第5話∶待ちくたびれた男と旅する姫君
ルーヘルム王宮の地下牢。
冷たい石壁に、囚人の荒い息遣いが響く。
鎖につながれた男は、目の前の“監視者”を睨みつけていた。
──宮廷魔導師ゼファルド。
「……殺せ」
低く、しわがれた声。
それを聞いたゼファルドは、牢の前に立ち、鼻で笑った。
「いや、お前は殺さねぇ」
「……なに?」
「お前は生きて帝国へ帰る。そして──こう伝えるんだ」
ゼファルドの声は静かに響く。
「エルヴァントの王子は、すでにルーヘルムを出た後だった とな」
「誰が……そんなことを……」
男が言いかけた瞬間、空気が変わる。
地下牢の湿った空気が、一瞬で張り詰めた。
ゼファルドが軽く手を振ると、牢の床に淡い魔法陣が浮かび上がる。
圧倒的な魔力が、男の精神を絡め取る。
「お前はエルヴァントの王子には会っていない」
ゼファルドの言葉が、静かに牢の中に染み渡る。
「……俺は……王子には、会っていない……」
男の焦点の合わない目が、空虚に揺れる。
ゼファルドの精神干渉魔法は、刃ではなく、水のように静かに心を染み込ませる。
彼はもう、自分が何を見たのかさえ分からない。
ただ、“そうだった”と信じることしかできなくなる。
ゼファルドは、牢の鉄扉に手をかけると、静かに呟いた。
「……これでいい」
明日、この男は牢から放り出され、帝国へ帰るだろう。
そして、帝国に間違った情報を伝えることになる。
──エルヴァントの王子は、もうルーヘルムにはいない、と。
---
牢を後にしながら、ゼファルドはふと喉に手を当てた。
何気ない仕草だった。
だが、その指先が喉をなぞった瞬間──
彼の脳裏に、ある光景がよぎる。
***
──ルーヘルムの奴隷市場。
人々の喧騒の中、ゼファルドは薄汚れた少年を見下ろしていた。
「その子は俺が買おう」
奴隷商人の顔が引きつる。
「し、しかし、この奴隷はまだ値段が──」
「構わん」
言いながら、ゼファルドは目の前の少年を見つめた。
ぼろぼろの服に身を包み、魔力封じの首輪をつけた少年── キースクリフ。
彼の黒髪が風に揺れた瞬間、ゼファルドの目が細められる。
(──目隠しの魔法か)
隠されていた銀の髪。
そして、かすかに漂う王族特有の気配。
(エルヴァントの王子……まさかあんなところに転がってるとはな)
ゼファルドはふっと口元を歪めた。
──あの時、俺は何を思った?
エルヴァントの王子を拾うつもりはなかった。
だが、気づいたら口が動いていた。
(それとも、俺は……)
「……フッ」
ゼファルドは短く笑う。
エルヴァントの王子の巻き起こす波乱に、俺が巻き込まれれば──
いつか俺の命が危険に晒されるかもしれない。
──そうなれば、あるいは……会えるのだろうか?
「……俺は……そろそろ待ちくたびれたぞ」
無意識に喉に触れながら、ゼファルドは低く呟いた。
その声は、誰にも届くことなく、静かに闇へと溶けていった。
---
隣国の使節団がルーヘルムに到着し、ナディアが王との謁見のために王宮へやって来た。
ナディア・ヴェルフェン王女──商業国家ヴェルフェンの次期国王候補であり、自由奔放な姫君。彼女は幼い頃からキャラバンを率い、世界を旅してきたらしい。
「お初にお目にかかります、ルーヘルム王」
愛らしい笑みを浮かべ、ナディアは優雅に膝を折る。その仕草には一切の迷いがない。
ディアナは、そんな彼女をじっと見つめていた。
(この子……嫌いかも)
ナディアは同じ王女の立場なのに、まるで自由そのもの。ディアナは最近ようやく神殿を出ることを許されたばかりなのに、ナディアは世界を渡り歩き、自分の力で名声を築いている。
ナディアはディアナの視線に気づき、ニコリと微笑んだ。
「まぁ、あなたがあの“神殿の姫”ね? ふふ、想像よりおとなしそう」
「……あなたほど外の世界には慣れていないからよ」
「それは残念! 世界はとても広いのに」
ナディアはそう言って、ウィンクした。
ディアナは(やっぱり気に食わない)と思いながら、ナディアの堂々とした姿を見ていた。
──その時だった。
ナディアの足が、ぐらりと揺らぐ。
「……あれ?」
ナディアが呟いた瞬間、彼女の身体が崩れるように倒れた。
「ナディア様!!」
「どうされました?!」
側近たちが駆け寄る。しかし、ナディアは反応しない。
キースクリフはゼファルドに同行して広間の護衛にあたっていた。
しかし、今、目の前でヴェルフェンの王女が倒れ、広間が騒然としている。
「毒ではないか?!」
ヴェルフェンの医師の言葉に、ルーヘルムの宮廷医師たちがざわめいた。
(毒……ルーヘルムが?)
王女はぐったりとしておりその指先には紫班が浮かんでいる。
一体何のために?
(毒にしてはおかしい……
いや、待て……この紫斑……どこかで──)
その刹那、前世の遠い記憶が蘇る。
手足の紫斑、鼻血──
(まさか……いや、でも……)
その時、医師たちがナディアの口の中を確認しているのが見えた。
そして医師の一人が戸惑いながら呟くのを聞き逃さなかった。
「これは……口の中からも出血している……」
(口の中からも出血?)
その言葉で、俺の頭にある病名が浮かび上がる。
それは、前世で教師が語っていた、かつて船乗りたちが長い航海で悩まされた病気だ。
──壊血病。
だが、確信を得るには、もう一つ確認すべきことがある。
俺は歩み寄りながら側近に問いかけた。
「ナディア様はここに来るまで、何を食べていましたか?」
「え? ああ、保存食ばかりでしたが……」
その言葉を聞き、俺の中にあった疑念が確信に変わった。
それは、船乗りだけではなく、砂漠を越えるキャラバンにも起こり得る。
「これは……壊血病じゃないか?」
思わず口をついたその言葉に、周囲の視線が一斉に俺へと向いた。
「壊血病だと……?」
「なんだそれは?」
広間がざわつき始める中、俺は確かな自信をもって頷いた。
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【次回も夜22時頃に更新予定です!】