遠く離れて
「主君! 聞きましたよ!」
ノルマンは、執務室に飛び込んできたステファンを睨んだ。
「何を聞いたんだ?」
「何を、って……。さすが、顔の利くモンタナ夫人ですね! こんなに早く見つけてくださるなんて……。てっきり、何年もかかる大仕事だと思ってましたのに……」
「物好きがいたということだよ」
「で、どちらのご令嬢なんです? 主君と婚約してくださるという物好き、……あ、いや、勇気ある? いやいや、……気概がある方は」
「……サルグミン伯爵家のディアロッテ嬢だ」
「あ……、えっ? あのサルグミン嬢ですか? 確かに、物好きなのかはわかりませんが、訳ありですね……」
「ステファン、その言い方は令嬢に失礼だ。口を慎んでくれ……」
モンタナ夫人から手紙で知らせを受けたノルマンは最初、面倒なことになったと思った。どうせ自分の婚約者なんて簡単には見つからないだろうから、夫人が何をしようと放っておけばいいと高をくくっていたからだ。
だが、思っていたよりはるかに早く届いた、相手が見つかったという報せ。
慌てて夫人からの手紙を開いて読み進めていくと、そこに記されていた相手の名前に、なぜか安堵している自分がいた。それどころか、興味が湧いた。他人に勝手に決められる相手になど、何の感情も抱くはずがないと思っていたのに。
「まったく知らない相手でなかっただけ、よかったよ」
「でも、サルグミン嬢は主君のことを知らないですよね? あの夜会の時、別れる前に名乗りましたか?」
「いや、名乗ってはいない……。ということは、俺の顔も知らないのに婚約を承諾したということか……」
見知らぬ相手との婚約を承諾した理由というのが気になりはしたが、それにもまして素面のサルグミン嬢に会ってみたいという気持ちが湧いてきた。なにせ、あの夜出会った彼女は、ひどく酔っていたから。
「でも、これで安心ですね。婚約者が見つかったとなれば、うるさい老人たちを黙らせることができますからね」
ステファンの言う通りだ。
いまだ家門内には、ノルマンを後継者として認めたがらない者たちがいる。彼らはノルマンを後継者として認める条件として、結婚を挙げていた。
理由は、魔物の出現の多いモントロー領で常に領主自ら討伐に出るのだから、いつ命を落とすかわからない。万が一のことがあれば、当主を突然失った領内は即座に混乱に陥る。そうならないために、早く結婚して後継者を儲けてもらわなければ、という主張だ。
つまりは、己の地位の安定のための婚約と結婚。
打算でしかないそれを、これまでは味気なく、嫌悪すら感じていたのに、今はなぜかそれほど嫌な気がしない。
「ステファン、夫人の手紙によると、令嬢はすでに王都を発ってモントロー領に向かっているとのことだ。モンタナ侯爵家の騎士たちが道中を護衛しているとのことだが、こちらからも腕の立つ騎士を選んで、迎えに出してくれ」
「えっ! 承知しました。しかし、すでにこちらに向かっているとは……何とも行動が早い。一刻も早く、王都から去りたいということですかね? とにかく、すぐにお迎えの騎士たちを向かわせます」
「そうせざるを得なかった訳があるとのことだ。よろしく頼む……」
◆◆◆
「こんなにすぐに、モントロー領に行ってしまうなんて……」
馬車に乗り込んだ私に、お母様は目に涙をためながら言う。
モンタナ夫人に承諾の返事を伝えると、夫人は心から喜んでくれた。
「でも私、公爵様のお顔も知らないんです」と言えば、「きっと気に入るから大丈夫」と夫人はにこにこしながら太鼓判を押す。
そして、モントロー領に向かう侯爵家の立派な馬車を用意してくれただけでなく、屈強な護衛の騎士たちもつけてくれたのだ。
でも、私がモントロー公爵家の迎えを待つことなく、これほど早く王都を発つことになったのには、理由があった。
数日前、ロベルが突然、私を訪ねて屋敷に現れた。
応対した執事が用件を尋ねても、それは私に直接伝えると言って譲らない。しかし、先触れもなく訪ねてきたロベルに、当然私は会うつもりがなく、執事とお兄様が強硬に追い返してくれた。
このことをモンタナ夫人に伝えると、それなら一刻も早くモントロー領に発ったほうがいいだろうと言って、万事手配してくれたのだ。私も、できればもうロベルの顔は見たくない。
王都からモントロー領までは、馬車で八日。
私付きの侍女として、カーラについてきてもらった。
ルオンは私の飼い猫ということで馬車に同乗し、毛玉はいつものように私の髪飾りに擬態している。
もうすぐ旅程の半分に達するというところで、モントロー騎士団の騎士たちが護衛の列に加わった。
途中、街から離れた森の中などで何度か魔物の襲撃もあったけれど、いずれも低級レベルの魔物だったので、毛玉とルオンの連携でこっそり始末してもらった。
毛玉の幻影のおかげで、騎士たちに気づかれてはいない。現れたはずの魔物が一瞬で逃げていった、と思い込んでくれたようだ。
馬車に揺られ続け、いい加減、体中が痛くなってきたなと思った頃に、ようやくモントロー領に入った。
国境が近い街にふさわしく、賑わってはいるが、建物は優雅さよりも頑強さを重んじているのがわかる。敵襲への備えで、至る所に戦時に用いる移動式の馬防柵も置かれていた。王都の華やかさとは趣が異なり、遠い地に来てしまったことをつくづくと実感する。
モントロー領主の城に入ると、執事を先頭に、使用人たちが左右に列をなして出迎えてくれた。
さすが、名門公爵家だ。
だが、肝心の公爵様は、ちょうど魔物が現れたという報せがあり、討伐に出たばかりで不在だと、執事が申し訳なさそうに頭を下げた。
魔物は鉱山の近くに現れたのだと言う。鉱山への道は険しく、馬で行って帰ってくるだけでも優に二日はかかるから、公爵のお戻りは数日後になるだろうとのことだ。
「公爵様から、お待たせすることになり申し訳ないと伝えてほしい、と言付かっております。王都からの長旅でお疲れのことでしょう。お部屋はご用意してありますので、どうぞおくつろぎください」
モルガンと名乗った執事に案内された部屋は、きれいに整えられていた。掃除も隅々まで行き届いている。私に対する心遣いが感じられて、何とも心地いい。
「ありがとう。では、休ませてもらうわね」
「公爵様からは、奥様の王都のお屋敷に比べれば室内の設えが些か寂しく感じられるでしょうから、お好きなものに替えていいとのことです。ご希望をおっしゃってくださいませ」
「いえ、モルガン、とてもいいお部屋で気に入りました。公爵様にもそうお伝えくださいね。こちらのお部屋のほうが、私の実家の屋敷の部屋よりずっと立派です。サルグミン家は質素を良しとする家門ですから、無駄に華やかなほうが慣れないんです。ですから、その辺りはご心配なく」
ほっとしたようにモルガンが笑顔を見せた。
噂の冷血公爵様はさておき、城の使用人たちに悪い印象はない。
でも、「奥様」か……。
そう呼ばれると、何となく居心地が悪くてたまらなくなる。まだ、肝心の公爵様の顔も知らないのだから。
「奥様がお連れになった使用人は、侍女がお一人と聞いております。公爵様からは他にも何人か必要だろうから、奥様の指示に従うようにと言いつけられております。いかがしましょうか?」
モルガンはこう言ったが、私には今のところカーラがいれば十分だ。
「では、今すぐには不要ですが、追々、必要に応じて誰か雇うことを考えますね。その時はお願いいたします」
親切な執事のモルガンやメイドたちのおかげで、王都にいた時と変わらずに過ごすことができそうだ。
(ただ、「奥様」というのは、どうもね……)
その夜は長旅の疲れもあり、早めに床に就いた。
整えられたベッドに潜り込むと、ベッドマットはちょうどいい硬さで、寝具の肌触りも抜群にいい。飾り気はないが高級な品だとわかる。心地よさに包まれて、ほどなく眠りに落ちた。
ぐっすり眠ることができ旅の疲れも取れたおかげで、翌朝は気持ちいい目覚めを迎えた。
朝食を終えた私に、モルガンが声をかける。
「よろしければ、お城の中をご覧になられてはいかがですか?」
この城は、王都の屋敷には比べようがないほど広大だ。後々迷子にならないよう、ここをよく知る人に早めに案内してもらっておくに越したことはない。
モルガンの案内で廊下を歩いていると、私に気づいた使用人たちがその手を止め、姿勢を正して頭を下げた。
すると、一人のメイドが慌てたせいか、足元に置かれていた木桶に思い切りつまずく。
木桶の中の水は勢いよく飛び散って、辺りを水浸しにした。中の水は、床を拭いたモップを洗った、いわば泥水。その汚れた水が、私のドレスの裾をわずかに濡らした。




