70 敵ではないと
黒髪の少女がぶつぶつ呟くように唱えると、私たちの周囲に白い靄が立ち込めた。その靄の中から飛び出した人影が三つ。
――幻影だ。
と思ったら、アルの腕が私と少女を抱きしめ、次の瞬間。
「あ……」
私とアル、そして黒髪の少女は、見慣れない部屋の中にいた。ルオンも猫の姿になって現れる。
アルの移動魔法だ。
「ここは……?」
「王太子宮の僕の部屋」
アルの答えに、ほっとして胸を撫で下ろした私は「それより……」と隣に立つ少女の両肩に手を置いた。
「あなた、毛玉ちゃんなの?」
「あ……その……えっと……」
「それとも、毛玉ちゃんの見せてる幻影? ……ううん、違うわね……幻影じゃなくて、実体よね」
少女の肩にも、腕にも、触れた私の手に確かにその感触がある。
「あ、はい……」
おどおどと口ごもる少女を、ルオンが揶揄う。
「あーあ、ばれちゃったねー、毛玉! ははは……」
「ルオン、知ってたの?」
「うん、まあねー。でも、僕たちに害はなさそうだったし、面白いから黙ってたー」
「面白いって……ちょっと……」
理解が追いつかないでいる私に対して、アルは不思議とそう驚いてもいない。
「まさか、アルも知っていたの?」
「うーん……僕が知っていたのは、ロッテ嬢が連れていた毛玉とやらの魔力と、アンテ城で見つけた日誌の魔力がなぜかよく似ていたっていうこと。だから何か関係がありそうだとは思っていたけど……これではっきりしたって感じかな?」
アンテ城から持ち帰った、あの古びた日誌。アルはあれから少し調べてみたけど、強い秘匿魔法がかかっていて、これを書いた持ち主以外には文字が現れないようになっていると言っていた。
そしてアルは跪いて、少女と目線を合わせた。
「ねえ、もしかして君……魔力を最小限に抑えた姿で、今まで生きてきたの?」
ふいっと顔を背け、アルの視線から逃れた少女は、ぼそっと独り言ちるように言った。
「魔力が戻ったのは、つい最近。それ以上、詳しいことは言いたくない……。でも、これだけは言っておきます」
少女の口調が変わった。毛玉のたどたどしかった物言いの片鱗は微塵もない。
「あなたたちと私のしたいことは、同じかもしれません。でも、助けてあげるかはわかんない。少なくとも、あなたたちの邪魔をするつもりはないです」
ポンッ!
目の前にいた黒髪の少女は、また毛玉の姿に戻った。
◆◆◆
ランブイユの王都に入ったノルマンは、表通りの繁栄ぶりと、それとはあまりにも違いすぎる路地裏の惨状に眉をひそめた。
隣国、ランブイユ王国とその王室について聞こえてくる情報には、常に相反するものがある。
魔法師の人材が豊富で、彼らによる他国に抜きんでた魔法の発展と、それを用いた魔道具の開発と輸出で、周辺国随一の豊かさを誇る国。
しかし一方では、魔法師や魔法への過度な偏重と傾倒により、農作物の生産など国の基盤となる産業が長年にわたり、異常におろそかにされ続け、衰退の足音が目前にまで近づいてきている国。
「やはり、いくら魔法が発展していても、さすがにそれだけですべての問題の解決は不可能なようだな」
正式な国同士の交流行事の際には、どんな国でも他国の使者に侮られることのないよう路地裏の隅まで管理して、不都合なものを排除する。だからこうして姿をやつして王都に入らなければ、真実はわからない。
待ち合わせ場所の裏通りに入ると、まもなく男がそっと近寄ってきた。並んでゆっくり歩きながら、独り言のように言う。
「魔物が運び込まれているのは、二日後の王城の夜会で、王宮魔法師が何かをお披露目する準備のためだと。当日、王城に入る手配は整っております。あとは宿に向かわせた魔法師にお任せください」
用件だけ伝えると、男は足早に立ち去る。
ノルマンの視界の先には、王城が小さく映っていた。
(彼も今は、あの城にいるのだろうか)
そして彼も、企みに関与しているのだろうか?
(違うと言ってくれ……)
ノルマンは記憶の奥から掬い上げた懐かしい顔を思い浮かべ、遠くの王城を睨むようにして歯噛みした。




