第二話 救えぬ手、残る手
第二話 救えぬ手、残る手
——これは、わたくし曲直瀬やよいが、
はじめて「救えぬ命」と「それでも残る手」の意味を知った日の記である。
慶長十九年冬。
大坂冬の陣の音は、
もはや遠くではなかった。
どん、どん——
鉄砲の響きが、城の腹にまで沁み込んでくる。
御膳所は、いつも通り火を起こし、水を運び、
飯を炊き、汁を煮ていた。
だが、その“いつも通り”の中に、
血の匂いが混じるようになっていた。
「今日も来るで」
宗右衛門のその一言で、
誰もが、何を意味するか理解していた。
——負傷者。
それが、この場所の日常になっていた。
昼過ぎ。
御膳所の戸が乱暴に開く。
「道開けろ!」
血の匂いが、一気に流れ込む。
やよいは、桶を掴んだ。
足がすくみかける。
(怖い……けど、止まったらあかん)
井戸へ走る。
水を汲む。
冷たさが指を刺す。
戻ると、すでに二人の兵が横たえられていた。
一人は、荒く息をしている。
もう一人は——
静かだった。
「やよい」
宗右衛門の声は低い。
「その水、こっちや」
指されたのは、息のある兵。
「……あっちの人は?」
思わず出た言葉。
宗右衛門は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「間に合う方からや」
やよいの胸が、きしんだ。
(間に合う……方……)
ならば、もう一人は——
見てはいけない気がした。
だが、目は逸らせなかった。
唇の色が、土のように鈍い。
胸の動きが、ほとんどない。
(あの人は……)
「やよい!」
お澄の声が、強く落ちる。
「今、助かる命が目の前にある!」
その言葉に、
やよいの体が動いた。
桶を傾ける。
ぬる湯をつくる。
傷口へ流す。
「ぬるい! もう少し温いの!」
「はい!」
火にかけ、指で確かめる。
(これや……これくらい)
また戻る。
布を渡す。
血を流す。
手は震えている。
だが、止めない。
止めたら、
目の前の命が消える気がした。
やがて、
曲直瀬玄朔が現れた。
まず、息のある兵のもとへ。
傷を見る。
押さえる。
迷いなく処置する。
「……まだいける」
その一言で、
場の空気が動いた。
生きる方へ。
そして——
もう一人の兵のもとへ。
やよいは、息を止めた。
玄朔は、脈を取り、
まぶたを開き、
ほんのわずか、間を置いた。
「……遅かったな」
それだけだった。
叫びも、怒りもない。
ただ、静かな終わり。
布がかけられる。
それで——終わりだった。
(こんな……あっけなく……)
やよいの中で、何かが崩れた。
その夜。
火は落とされ、
御膳所は静かだった。
やよいは、水桶の前に座り込んでいた。
手が動かない。
「……なんで」
声が、勝手にこぼれる。
「なんで、助けてもらえへんかったんやろ」
足音。
宗右衛門が、隣に立った。
「助けへんかったんやない」
低い声。
「助けられへんかったんや」
やよいは顔を上げる。
「同じ人やのに……
こっちは助かって、あっちはあかんなんて……」
宗右衛門は、少しだけ間を置いた。
「台所でもな、同じことがある」
「……え?」
「焦げたもんは戻らん。
腐ったもんは食えん。
どれだけ腕があっても、
“戻らんもん”はある」
やよいは、唇を噛んだ。
「医も、同じや」
静かな言葉だった。
逃げ場のない言葉だった。
「じゃあ……」
やよいの声が震える。
「どうしたらええんですか」
宗右衛門は、火の残りを見つめた。
「簡単や」
そして、やよいを見た。
「間に合う方を、絶対に落とすな」
その言葉は、刃のように鋭く、
けれど、どこか温かかった。
やよいは、両手を見た。
震えている。
小さい。
何もできない気がする。
けれど——
さっき、この手で、
ひとつの命を繋いだ。
(あの人は救えへんかった)
(でも……もう一人は、生きとる)
その事実が、
胸の奥で、ゆっくりと形になる。
そのとき、ふと気配を感じた。
振り向くと、
玄朔が立っていた。
「考えとる顔やな」
やよいは、思わず立ち上がる。
「……先生。
わたし、どうしたらええんか……」
玄朔は、少しだけ笑った。
「ええ顔しとる」
「え……?」
「迷う顔や。
その迷いを捨てたら、
人は、人を救えんようになる」
やよいは、息を呑んだ。
玄朔は続ける。
「救えん命は、必ず出る。
それでもな——」
一歩、やよいに近づく。
「救える命まで、手放すな」
その言葉は、
宗右衛門の言葉と、まっすぐに繋がった。
(間に合う方を、落とさない)
(救える命を、手放さない)
やよいの中で、
何かが、静かに定まった。
夜の御膳所。
火は小さく、
水は冷たい。
だが、その中で——
やよいの手だけが、
ほんの少しだけ、温かかった。
——あの冬の日。
わたくしは、はじめて知った。
人は、すべてを救うことはできない。
けれど——
それでも手を動かし続ける者だけが、
ひとつの命を繋ぐことができるのだと。
そしてその日から、
わたくしの手は——
「救えなかった手」ではなく、
「次を救うための手」として、
静かに残り続けることになったのである。




