第四話 春の和議と、片桐が去る日
第四話
春の和議と、片桐が去る日——御膳所に吹き始めた“夏の風”
◆ 雪が溶ける音の朝
冬の陣が終わったと噂が流れたのは、
雪が溶ける音が聞こえるような静かな朝だった。
どん……どん……
遠くの鉄砲の音が、その日は一度も響かない。
「今日は音がせえへんな」
与兵衛の呟きに、お梅がほっと息をつく。
だが宗右衛門だけは、火を見つめたまま眉間に皺を寄せていた。
(終わったんかな……終わってほしい……でも胸がざわつく)
やよいの胸の奥も、静けさに逆に落ち着かなかった。
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◆ 和議の知らせ
昼前、御広敷の若い衆が駆け込んだ。
「和議や! 和議が結ばれたで!」
小台所は一気に明るくなる。
やよいも胸が軽くなったが、宗右衛門だけは言った。
「終わったんは“冬の陣”だけや。戦そのものは終わっとらん」
その声は、火の音より重かった。
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◆ 和議の膳を作れ
翌日、命が下る。
「殿下より、和議の膳を整えよ」
「祝う膳……?」
「表向きはな。徳川に“弱っとらんで”と見せる膳や」
しかし食材は乏しい。
鯛も鴨もない。野菜も細い。
「どうするんですか?」
「香りや」
昆布と干し椎茸の出汁。
それだけで“豊臣の味”を立たせるのだと宗右衛門は言う。
(味を守るんが、御膳所の仕事なんや)
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◆ 和議の膳、完成
豪華ではない。
だが香りは豊かで、器は美しく、味は深かった。
「やよい、ええ仕事したな」
やよいは胸が温かくなる。
しかし——
膳を運んだお市が戻ると、空気が変わった。
「殿下は“よい香りだ”と……けれど徳川の使者は“量が少ない”と」
御膳所に冷たい風が吹く。
(弱ってると思われた……?)
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◆ 春の桜と、母の影
その夜、裏庭で母と再会したやよいは、
張りつめていた心がほどけて泣いた。
(わたし……ずっと怖かったんや)
春は来ても、心はまだ冬のままだった。
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◆ 和議の翌朝、城の空気が“軽く”なる
翌朝、城はざわついていた。
軽い——だがそれは“ひび割れた軽さ”だった。
「片桐且元様が……城を出はる!」
御膳所に衝撃が走る。
片桐且元。
和議をまとめた豊臣の柱のひとつ。
「和議を結んだことで、裏切り者扱いや」
宗右衛門の言葉に、やよいは胸がざわついた。
(正しい人が……出ていく?)
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◆ 片桐且元、御膳所へ
片桐は痩せていたが、目は深かった。
「ここは戦の間、城の心臓であった」
やよいの前に立ち、静かに言う。
「“生姜の汁”を作ったのはおまえか。
兵たちが言うておった。あれで一刻立てたとな」
やよいは胸が熱くなる。
「おまえの舌は、人の命を救う舌や。
いつか、もっと多くの命を救え」
その言葉は、やよいの胸に深く刻まれた。
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◆ 片桐、退城
「わしがここにおれば、豊臣は割れる」
片桐は背を向け、静かに去った。
その背中は、戦場へ向かう武士のようにまっすぐだった。
(戦が終わっても、人は傷つくんや)
御膳所の者たちは、見えなくなるまで頭を下げ続けた。
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◆ 味見所の“穴埋め”
片桐が去った翌日、命が届く。
「味見所の役目、しばらく御膳所で兼ねよ」
毒見——命に関わる仕事。
「毒見は“死ぬための仕事”やない。
“死なんように見抜く仕事”や」
宗右衛門はやよいに言う。
「おまえの鼻は利く。匂いを見ろ。
おまえの鼻は、御膳所の“目”になる」
やよいは拳を握った。
「はい」
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◆ 毒見の初日
湯気の立つ膳。
やよいは匂いを嗅ぐ。
(……変な匂いはしない)
宗右衛門、お澄、お市が口に運ぶ。
沈黙のあと——
「問題なし」
やよいは胸をなでおろした。
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◆ 城に広がる“疑い”
外では噂が渦巻く。
「片桐様の屋敷、徳川に囲まれたらしい!」
「淀殿が激怒してはる!」
「大野治長様が動き出した!」
(なんで……こんなに疑い合うんやろ)
宗右衛門が呟く。
「風が吹き始めたな。夏の陣の風や」
やよいは火の揺らぎを見つめた。
(また……戦が来るんやろか)
胸の奥で、小さな火が揺れた。
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◆ 老いたやよいの一行
——あの春の和議は“終わり”ではなく“始まり”であった。
片桐様が去った日から、城の空気は確実に変わり、
わたくしは初めて知ったのだ。
戦は終わっても、争いは終わらないと。




