した。そしたら、そいつ逆恨みして今度は女の先生に妙なことしやがったんだ。特待生なだけあって頭は賢い奴だったんだよ。違法ドラッグみたいな薬を自分で作って先生らに飲ませて、『俺に言い寄られてる』なんて洗脳しやがって……気付いたときには手遅れだった。ソイツは完璧ストーカー状態だし、巻き込まれた先生らも皆オカシクなって、結局全員ここから追い出すしかなかった」

 私が思わず絶句すると、会長は長い人差し指を立てて唇に押し付けた。

「っと、これ一応オフレコな。辞めた先生らの名誉のために隠してんだ」

 私は小さく頷いてみせた。聞きわけの良いペットの態度に、会長は満足げに微笑む。

 会長が泥を被るのは、被害者である女性教師たちのため。その理屈は分かるけれど感情がついていかない。

 前の特待生や、噂を信じた生徒たちへの怒りで胸の奥がぐつぐつと沸騰する。

「だけど、それってヒド過ぎます。悪いのは全部その特待生じゃないですか。そいつのせいで会長が悪者にされたままだなんてッ」

「いや、俺も悪かったんだ。アイツの感情に気付けなかった」

 そう言われて、私は納得せざるを得なかった。

 元はと言えば会長にも問題があるのだ。男子をも惹きつけてしまうほどの圧倒的な魅力。特待生として親密な関係を築いたなら、性別の枠を越えて「もっと愛されたい」と思ってしまっても仕方が無い。その感情が強いほど、裏切られたときの反動は大きい。

「ギリギリまで、アイツのこと良い奴だと思ってたんだよ。だからこそショックでかかった。俺のために料理勉強したり、表向きは従順なフリして……裏では犯罪まがいのことやらかしてんだからな。もう他人なんて信じねぇと思った」

 淡々と語る会長の低い声が、湧き上がる怒りを溶かしていく。

 会長は人を信用して過ぎて裏切られた。だからこれは、会長が自力で乗り越えるべき試練なのだ。

 そして私の試練は……。

 キリキリと痛む胸を抑えて、私は会長の顔をジッと見つめた。

 なぜこんなにも会長に惹かれるのか、ようやく分かった気がした。表と裏、二つの顔を使い分けている嘘ばかりの自分にとって、会長はどこまでも真っ直ぐで、眩しくて。

 涙ぐんだ私に気付いたのか、会長が困ったように笑う。いつも通り私の髪を撫でてくれる、優しいご主人様の顔で。

「この件も含めて、過去のこと全部じーさんに打ち明けたんだ。もう俺に捨て犬押しつけるなって。いつもふざけたこと言うじーさんも、珍しく真面目な顔で『分かった、何とかする』なんて言ってくれた。だからやっと『ご主人様』から解放されると思ったんだよ。そしたらお前が特待生でやって来て……また裏切られたと思った。じーさんにまで裏切られたら、俺に信じられる人間は一人も居なくなっちまうって」

「会長、オレは」

 言いかけた俺の唇を閉ざすように、会長は首を横に振った。

「分かってる。じーさんがどうして俺に真咲を預けたかなんて……」


 そこから先、会長は私を褒めた。信頼できる唯一のペットだとからかい半分で告げ、すぐに『友達だ』と言い直してくれた。私の料理を好きだと言ってくれた。

 それらの言葉を全部、胸の奥の宝箱にしまった。

 会長が部屋を出て行った後、私は一ヶ月近く放りっぱなしだった携帯を手にした。

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