ルームサービスでーす!
ヒカリはプリスに連れられて、サイバーマトリックス社の本社ビルに避難していた。
彼女達が現在いる場所は、テロリストなどが社内に侵入した場合に、社員が一時的に身を隠すセーフルームである。
「ご安心くださいヒカリ様。この部屋には厳重なセキュリティが敷かれています。いかなる侵入者も寄せつけません」
「……ありがとうプリスさん」
それを聞いてヒカリはこの上ない安堵感を覚えた。ここに来るまで、いつライザーが追いかけてくるか気が気でなかったので、脅威がなくなった途端、一気に疲労感が押し寄せてきた。
ヒカリはプリスから手渡されたハーブティーを一口飲むと、目の前の謎めいたバイオロイドをまじまじと観察した。彼女については、海斗の“身体の整備”を担当している以外のことは聞かされていない。だから先ほどどこからともなく駆けつけて助けてくれた時は驚かされた。
「そういえばさっき助けてくれたお礼、まだ言ってなかったよね」
「それには及びません。私は海斗様のご命令に従ったまでです」
「そ、そう」
確か初めて出会った時も似たようなことを言っていた気がする。サイバーマトリックス社が保有するバイオロイドが、たかが一個人の為にそこまで従順になるのは違和感がある。
基本的に特定の企業に所属するバイオロイドは、平凡な容姿に地味なスーツを身に着けているイメージがあるが、プリスはレースクイーンが着用するような露出度の高い服装かつ、人形のように整った顔立ちをしている。
ヒカリも自分の容姿にそれなりに自身を持っているが、プリスを見るとその自信が揺らいでしまいそうだ。
おまけに戦闘用バイオロイド以上の身体能力の持ち主で、身の丈以上もある大剣を振り回す力を持っている。
一体彼女は何者なのだろう。
本人に訊ねてみようと思ったが、その前に音声チャットアプリで海斗から連絡が入った。
「海斗君?」
『ヒカリちゃん、今どこに?』
「大丈夫、安全な場所にいるよ。プリスさんが助けてくれたの」
『良かった。実は頼みがあるんだ。今からイプシロン地区にあるメトロポリタンヒルズホテルって建物の防犯カメラをハッキングして欲しいんだ』
「そこに何があるの?」
『ライザーの仲間から聞き出した情報によると、そのホテルに法水って人が隠れているって』
「聞き出したって……どうやって?」
『詳しいことは後で話す。急がないと奴の仲間に先を越されるかもしれないんだ!』
海斗の口調はかなり早口で、明らかに焦っている様子だった。
正直ヒカリはまだ状況を呑み込めていなかったが、海斗の声音から相当切羽詰まった状況なのは良くわかった。
サイバーデッキを起動してホテルのネットワークにアクセスする準備を整えながら、同時並行して念の為センチネルの捜査資料を確かめる。
「……確かにセンチネルの捜査資料にもそのホテルの名前があるよ。サイバーマトリックスの系列企業が保有していて、1703号室が法水って人の私室になってるみたい」
『ホテルの中に会議室とかパーティー会場はいくつある?』
「え?」
唐突に関係ない単語が出てきて、一瞬困惑した。
『今夜そこで科学のシンポジウムが開催されているんだけど、会場がどこにあるか知りたいんだ』
「ちょ、ちょっと待って。そこに法水さんがいるの?」
『いやその……実は友達がそのシンポジウムに参加しているんだ』
「……!」
それを聞いたヒカリは、海斗が何故そこまで必死なのかようやく理解した。
「どういうこと、その人も狙われてるの?」
『わからない。たまたま居合わせただけかもしれない。でもどのみち奴らがホテルを襲撃すれば巻き込まれる危険があるから、それだけは絶対に阻止しないと!』
「わかった、もう少しでホテルのシステムに侵入出来そうだから待ってて」
言いながらも、特に根拠はないが、ヒカリはその友達が誰なのか何となく直感でわかった。
恐らく今の海斗が幼馴染だと言っていた人物だろう。
法水の為だけにここまで慌てるのは、いくら何でも不自然だと思った。友達が原因だったのだ。
その取り乱した声を聞くと、海斗にとって彼女がどれほど特別な存在なのかがはっきりと伝わってくる。同時にどうしてもこんな考えが頭をよぎってしまう。
自分がライザーに捕まった時も、同じくらい動揺してくれただろうか、と。
そんな雑念を振り払うように、ヒカリは頭をブンブン振って作業に没頭した。
「お待たせ、今から映像を送るね!」
ヒカリが送信した映像には、ホテルのフロント、非常階段、別館など現地の様子が詳細に映っていた。
その中の一つ、正面入口の車寄せに、不審な黒いワゴン車が停車している。ライザーとその仲間が使用している車種に良く似ていた。
『くっ……アイツらもう現地に着いているみたいだ』
いつ頃からそこにいたのかはわからないが、すでにホテル内に入り込んでいると見て間違いない。
映像を切り替えてエレベータホールを見ると、明らかに一般人ではない四人組の男達が、両手に自動小銃を携行してエレベータの到着を待っていた。
「シンポジウムの会場を調べたら別館で開催されてるって書いてあったよ。別館の周りには変な車は停まってないし、目的は法水って人を殺すことだけなのかも……」
『どうかな。標的を始末した後で別館を襲撃するつもりかもしれない』
ライザーは海斗と親しい人間を殺して精神的に追い詰めようとしている。
ヒカリを人質にとって海斗を脅迫したのなら、友達が狙われる可能性もないとは言い切れない。
「そうだね。一応センチネルが使っている衛星の画像も送っておくね」
『ありがとう』
そう手短にお礼の言葉を述べた後、海斗は通話を切った。
摩天楼が連なる壮大なスカイラインは、色彩豊かなLEDネオンや3Dプロジェクションマッピングによって彩られ、その中でも一際目立つ豪奢な高層建築が、法水が潜んでいるメトロポリタンヒルズホテルだった。
すでにライザーの部下は、エレベータを使って法水のいる階層に接近していると思われる。
出来ればルナの安全確保を最優先にしたいが、それでは法水の救出が間に合わない。幸い別館の方には異常は見当たらないので、海斗は防犯カメラで様子を逐一確認しつつ、まずは法水のところへ向かうことにした。
少しでも別館の方で異変が生じれば、法水には申し訳ないがすぐにルナのところに駆けつけるつもりだった。
グラップルシューターを使って隣の建物からホテルに飛び移ると、外壁を駆け上って法水の部屋を目指した。
「おい、一体どうなっているんだ?」
自室でブランデーを飲みながらくつろいでいた法水は、外の異変を感じ取ってホテルのフロントに内線電話をかけた。
はっきり聞こえた訳ではないが、どこからともなく発砲音のような音が聞こえた気がした。
「ホテル内に侵入者です。安全が確保されるまでそこから動かないでください」
「何だと、何の為に大金を払ったと思っている! 護衛は一体何をしているんだ!?」
「アンタの護衛なら今頃あの世でバカンスを楽しんでいるぜぇ」
入口から声がしたので振り返ってみると、血まみれのカランビットナイフを握りしめた男が、冷徹な表情を浮かべて佇んでいた。
「駄目だなあ、自分の命が掛かっているんだからもっと腕の立つ護衛を雇わないとよぉ」
「わ、私を殺しに来たのか?」
「ご覧の通り」
男はナイフの刃にこびりついた血を舌で舐め回しながら、ニヤリと口の端をつり上げた。
この男はその辺のチンピラとは明らかに雰囲気が違う。プロの暗殺者だ。十中八九、Not Foundの差し金だろう。
ついにこの場所を嗅ぎつけられてしまった。
「愚かだねえ、大人しくお飾りの重役に甘んじていれば良かったのによぉ」
「や、雇い主からいくら貰ったかは知らんがその十倍は払う! だから見逃してくれ!」
「バーカ、金なんかいらねーよ。欲しいのはテメーの命だけだ」
どうにかこの窮地を切り抜ける方策はないか、必死に思考回路をフル回転させるが、この男を説得するのは限りなく不可能に等しいことは、最初から理解していた。
「俺のナイフはこれまでに何人もの血を吸ってきた年代ものでよ、ちょうどテメーで記念すべき百人目なんだ。光栄に思えよ!」
言いざまに、男が前方に跳躍して法水に襲い掛かった。
終わった。
こんなことなら上月にリストを見せようとするんじゃなかった。やはりあれは開けてはならないパンドラの箱だったのだ。
深い後悔の念に苛まれながら死を覚悟した法水だったが、その身体にナイフが突き刺さることはなかった。その直前、いきなり背後の窓ガラスが粉々に砕け散って、外から何かが飛び込んで来たからだ。
突然、乱入してきたその人物は、この場には似つかわしくない気の抜けた声でこう言った。
「どーもー、ルームサービスでーす!」
法水は、それがインターネットで“グリッドランナー”と呼ばれている人物だと気づいた。
「……き、君は」
法水が何か言葉をかけようとすると、先に暗殺者の男が口を開いた。
「テメーもしかしてあのグリッドランナーか。ククク……会えて嬉しいぜ。予定変更だ、百人目の生贄はテメーに決定した!」
男は好戦的な笑みを浮かべてカランビットナイフを器用に振り回し始めた。
「俺は相手が強ければ強いほど燃えるタイプでよぉ、こりゃ久々に楽しい殺し合いになりそうだ!」
叫ぶと同時に、男は猛然と突撃を仕掛けてきた。瞬時に目前まで距離を縮めると、海斗の右目を狙ってナイフを一閃させる。
海斗はしかしあっさりそれを回避すると、正確に男の顔面に拳を叩き込んだ。
『――と思ったけどそうでもなかったね』
床に突っ伏して動かなくなった男を無視して、海斗は法水に視線を向けた。
『さてと……オジサンが法水CTOってことでオーケー?』
「あ、ああ……」
やや戸惑い気味に法水が答えた。
『ただ今「迫り来る殺し屋から一緒に逃げましょうツアー」を絶賛開催中なんだけど、オジサンも参加する?』
「あ、ああ……頼む、私を助けてくれ!」
情けない声を発して縋りついてくる法水を、海人は鬱陶しそうに宥める。
『あーはいはい、わかったからとにかく落ち着いて――』
直後、入口から複数の足音が近づいてくるのを察知した。海斗が振り返るのと、男の仲間達が小銃の引き金を引き絞るのはほぼ同時だった。
海斗は反射的に法水をカウンターテーブルの陰に突き飛ばして、自分は体内の動体センサによって弾丸の一斉掃射を回避した。
そして隙を見て敵の懐に飛び込み、一番手前の男に旋風脚を見舞う。
敵が怯んだところへさらなる追撃を仕掛けようとする。が、敵は予想以上に俊敏な動きを発揮して不発に終わった。
――こいつら動きが素人じゃない?
これまでのライザーの仲間はただのチンピラが多かったが、この男達の身のこなしは明らかに戦闘訓練を受けている者のそれだった。
軍人か民間警備会社の関係者か。いずれにせよ油断しない方が良さそうだ。
男達は武器を軍用ナイフに持ち替えて近接戦闘を挑んできた。
海斗はどうにか攻撃をいなして一人ずつ着実に倒していった。相手は確かに手強いが、集中して戦えば勝てない相手ではない。
『ふう、何とか勝てたけど、ライザーの仲間にしては手強かったね』
「それはそうだろう。こいつらはNot Foundの手先だ」
『Not Found?』
聞き慣れない単語が出てきて、首を傾げる海斗。
「話は後だ。とりあえずここから逃がしてくれ」
『りょーかい』
口ではそう言ったが、その前に海斗はルナのいる別館に行かなければならなかった。
ガラスが割れて吹き曝しの窓際に立つと、隣の別館に向けてグラップルシューターを発射する。これで向こう側の建物に飛び移る準備は完了した。
「お、おい冗談だろう……」
海斗がこれから何をしようとしているのか悟った法水は、恐怖の表情を浮かべて後退った。
見たところ法水は生身の身体のようだ。だとしたら足がすくむのも無理はない。今からアクション映画並みのスタントを敢行しようとしているのだから。
「普通にエレベータで降りれば良いじゃないか!」
『中は殺し屋がうろうろしてるでしょ。そっちの方が殺される確率高いと思うけど』
法水は正論をぶつけられて思わず口ごもる。
『大丈夫、ジェットコースターだと思えば平気さ』
その頃別館では、本館に不審者が現れたという緊急放送が流れ、従業員による避難誘導が始まっていた。
シンポジウムの観客は従業員の指示に従って別館を後にする。その中には当然ルナも含まれていた
海斗は別館から出て来るルナの姿を確認して安堵の溜息をついた。どことなく不安そうな表情をしていた。
こうして一人だけで帰る姿を見ていると、彼女の誘いを断ったことが悔やまれる。
事情があったとはいえ、申し訳ないことをした。何もかも解決したら改めてちゃんと謝ろう。どこまで本当のことを話すかは難しいところだが。
あるいはルナの安全を考えると、もうこれ以上世話にならない方が良いかもしれない。
今後ライザーのような者が現れたら、また海斗の親しい人間が狙われる恐れがある。
「おい、いつまでここにいるんだ。モタモタしていると奴らが来るぞ!」
と、後ろでずっと待機していた法水が痺れを切らしたようだ。
『逃げたかったらご自由にどうぞ。俺はまだやることがあるから』
急いで逃げなければならないのは百も承知だが、ルナの安全が確保出来るまでこの場を離れるつもりはない。
シンポジウムが中止になったので、ルナは帰宅の途につく為に最寄りのバス停を目指していた。
『その子が海斗君の友達?』
いつ頃からチャットアプリを使用していたのか、耳元でヒカリが声を発した。
多分どこかの防犯カメラで、こちらの様子を見ているのだろう。
『うん』
『……凄く綺麗な人だね』
その台詞はどこか含みのある言い方だった。
『そうだね……』
海斗も否定はしなかった。
幼馴染の贔屓目が入っているかもしれないが、ルナは確かに美人だ。大人気インフルエンサーであるヒカリと比較しても、全く遜色ないくらいに。
バスが到着し、ルナが確かに乗り込んだのを見届けると、とりあえず一安心した。バスで移動している間は、襲われる可能性は低いだろう。
まさか衆人環視の中でルナを拉致しようとするほど、ライザーも無謀ではないだろう。外にはセンチネルが海斗とライザーを捕まえようと目を光らせている。
後はプリスにバスを見張らせて、自分は法水を安全な場所に送り届けてからルナの下に戻ろう。
「おい、いい加減にしてくれ! 私を殺す気か!」
またしても法水が喚き出した。
『あのねえ……こっちは善意で助けてやってんだよ? 少しは感謝したらどうなの!』
さすがに我慢の限界に達した海斗は、一瞬ルナから目を離して法水に溜まっていた不満をぶつけた。
だがその一瞬が、後に深刻な結果をもたらすとは、この時の海斗は知る由もなかった。
一瞬、目を離してしまったせいで、忘れ物をしたことに気づいたルナが、バスを降りたことにも気づけなかった。




