霊山に追いやられた王女は、四頭の竜を弟妹にして帰ってきた
「霊山の山賊が、王妹殿下に服従したそうです」
「……もう一度言え」
玉座に座るオルフレッドは、報告書から顔を上げた。
国境を預かる役人は、緊張した面持ちで同じ言葉を繰り返す。
「霊山に根を張っていた山賊団が、プリスラビリス様に服従いたしました」
「討伐隊は?」
「出しておりません」
「戦闘は?」
「確認されておりません」
「では、交渉したのか」
「それも、よく分からないのです」
役人は困り果てた顔で答えた。
「プリスラビリス様が、お一人で山へ入られました。その日の夕方には、山賊たちが武器を捨てていたそうです」
「なぜだ」
「分かりません」
「……分からないことばかりではないか」
「申し訳ございません」
報告書には、さらに信じがたい内容が続いていた。
山賊たちは略奪をやめ、霊山へ向かう道を整備し、迷い込んだ旅人を保護している。
しかも今では、プリスラビリスの命令がなければ山を下りようともしないらしい。
その令嬢の名を、オルフレッドはもう一度見た。
プリスラビリス。
腹違いの妹だった。
母親の身分が低かったため、幼い頃に王都を追われ、霊山の麓の領主に育てられた娘だ。
最後に会った頃のプリスは、小さくて、泣き虫で、いつも兄の袖を握っていた。
庭で転んでは泣き。
雷が鳴っては泣き。
オルフレッドの姿が見えなくなっても泣いた。
その妹が、山賊を従えた。
どう考えても、記憶の中の少女と重ならない。
「陛下」
役人がおそるおそる続ける。
「もう一つ、報告がございます」
「まだあるのか」
「プリスラビリス様の周囲で、複数の竜が目撃されております」
オルフレッドは黙った。
「数は」
「四頭です」
「幼竜か」
「上位竜と思われます」
オルフレッドは、ゆっくりと報告書を机に置いた。
「宰相」
「はい」
「妹を王都へ呼び戻す」
「よろしいので?」
「放置できると思うか?」
山賊だけでも十分に問題である。
そこへ上位竜四頭まで加わった。
もはや妹の里帰りではない。王国の安全保障に関わる大事件だった。
オルフレッドは、妹を迎える使者を派遣した。
ただし彼は、このとき一つだけ見誤っていた。
上位竜四頭を伴う妹を王都へ呼ぶということが、具体的にどのような光景を生むのか。
まったく想像できていなかったのである。
プリスラビリスが王都へ到着した日。
王都正門前は、異様な静けさに包まれていた。
兵士も。
役人も。
出迎えに集まった貴族たちも。
そして、大通りを埋め尽くす市民たちも。
誰一人として、声を上げようとしない。
全員が、空を見上げていた。
雲一つない青空を、四つの巨大な影がゆっくりと横切っている。
白銀の鱗を輝かせる聖竜。
炎をまとった紅蓮の火竜。
海のような翼を広げる深蒼の竜。
岩山を思わせる重厚な地竜。
四頭の上位竜が、王都上空を旋回していた。
「……本当に来たな」
オルフレッドは、引きつった声で呟いた。
「はい」
隣に立つ宰相も、顔色を失っている。
「それも、全員で」
「はい」
「王都の防衛結界は」
「竜たちが本気になれば、三呼吸ほどかと」
「何がだ」
「結界が消滅するまでの時間です」
「それほどの力なのか」
やがて、一台の馬車が正門前で止まった。
扉が開く。
淡い銀色の髪をした令嬢が、静かに地面へ降り立った。
穏やかな顔立ち。
上品な立ち居振る舞い。
その姿だけを見れば、どこにでもいる美しい貴族令嬢に見える。
もっとも、その頭上には四頭の竜がいる。
「あの方が、霊山の令嬢か」
「陛下の妹君らしい」
「山賊を服従させたという……」
「本当に、あの方が?」
「あまりにも穏やかそうだ」
「だからこそ恐ろしいのではないか?」
貴族たちの囁きが聞こえた。
しかし、プリスラビリスは気づいていない。
彼女の瞳は、ただ一人を見つめていた。
正門前に立つ青年。
記憶の中より大人びている。
王冠を戴き、立派な衣装をまとっている。
それでも、見間違えるはずがなかった。
「お兄さま!」
プリスラビリスの顔が、ぱっと輝いた。
優雅さも威厳も忘れ、裾を持ち上げて駆け出す。
「プリス」
オルフレッドが呼びかけた直後、妹はその胸へ飛び込んだ。
「お会いしとうございました!」
「……元気そうだな」
「はい!」
オルフレッドは、妹をしっかりと受け止めた。
背は伸びた。
声も大人びた。
けれど、抱きついてくる力だけは、幼い頃と変わらない。
戻ってきた。
その実感だけで、胸の奥にあった硬いものが解けていく。
「お兄さまも、お元気そうで安心いたしました」
「俺もだ」
素直な言葉が出た。
「生きていてくれて、よかった」
プリスラビリスの瞳が、わずかに潤む。
「はい。ただいま戻りました、お兄さま」
「ああ。おかえり、プリス」
兄妹の再会を前に、周囲も少しだけ緊張を緩めた。
直後。
白銀の竜が王都の上を低く旋回した。
巨大な翼が風を巻き起こし、貴族たちの帽子が一斉に飛ぶ。
緩んだ緊張が、瞬時に元へ戻った。
「それで、プリス」
オルフレッドは妹の肩に手を置き、できるだけ穏やかに尋ねた。
「どうして、四頭とも付いてきた?」
「皆さま、わたくしを心配してくださったのです」
「一頭だけにして、残りは留守番させるという選択肢はなかったのか」
「家族を置いていくなんて、かわいそうですわ」
「家族?」
その言葉に反応するように、声が直接脳裏へ響いた。
『姉上を送るのは当然』
白銀の聖竜アル。
『途中で敵が出たら焼く』
紅蓮の火竜ジル。
『姉上を一人にする方が危険』
深蒼の海竜サナ。
『家族は一緒』
地竜ミル。
一切の迷いがない。
四頭とも、本気だった。
「待て」
オルフレッドは額を押さえた。
「今、家族と言ったか?」
「はい」
プリスラビリスが当然のように頷く。
「わたくしの大切な弟妹ですわ」
『いかにも』
『姉上』
『家族』
『姉ちゃん大好き』
「なるほど」
宰相が遠い目をした。
「竜を従えたのではなく、弟妹にしてしまわれたと」
「そう易々と納得するな」
オルフレッドは空を見上げた。
上位竜が四頭。
そのすべてが、妹を姉と呼んでいる。
報告書より悪化している気がした。
「ひとまず、竜たちには王城の外苑で待機してもらいたい」
『外?』
『姉上の家なのに?』
『家族を入れないつもり?』
『遠い』
竜たちの声に、不満が滲む。
「王城には、王城の事情というものがある」
『姉上が見えない』
『危険』
『誘拐されるかも』
「誰が兄の居城で妹を誘拐するのだ」
『悪い人?』
「曖昧過ぎる」
四頭の竜と国王の話し合いは、早くも暗礁に乗り上げた。
重臣たちは口を挟めない。
騎士たちは空を警戒したまま固まっている。
市民たちは、何かすごい話し合いが行われているらしいと、息を潜めて見守っていた。
「まあまあ」
プリスラビリスが、そっと兄の袖をつまんだ。
幼い頃と同じ仕草だった。
「お兄さまも、皆さまも、お困りですわね」
「分かってくれるか、プリス」
「はい。わたくしからお話ししてみます」
オルフレッドは、救いを見つけたように妹を見た。
プリスラビリスは四頭の竜を見上げ、にこりと微笑む。
「皆さま」
『姉上』
「王城には、人間の決まりがございますの」
『決まり』
「ですから、これからは親戚付き合いということにいたしましょう」
王都正門前の空気が止まった。
「……親戚?」
オルフレッドが呟く。
『親戚』
『なるほど』
『人間の家族制度』
『理解』
竜たちの反応は早かった。
『親戚なら節度が必要』
『訪問前には挨拶』
『贈り物も必要』
『姉ちゃんの兄も家族』
「待て、待て待て」
オルフレッドは慌てて口を挟んだ。
「話がそれているように思うのだが?」
「義理とはいえ、弟妹ですもの」
プリスラビリスは、穏やかに微笑む。
「親戚として仲良くするのが一番ですわ」
妹に悪気はない。
まったくない。
だからこそ、止めにくい。
オルフレッドは空を見た。
四頭の竜は、期待に満ちた目でこちらを見ている。
妹を見る。
うれしそうに、自分の袖を握っている。
重臣たちを見る。
全員が、国王の判断に王国の未来が懸かっているという顔をしている。
オルフレッドは、深く息を吸った。
母に詫びた。
父に詫びた。
歴代の王たちにも、心の中で詫びた。
「分かった」
宰相の肩が跳ねた。
「本日より、霊山の四竜は王家の親戚に準ずるものとして扱う」
沈黙。
騎士団長が膝から崩れ落ちた。
文官の一人は天を仰いだ。
宰相は「外交文書をどう書けばよいのだ」と呟きながら、頭を抱えた。
『歓迎された』
『よい国』
『兄上』
『親戚』
「兄上と呼ぶのは待て!」
オルフレッドの叫びが、王都正門前に響き渡った。
その日の午後。
王城の謁見の間には、王国の重臣たちが勢ぞろいしていた。
議題は一つ。
プリスラビリスと四頭の竜についてである。
「確認させてくれ」
玉座に座るオルフレッドは、すでに疲れ切っていた。
「お前は、竜を従えているわけではない」
「はい」
「竜たちは、お前の弟妹である」
「はい」
「王家とは親戚になった」
「そのように決まりましたわね」
「俺が決めたのだが、まだ現実として受け止めきれていない」
オルフレッドはこめかみを押さえた。
「どうすれば、上位竜四頭を弟妹にできるのだ」
「特別なことは、何もしておりませんわ」
「その言葉を鵜吞みにするわけにはいかぬ」
プリスラビリスは少し考え、静かに語り始めた。
「王都から霊山の里へ移った最初の年は、とても静かでした」
周囲に民家はない。
訪ねてくる者も、ほとんどいない。
夜になれば、聞こえるのは霊山を吹き抜ける風の音だけ。
「少し寂しかったのですけれど、一年目の冬の朝、目を覚ましましたら」
プリスラビリスは、懐かしむように目を細めた。
「寝台の中に、大きな卵がございましたの」
「なぜ寝台の中にある」
「分かりません」
「警戒しなかったのか」
「とても冷えておりましたから」
「質問の答えになっていない」
「毛布を掛けて、一緒に眠りました」
宰相が机に額をつけた。
「翌朝、卵が割れて、小さな白銀の竜が生まれました」
『アル』
謁見の間の外から、得意げな声が届く。
王城内への進入は禁止した。
ただし窓から顔が見える距離でなければ嫌だと主張されたため、現在は中庭で待機している。
「それが聖竜アルか」
「はい。長兄ですわ」
『長兄』
「次の年には紅い卵が現れて、ジルが生まれました」
『次兄』
「その次の年は、蒼い卵からサナが」
『長姉』
「さらに翌年には、茶色の卵からミルが生まれました」
『末弟』
「待て」
オルフレッドが片手を上げる。
「なぜ毎年、お前の寝台へ竜の卵が現れる」
「さあ?」
「誰も調べなかったのか」
「皆さま、かわいらしかったので」
「かわいらしいという理由で、竜の卵を受け入れたのか」
「家族の誕生に、理由は必要でしょうか」
オルフレッドは黙った。
正論のようで、何かが違う。
「生まれた竜たちは、どう育てた」
「普通ですわ」
「普通とは」
「泣いたら抱いて、眠れないときは本を読んで、喧嘩をしたら仲直りさせました」
「食事は」
「たくさん食べてくれましたわ」
「火を吐いたときは」
「叱りました」
『怖かった』
『姉上は怒ると静かになる』
『二度と室内では吐かない』
『約束』
重臣たちがざわめいた。
上位竜を叱って言うことを聞かせた人間など、伝承の中にも存在しない。
「なるほど」
宰相が顔を上げた。
「つまり、殿下は四竜にとって、育ての親でもあるのですな」
「姉ですわ」
プリスラビリスは、そこだけは譲らなかった。
「では、山賊はどうした」
オルフレッドが尋ねる。
「報告では、お前が山へ入っただけで服従したことになっている」
「あの方々は、服従などしておりません」
「お前は、何でも家族にするのか?」
「山賊の皆さまは家族ではありませんわ」
オルフレッドは、少しだけ安心した。
「ご近所の方々です」
「同じような論理だ!」
プリスラビリスによれば、山賊たちは戦で故郷を失った元兵士たちだったという。
食べるものもなく、行く場所もなく、やむを得ず略奪に手を染めた。
プリスラビリスは彼らの根城を訪ね、まず怪我人を治療した。
次に温かい食事を用意した。
それから、こう頼んだ。
霊山に弟妹達を住まわせる。
そして、弟妹達と共に山を守ってほしい。
「皆さま、快く引き受けてくださいました」
「それを世間では、山賊団を配下にしたと言うのではないか」
「お給金はお支払いしておりますわ」
「雇用している!」
山賊たちは現在、霊山の巡回と街道の警備を担当している。
指導者として、元騎士だった者を隊長に据え、農地まで与えたらしい。
もはや山賊団ではない。
立派な警備隊だった。
「お前は、霊山で何をしたのだ」
「皆さまが、穏やかに暮らせるお手伝いを少々」
「穏やかという言葉の意味、俺とお前では違うようだな」
オルフレッドは、深く椅子へ沈み込んだ。
山賊を武力で従えたわけではない。
竜を魔法で支配したわけでもない。
プリスラビリスは、ただ手を差し伸べただけだった。
寒そうな卵を抱いた。
腹を空かせた者に食事を与えた。
居場所を失った者に、役目を与えた。
気づけば、誰も彼女のそばを離れなくなっていた。
幼い頃と同じだ。
プリスラビリスは泣き虫で、兄の袖を離さなかった。
けれど本当は、逆だったのかもしれない。
彼女が相手を離さないから。
大切にし続けるから。
一度その手を取った者は、彼女のもとを離れられなくなる。
「……そうか」
オルフレッドは、小さく息を吐いた。
「ようやく分かった」
「何がでしょう」
「お前は山賊も竜も、従えたのではない」
「はい」
「居場所を与えたのだな」
プリスラビリスは、少しだけ考えた。
「わたくしも、皆さまから居場所をいただきました」
穏やかな答えだった。
幼い妹を王都から遠ざけたのは、王家である。
母親の身分を理由に、孤独な離宮へ送り出した。
けれど妹は、そこで恨みを育てなかった。
代わりに、家族を増やした。
その事実が、オルフレッドの胸へ静かに刺さった。
「プリス」
「はい」
「寂しい思いをさせた」
プリスラビリスは目を瞬いた。
「すまなかった」
「お兄さまが謝ることではございません」
「それでもだ」
王ではなく、兄として謝りたかった。
「俺は、お前が無事に育ってくれればいいと思っていた」
オルフレッドは苦笑する。
「まさか、竜四頭と山賊団を家族同然にして帰ってくるとは思わなかったが」
「皆さま、とてもよい方々ですわ」
「知っている。今日一日で、嫌というほど分かった」
中庭から、四頭の竜の声が響く。
『姉上を守る』
『王都も守る』
『兄上も守る』
『世界ごと守る』
「世界ごとは守らなくてよろしいですわ!」
プリスラビリスが慌てて窓へ向かう。
『なぜ?』
「壊れてしまいますでしょう!」
『加減する』
「そういう問題ではありません!」
竜を相手に、一生懸命言い聞かせている。
その姿を見て、オルフレッドは思わず笑った。
泣き虫だった妹は、確かに変わった。
けれど、何も変わっていない。
優しくて。
少し危なっかしくて。
大切な者を、決して見捨てない。
あの頃の妹のままだった。
「プリス」
呼びかけると、妹が振り返る。
「改めて言おう」
オルフレッドは玉座から立ち上がった。
「王都へようこそ、プリスラビリス」
王としてではない。
ただの兄として、手を差し出す。
「おかえり」
プリスラビリスは、心からうれしそうに笑った。
「ただいま、お兄さま」
そして、差し出された手を取った。
この日、王国の外交史に一つの奇妙な条文が加えられた。
霊山に住まう四頭の上位竜は、王家の親戚に準ずる。
敵でもない。
兵器でもない。
ましてや、王妹プリスラビリスの従属物でもない。
彼らは、彼女の弟妹である。
この報せは、瞬く間に大陸全土へ広がった。
周辺諸国は震え上がり。
外交官たちは頭を抱え。
古代竜の研究者たちは、王国へ押しかけた。
彼らは皆、同じ質問をした。
なぜ、人間の令嬢と上位竜が親戚なのか、と。
そのたびに、国王オルフレッドは額を押さえ、こう答えたという。
「詳しい説明は、勘弁してくれ。胃が痛くなる」
一方、その原因となったプリスラビリスは。
今日も王城の庭で、弟妹たちに本を読み聞かせていた。
何一つ特別なことはしていないという顔で。
また一つ、この国を穏やかに変えながら。




