優しいはずの婚約者
「ディア……」
馬車に乗り込もうとした私は、お母様に呼び止められた。
私はモンタナ侯爵邸で開かれる慈善パーティーに向かうところだ。呼び止められた理由は見当がつく。
「行ってきます、お母様」
何事もないように笑って見せると、お母様は声を潜めた。
「……一人で行くの? ロベル様は?」
「ああ……何かご用事があるみたい。私もモンタナ侯爵邸のパーティーは初めてじゃないから、一人でも大丈夫よ」
「そう。あなたがいいなら、構わないんだけれどね……」
そうは言いつつも何か言いたげなお母様には気づかないふりで、私は馬車に乗り込む。
ゆっくりと走り出した馬車に揺られながら、ぼんやりと窓の外を眺めた。
(ロベル、また迎えに来てくれなかったな……)
私がパーティーに出席することは、婚約者のロベルも知っている。そして、同じく彼も出席する。
ならば、婚約者として私を迎えに来てくれて、一緒の馬車でパーティーに……と行くところだが、彼はそうじゃない。まったくその気がないわけじゃなさそうなのだが、何かと他に用事ができて、迎えに来てくれるのは三度に一度、という程度。
サルグミン伯爵家の娘である私、ディアロッテ・サルグミンと、ショワジー伯爵家の次期継承者、ロベル・ショワジーとの婚約は、数年前に親同士が決めたものだ。どちらも伯爵家で家格も釣り合い、年も二つしか違わないということで、話がまとまるのは早かった。
それに――私は幼い頃、ロベルに助けてもらった記憶がある。年齢が同じくらいの子どもたちを集めたお茶会で、意地悪な子に池に落とされた私を助けてくれたのだ。だからお父様から、私とロベルとの婚約が決まったと聞かされた時、正直とてもうれしかった。
(優しい人なのは、わかっているんだけどね……)
ロベルは、かなり見た目がいい。しかも伯爵家の嫡男という極めて優良物件の彼には、私以外の選択肢もあったはずだ。実際、いくつもの話が来ていたらしい。でも、そこでひと押ししたのが、ロベルの母であるショワジー伯爵夫人の一言だ。
「ロベルは優しい子だから、控えめな令嬢が合っていると思うの。華やかなお嬢さんより、穏やかにロベルを支えてくれる控えめなお嬢さんがいいのよ」
確かに、私には華がない。というか、社交の場で特に目立ちたい気持ちはないので、他の令嬢と競って華やかに装う気もない。でも、ロベルに恥をかかせたいわけではないので、彼と場を同じくする時には、それなりには整えているつもりだ。
そんな私に、ロベルが不満を口にしたことはない。
実は過去に一度、精一杯頑張って、華やかな装いで夜会に出たことがある。
我ながら、よく化けたなと思えたし、支度を手伝ってくれた侍女のカーラも「自信を持ってくださいね! お嬢様が本気を出せば、こんなに美しいんですから」と褒めてくれた。お母様も「まあ、綺麗ね!」と目を見張ってくれた。
でも、そんな私を見たロベルは、特に何か褒め言葉を口にしてくれるわけでもなかったし、甘い言葉や眼差しをくれるわけでもなかった。いつもと変わらず、穏やかな物腰ではあったけれど。
(私のことなんて、どうでもいいってことなのかな……)
はあーっ、と無意識に、私は大きなため息をついていた。
やがて馬車はモンタナ侯爵邸に到着した。
ホールに入った私は、できるだけ目立たずにいられる場所を探してうろうろする。
この国の私の年頃の貴族女性は、婚約者がいるのが普通であり、パーティーにはその婚約者と共に参加するのが当然とされている。だから、会場内に一人ポツンといれば、奇異な視線を向けられてしまうからだ。
案の定、聞きたくもないのに、ひそひそと囁く声を耳が拾ってしまう。
「あのご令嬢は、ロベル様の婚約者よね? お一人でいらしたのかしら?」
「ああ、サルグミン嬢でしょ? どうしてかしらね。ロベル様もいらしているのに、放っておかれてるなんて」
「だって、あの方、ロベル様には釣り合わなくない? サルグミン嬢って、いつも影薄くて……」
ふふふっ……と意地の悪い笑い声を立て合っているのは、ロベルに少なからず気のある令嬢たちだろう。
(はいはい。影が薄いのは、私自身が一番よーくわかっていますから、改めて言われなくても大丈夫です……)
心の中で毒づいてみる。
私は柱の陰に立つと、ホールの中央に目をやった。そこに見えた二人に、私は唖然とした。
ホールの中央の、目立つ場所にいたのは、ロベル。その彼の腕に、自分の腕をしっかりからめるようにして隣にいたのは、レイラ・クレモ男爵令嬢。
やけに胸元の大きく開いたドレスを着ているレイラ嬢は、ロベルをうっとりとした目で見つめている。ロベルはそんな彼女を遠ざける様子もなく、平然と目の前の令息達と会話していた。
(友人って、あの令嬢だったか……)
ロベルは昨夜、私を迎えに行けない理由を手紙で知らせてきた。
『申し訳ないが、明日は君を迎えに行けなくなった。
モンタナ侯爵家のパーティーが初めてで、一人で行くのが心細いという友人がいるので、可哀そうだから明日はその友人と行くことにした。今日、突然頼まれたので、知らせるのが今になってしまい、すまない。
モンタナ家のパーティーには、ディアはもう何度も行っているから、一人でも大丈夫だよね。では、会場で会いましょう』
友人? 一人で行けない? しかも昨日頼まれた?
おかしな話だと思った。どこのお子様とご一緒するのかと思ったら、立派な成人じゃない……。
しかし、こういうことは初めてではない。ロベルは人に頼まれると、断れない性格なのだ。そんなロベルを知る人たちは、彼をとても優しい人だと言う。
だが、どういうわけか、その優しい人とやらは、私の頼み事にだけ効力を発揮しない。
私以外の人からの頼み事は決して断らないくせに、私の頼み事となると、いともたやすく断ってくる。
「ごめん」「すまない」「申し訳ない」という言葉を何度聞いたことか。
(謝ればいいってことじゃないんだよね)
今日だって、私はもうだいぶ前から、迎えに来て一緒に行ってほしい、と頼んでいたのだ。正式に認められた婚約者の権利として、他の人たちがそうするようにしてもらえないかと。
その時はすぐに、「わかった、必ず行くよ」と言ってくれたのに。婚約者でもない、ただの知り合いの令嬢に頼まれれば、婚約者の私の頼み事なんて、羽根より軽い約束でしかなくなるなんて。
本当なら、私からロベルのところに行くべきだろう。
でも、レイラ嬢と一緒にいる今は、行きたくない。
レイラ嬢が以前からロベルに気があるのは知っていた。
そのせいで、彼女からは何度か嫌がらせもされたし、「見目麗しいロベル様に付きまとう、身の程知らずの地味女」なんて陰口を叩いていることも知っている。敵意をあからさまにする相手の近くには、近寄らないのが最善だ。
……と思って、二人に気づかれないところへ逃げようと背中を向けたら、後ろから声をかけられた。