第六話 御膳所の密談と、お市の涙と、城に広がる病
第六話
御膳所の密談と、お市の涙と、城に広がる病——“静かな戦”の始まり
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◆ 天満から戻ったやよい
夕暮れの道を急ぎながら、やよいの胸はざわついていた。
(宗兵衛さん……ほんまに動いてくれるんやろか)
城門で門番に言われた言葉が刺さる。
「今の城は、“誰がどこへ行ったか”で疑われる」
(外も怖いけど……城の中も怖い)
御膳所に戻ると、皆が火床の前に集まっていた。
「やよい、戻ったか」
「宗兵衛さんが……“動く”って」
一瞬だけ空気が明るくなる。
だが宗右衛門は表情を緩めなかった。
「問題は、“どう運ぶか”や」
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◆ 御膳所の密談——“道じゃない道”
宗右衛門は土間に線を描く。
「北、西、南……兵糧の道は全部塞がれとる」
「じゃあ、どうするんですか?」
宗右衛門はにやりと笑った。
「道が塞がれとるなら、“道じゃないところ”を使うんや」
「道じゃない……?」
「川や」
大坂は水の都。
天満川は徳川の見張りが薄い。
「夜の小舟で荷を運ぶ。城の裏手の“水門”へや」
やよいは天満で感じた違和感を思い出す。
「商人さんら……声は大きいのに、目が笑ってへんかった」
「せや。商人は声で商売するが、目は嘘つかん。
天満はもう限界や。せやからこそ“川”や」
宗右衛門は段取りを描く。
「天満の倉庫→小舟→夜の川→城の水門」
そしてやよいに向き直る。
「やよい。“匂い”で荷を確かめろ。
天満の倉庫で嗅いだ匂いを忘れるな」
干し魚、昆布、少し焦げた匂い——
御膳所の味の記憶。
「匂いが違ったら“罠”や」
やよいは拳を握った。
「はい」
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◆ お市の涙——“強い女”の正体
夜の御膳所は静かで張り詰めていた。
お市はいつも通り働いていたが、やよいにはわかった。
(お市さん……背中が寂しそう)
「大丈夫ですか?」
お市は笑おうとしたが、声が震えた。
「……怖いんや」
「怖い……?」
「川の運びが失敗したら、堺屋さんも、御膳所も、城も終わりや」
やよいが息を呑むと、お市の目から涙が落ちた。
「わたしな……強いふりしてるだけなんや。
ほんまは震えてる」
やよいは胸が痛くなる。
お市は涙を拭わずに言った。
「“強い女”ってな、泣かへん女やない。
泣きながらでも立つ女のことや」
その言葉は、やよいの胸に深く刺さった。
「怖いからこそ、人は強くなるんや」
やよいは涙をこらえながら頷いた。
「わたし……明日も御膳所に立ちます」
「それでええ。それが御膳所の女の覚悟や」
二人の影が、火の芯の前で長く伸びていた。
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◆ 咳の音が増えていく
翌朝、廊下に咳が響く。
「ごほっ……ごほっ……!」
(昨日より多い……)
御膳所でも皆が顔を曇らせていた。
「なんか、城の中……咳してる人多ない?」
「冬の疲れか……?」
「いや、なんか違う」
宗右衛門は火床の前で腕を組んだ。
「……嫌な予感がする」
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◆ 玄朔、御膳所に現れる
戸が勢いよく開く。
「宗右衛門!」
玄朔は息が荒く、顔色も悪い。
「病が出た」
御膳所が凍りつく。
「咳と熱。食べ物が喉を通らん。
兵だけやない。女中も下働きも倒れ始めてる」
(……さっきの咳)
「原因は……?」
「食べ物が足らんのが一番や」
やよいの胸が痛んだ。
(食べ物がないと……病になるんや)
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◆ やよい、玄朔の往診に同行する
「御膳所から一人、往診に付いてきてほしい。
やよいを」
「えっ……!」
「やよいの鼻は、病の匂いを嗅ぎ分けられる」
宗右衛門は静かに言った。
「行け。おまえの鼻は御膳所の“目”や」
やよいは拳を握った。
「行きます」
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◆ 病の部屋の“匂い”
部屋を開けた瞬間、熱気と汗と血の匂いが押し寄せた。
(……これが……病の匂い)
兵たちは赤い顔で息を荒くし、汗に濡れていた。
玄朔は言う。
「やよい。この匂い、覚えとけ」
汗、熱、弱った体の匂い。
そして——ほんの少しの“腐りかけた匂い”。
(これ……食べ物が足らんときの匂いや)
「わかったようやな」
「はい。“弱ってる匂い”です」
玄朔は頷いた。
「病は弱ったところに入り込む」
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◆ 病と食の関係
玄朔は薬草を渡し、言った。
「薬だけでは治らん。“食”がいる」
やよいの胸が熱くなる。
「御膳所に伝えろ。
病の者には“温かい汁”や。薄くてもええ。
生姜を少し入れろ」
「はい!」
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◆ 老いたやよいの一行
——あの夜、御膳所は料理人ではなく“戦う者”になった。
川の運びも、病の治療も、刀を持たない戦であった。
そしてわたくしは知った。
食は命を支え、医は命をつなぐ。
その二つは一本の道であると。
あの夜の火の匂いと、病の匂いを、
わたくしは今も忘れない。




