64 優しい兄上
アルが入浴と着替えを済ませたところで、部屋の扉がノックされた。
「殿下、私です」
髪に白髪の混じり始めた彼は、胸に右手を当ててアルに礼をとった。
「我が主、アルシオン王太子殿下。忠実な臣下であるヴァンホーテがご挨拶申し上げます」
「侯爵、僕にそんな仰々しい物言いは必要ないよ。いつも言っているように、私は侯爵を父とも思っているのだから」
アルは侯爵に長椅子に座るように勧めた。
「もったいないお言葉です」
ヴァンホーテ侯爵は柔和な笑みを浮かべた。
アルが侯爵を父と慕う理由――アルは側妃の産んだ王子だ。
側妃である母は、すでに王妃様から生まれた第一王子がいるからと、いずれ臣下に下る定めの第二王子であるアルには、王族ではない貴族としての振る舞いを学ぶように求めた。それを陛下にも願い出て、後継者がおらず、国王派の忠実な家臣でもあるヴァンホーテ侯爵家へ養子に出すことを許されたのだ。
その侯爵家では、ヴァンホーテ侯爵は幼いアルを実子のように可愛がってくれ、必要なことはすべて学ばせ、時には厳しく叱ってもくれた。滅多に会うことのなかった血のつながった陛下より、やがてアルは侯爵を父と信じて疑わなくなったほどだ。
「母上はお変わりないだろうか?」
「はい、ご安心ください。穏やかにお暮らしですよ」
賢明な側妃であった母は、アルが生まれた時から魔力持ちであることを理解していた。それゆえ、すべてはアルの行く末を深く案じての策だった。
ランブイユ王室の長い歴史の中には、魔力持ちの王子が権力欲のある者たちに担ぎ上げられた結果、命を落とす不幸が幾度となく繰り返されていたからだ。
『お願い……あなたが魔力持ちであることは、誰にも言ってはいけないわ。これはお母様との約束よ』
そうアルに言った母は、今は王妃宮で息を潜めるようにして暮らしている。
(母上がご無事なら、それでいい……)
今や正気を失ったともいえる王に、おかしな疑いをかけられる危険にさらされるくらいなら、そんな目には留まらないほうがいい。
前王妃様は反逆を疑われ、王太子となるはずだった第一王子と共に何年も前に国外へ追放されていた。
きっかけは、前王妃様の王への諫言。
怪しげな魔法師たちを城に集め始めた王に、前王妃がその理由を問うと、隣国への侵略を企んでいることがわかった。それを聞いた前王妃は、憚りながら……と、隣国との大義なき戦争は、民のさらなる困窮を招くだけだと忠言したのだ。
「侯爵がいつも母を気にかけてくれていること、感謝している」
「いえ。私にとっては当然のことですよ。今は王太子殿下となられたものの、一時はもったいなくも私の息子であった殿下のお母上なのですから。殿下に父と呼んでいただけた日々は、私にとって何にも代えがたい幸福な時でしたから」
王妃と第一王子の廃妃、廃王子の沙汰は同時に、侯爵家での満たされていた日々をアルから奪うものとなった。第一王子に代わる王太子として、王室への復帰を強いられたのだ。
「いや、侯爵は今でも私の父だ。それは変わらない」
「殿下は嬉しいことを言ってくださいますな」
国を出た前王妃様は、その後まもなく心労がたたって病を患い、亡くなられたと聞いている。そして、廃王子とされた第一王子は、今どこにいるのか。
(兄上……)
亡くなられた前王妃様によく似て、いつも穏やかで優しかった第一王子。
その異母兄とアルは幼い頃、たびたび一緒に遊んだ。アルを弟として慈しんでくれた、たった一人の兄。
「陛下に謁見されるとのことですが、もしや、あのお方の居場所がわかったのですか?」
「いや、そうであればよかったのだが、残念ながらそうではない。陛下に確かめねばならないことができてね。陛下の状態は?」
「そうでしたか……」
侯爵の表情に暗い影がよぎる。
「お変わりないです。いや、お変わりない、というより……」
「さらにおかしくなった、か?」
「ええ……はい」
そこへ、中央宮殿から謁見が許可されたという使いがやって来て、アルは険しい顔で腰を上げた。




