第十二話 燻り
サーラは自分の〝雇用契約書〟をデスクの上で眺めていた。難しい言葉ばかりで、殆ど理解出来ない。アレクシアが内容を伝えてきたものの。
(でもそれが本当だって、あたしには分からないじゃない!)
アレクシアがゲルトの言うとおり、ひどく性悪で人を騙すことを厭わない悪女だとしたら、ここには彼女が言っていたことと反対のことが書かれているかもしれない。もしそうだとしたら、サーラは奴隷同然の待遇でここで働くことになる。
(こんなの、信じれるわけないよ)
アレクシアは、サーラ自身が納得してここに名前を書かなければ、契約は成立しないという。世の中の約束は、そういう仕組みで出来ているという。これも聞いたことがない。
サーラにとっての約束は、いつも一方的だった。飯を食わせてやるかわりに家のことをしろ、家の中で誰よりもはやく起きて水を汲み、飯を作り、洗濯と縫い物をしろ。飯は一日一回。野菜と肉の一かけ、パンがあれば充分だ。オレに逆らうな、黙ってやるべきことをやれ、連れてきた男たちをもてなせ、オレよりはやく寝るな――。
ゲルトの要求に従うことで、サーラは暮らしてきた。彼の言うとおりにしても、彼の機嫌が悪い日は殴られ、飯を抜かれた。それでも――ゲルトがいないと、生きていけない。
こんな紙に書いてあることなんて、アレクシアが言ったことなんて、信用出来ない。だって自分の目で見てないものは、確かめようがないから。
(きっとあの女は、あたしがこれを、一生掛かっても読めないものだって思ってるわ!)
あの微笑みの裏側で、あたしを嗤ってるに違いない。どうせあたしは馬鹿で、なんにもしらない女だから。
――悔しい。
それは、サーラが今まで持ち得なかった感情だった。木炭の中でくすぶる火のごとき熱が腹の中で渦巻いた。悔しい。
「…………」
契約書をまじまじと眺める。フン、と鼻を鳴らし、サーラはそれを拾い上げてデスクの引き出しに仕舞った。あいつがお望みなら、やってやるわ! いつかこれを読み上げて、言ってることが違うじゃないですか、このあばずれ! って突きつけてやるわ!
サーラは決意した。この古びた屋敷でゲルトが言うとおり、あの女が破滅に向かうようにしてやる。そのためには何だって利用してやる!
◆
「何か……彼女をけしかけましたか?」
「? いいえ?」
午後、書斎で仕事をしていたアレクシアに、デルマは訊いた。アレクシアはきょとんとした顔で否定したのだが、デルマは軽く片眉を上げるばかりだ。
「確認だけど、サーラのことよね?」
「はい。彼女がここにやってきて一週間と少し経ちますが、ここ数日は私が言わなくても仕事をきちんとこなしています。それに、読み書きを勉強しているようで」
「ええ、それは私が言ったの。契約書を理解して名前を書いてもらいたいからって……さいわい、ここには色んな本があるわ。生活出来る必要最低限は学べると思う。いつかは村に学舎を建てたいけど……そんなのまだ全然先の話ね」
なるほど、と腑に落ちたのかデルマが頷き、サーラの姿を思い出す。朝に仕事をこなし、昼に教本と紙を睨み付けては慣れない手つきでペンを動かしている。その姿には確かな熱意があった。あれならすぐに最低限の読み書きと計算は出来るようになるだろう。覚えは早い娘だ。
「それで、村の様子は?」
「作物の植え付けが始まりました。あなたが指示されたとおりの方法を伝えました。一部の者は命令ということで従ってはくれますが、問題はゲルトという男……あなたを罵った男です。彼が村の男たちを取り仕切っているようで、彼に近しい者からは明確な反発が」
「……仕方ないことね。それに、別の土地で成功したやり方がここで正しいとは限らない……デルマ、彼らの今までのやり方も許可しましょう。指示した方法は一部の場所だけでいいと、彼らに通達を」
「承知しました」
「……どちらにせよ水よ……水源には絶対に行かなきゃ……」
ぶつぶつと独りごちながらアレクシアが持っていた書物に視線を落とす。それは今朝方、屋敷の中で見つけたもので、日記だった。書き手はここに仕えていたメードのものらしい。
「危険が伴います」
「それは分かってるわ。でもここに書いてるの……『マリオン様が山へと登り、デュラン家として泉の儀式を執り行った』って……マリオン・デュラン様……ここの当主だった方かしら、とにかく、この村はあの岩の先にある泉で祭事をしていたのは確かよ」
「それが水の安定化に繋がっていたと?」
「それは分からない。昔からの儀式が形骸化したものである可能性はあるわ。でも調べてみる価値はある」
アレクシアの手元の紙には、井戸に刻まれた紋章に似た落書きが書かれていた。それを睨み付け、アレクシアは暫く考え込む。
「……これは封印しているものなのか、それとも力を増幅させているのか……あまり調べられなかったけど、井戸にあったこれは確かに作動していた……何に対して?」
「アレクシア様」
「なぁに、デルマ」
「サーラの件ですが、警戒だけは怠らないでいただきたい」
「…………」
「彼女はまだ、あちら側です。……恐怖というものは正しさよりも強い。それを無くすのは、容易ではありません。あなたはそれを知っているでしょう?」
「……ええ、でもその恐怖を乗り越えた先に得るものは必ずあるわ。私はそれを信じてる」
デルマは小さく頷いた。これ以上は野暮だと考えたのだろう。
ドンドンドン、とノック音が部屋の中に響く。
「あの、アレクシア様!」
サーラの声だ。何か焦っている。
「どうしたの、サーラ?」
「お客様です、……王都から来たとか」
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