恥ずかしがらなくて良いのよ海斗君
「ねえ」
すぐ後ろでルナの声がした。バレた?
「そんなとこで何をしているの?」
「いや、これはその……」
この状況で自分がグリッドランナーではないことを相手に信じ込ませる上手い言い訳があるだろうか。
いや、こんな短時間で思いつくのは到底無理だ。
「ボーっとしてないで、早く中に入るわよ」
「え」
意外にも反応が薄い。
マンションのガラスドアを確認すると、どうやらいつの間にか赤いパーカー姿の自分に戻っていたようだ。
海斗は安堵感に包まれた。
そのまま何事もなかったように、マンションのエントランスに入り、ルナが居住している部屋を目指す。
「いらっしゃい」
扉を開けるとルナがそう言いながら迎え入れてくれた。
「で、ではお邪魔します……」
「何畏まってるのよ。前に何度も泊まったことがあるでしょう。もっと普通にしなさいよ」
「そ、そうだね」
怒られてしまった。
とはいえそれは子供の頃の話だ。今の海斗にとっては年頃の異性の家、という意味合いの方が強くて、どうしても緊張してしまう。
しかも親はまだ不在らしい。
むしろルナが何故そこまで冷静に振る舞えるのかわからない。やはり異性として認識されていないのだろうか。何だか男としての尊厳を傷つけられた気分になる。
そんなことを考えている内に中に案内された。
吹き抜けのリビングエリアはクリスタルのシャンデリアが隅から隅まで鮮やかに照らし出し、開放感溢れる空間を演出している。
ダイニングには先進的なデザインのテーブルと椅子が置かれ、リラックスした雰囲気を漂わせている。
何度見ても豪華な家だ。自分の部屋とは天と地ほどの差がある。親が外資系の金融機関に勤めているのでこのような家に住めるのだ。
リビングを通り過ぎると、二階の寝室に向かう。
「ここが寝室ね。前に泊まったから覚えていると思うけど」
「うん」
懐かしい、子供の頃に良く寝ていたベッドが、そのままの状態で置いてある。こうして眺めていると当時のことを思い出す。
幼少期のルナは、今では考えられないくらい気弱で甘えん坊な性格をしていた。
夜中に怖い夢を見たからと言って、勝手に海斗のベッドの中に潜り込んで来たことが何度もあった。
当時と比べるとすっかり逞しくなって、今や完全に立場が逆転してしまったが。
部屋に荷物を置いて、ついでに服も着替えた。万が一、服が誤動作を起こしてグリッドランナーの姿になってしまったら大変なことになる。
再びリビングに戻ると、部屋着に着替えたルナが待っていた。
「じゃあ今から夕飯の支度するから」
「う、うん」
そんな生返事をしながらも、海斗は部屋着姿のルナに目を奪われていた。
学校での彼女は、洗練されたスタイリッシュな服装に身を包んでいるが、今は妙に裾丈が短いワンピースを着用している。
普段はクールで人を寄せつけないオーラを纏っているルナだが、ゆったりとしたワンピースを着た今の彼女は、女性的な柔らかさが滲み出ていて、正直見惚れてしまった。
「な、何ジロジロ見てるのよ?」
「あいや。いつもと雰囲気違うなーって思って……」
あまりにもあからさまに凝視し過ぎたせいで、ルナが戸惑った表情を見せる。
「何それ、私にはこういうの似合わないってこと?」
「いいや、そんなことないよ。むしろその……凄く、可愛いと思う」
「へ?」
普段はクールなルナが急に驚いた表情になって、白い肌が耳まで真っ赤になる。
「そ、そう……ありがとう……」
「……うん」
「…………」
「…………」
しばらく何とも言えない沈黙が漂った。
何故かはわからないが、胸の動悸が物凄く激しくなった。
海斗の体内に流れる人工血液は、常に体温を一定に保つ機能があり、照れたりしても身体が火照るといった生理現象は発生しない仕組みになっている。
おかげで顔が紅潮するようなことはないが、心臓の鼓動が聞こえてないか心配になるほど激しくなる。
しばらく気まずい沈黙が続くと、先にルナが口を開いた。
「そ、そうだ。夕飯の支度しなきゃ……」
そう言って何事もなかったようにキッチンに向かって、エプロンをつけ始める。
「……あれ、今日は手作り?」
普通、一般家庭ではフード3Dプリンターを使用することが多い。白泉家でもそれは例外ではなく、昔は海斗もそれでオムライスなどを食べていた。
「ええ、すぐ作るからそこで待ってて」
「なら俺も手伝うよ」
「これくらい一人で出来るわよ」
「まあまあそんなこと言わずに。タダで泊めて貰うんだからせめてこれくらいさせてよ」
言いながら、海斗は半ば強引にキッチンに入って腕まくりする。
「じゃあ野菜の皮を剥いてくれる?」
「オーケー」
ルナが包丁でキャベツを切っている隣で、指示された通りにニンジンの皮を剥いていく。
こうしていると以前、二人でシチューを作ったことを思い出す。彼女の母親が見守る中、野菜を切ったり皮を剥いたりするのに悪戦苦闘していた。
今はもう料理を作る機会すらなくなったが。
ルナもその時のことを覚えているだろうか。
「……ねえ、どうしてウチに来なくなっちゃったの?」
「え」
ふいにルナが口を開いた。
「昔はしょっちゅうウチに泊まりに来てたのに、中学になってから来なくなったでしょう。そんなに居心地が悪かった?」
「いや、そういう訳じゃないけど、何て言うかその……」
海斗は養父が亡くなってから小学校を卒業するまで、ほとんどの時間をルナの家で過ごしていた。
だが学生寮のある中学校に入学したのをきっかけに、家を出て寮暮らしを始めた。
ルナや彼女の母親からは、このまま一緒に暮らさないかとまで言ってくれたが、辞退した。
これ以上、誰かの助けを借りていると、自分が駄目人間になってしまうような気がしたからだ。
「二人が俺に親切にしくれたのは凄く嬉しかったよ。ただこれ以上誰かに助けられて生きるのは心苦しいっていうか、少しでも自分の力で何とかしたかったていうか……」
「別に私は助けてるつもりじゃあ……」
「わかってるよ。これは俺個人の問題なんだ」
今になって考えると、あの頃は何とか一人で生きていけるようになりたくて必死だったのだと思う。
海斗の話を聞いていたルナは、考え込むような素振りを見せて――
「私はアナタの力になりたい。迷惑だと思うかもしれないけど、困っていることがあればいつでも言って欲しいの。だって幼馴染でしょう?」
「……白泉さん」
「名前」
ルナが言葉を遮った。
「昔みたいに名前で呼んで?」
「わ、わかった。えっと……」
海斗は少し躊躇した後、おっかなびっくりといった調子でその名を囁いた。
「ルナ……ちゃん?」
「……うん、海斗君」
二人は無言で笑い合った。何となく気恥ずかしい気持ちになった。
お互いに、かつて仲良く遊んでいた当時のことを思い出していた。
ルナが何か言いかけた時、玄関の方で電子錠が開錠される音が聞こえた。
「あ、お母さん帰ってきたみたい」
「ただいまぁ」
玄関から現れたのは、おっとりとした艶やかな美貌のブロンド女性だった。
「久し振りー海斗君! 五年振りくらいかしら、おっきくなったわねえ!」
「レイナさん、突然お邪魔してすいません」
海斗は軽く一礼した。
白泉レイナ、ルナの実母である。
一児の母とは思えないほど若くて美しい容姿は、五年経った今でも全く衰えていない。
「そんなに畏まらなくて良いのよ。昔は良く泊まりに来てたでしょう。自分の家だと思ってくつろいでちょうだいね」
「はあ」
彼女はニッコリと柔和な微笑を浮かべて顔をこちらに近づけて来る。相変わらず綺麗な人だ。
母親というものを知らない海斗にとって、彼女は色々な意味で憧れの存在だった。
小学校を卒業して以来、レイナとは一度も会ってないからどんな反応をされるかと思ったが、以前の優しい彼女のままで安心した。
「元気してた?」
「まあ何とか。家が爆破されたこと以外は上手くやってるかな」
「そっかあ。何というか、しばらく見ない間にずいぶん格好良くなっちゃったじゃない? 私がもうちょっと若ければデートに誘ったんだけどなー」
「そんな、レイナさんは今でも十分若いよ」
「あら、それってデートに誘って欲しいってこと?」
「え、あいや……そういう訳じゃあ……」
両手でこちらの顔を優しく包み込むように触れてきて、海斗は思わずドギマギしてしまう。
と、その時、ルナが「コホン」と咳払いを一つしてこう言った。
「お母さん。今、夕飯作ってるから後にしてくれる?」
「あら今日は手料理? 海斗君がいるからって張り切っちゃったのかな?」
「べ、別にそんなんじゃないから!」
そんなやり取りをしている内に料理が完成した。
三人で食卓を囲みながら、レイナは昔の思い出話に花を咲かせる。
久々に海斗に会えたのが嬉しいのか、彼女は非常に饒舌に喋り続けた。
「そういえば海斗君はもう高校生になるのよね。誰か付き合ってる子とかはいるの?」
「いや……今のところそういう人はいないかな」
「あらそう、勿体ないわねえ。せっかくこんなに格好良いのに。体格だって凄くガッシリしてるし」
「そ、そう言うレイナさんこそ誰か良い人はいないの?」
レイナがいきなり身体に触れてきて、動揺してしまったので咄嗟に話題を変える。
彼女は海斗が幼い頃に離婚して以来、ずっと独身を貫いている。前の夫とはそこそこ円満だったらしいが、レイナが仕事でどんどん出世するに連れて、引け目を感じた夫がパワハラ、モラハラ的な暴言を吐くようになり、娘のルナにまで罵声を浴びせ始めたので、耐え切れなくなった彼女が、離婚を申請したという。当時、ルナはまだ八歳だった。
とはいえレイナほどの美貌の持ち主なら、男性からの誘いは絶えないと思うのだが、何故か未だに誰とも付き合う気はないらしい。
「そうねえ、私も再婚を考えてない訳じゃないんだけど中々出会いがないのよねえ。そうだ、もし誰も相手がいなかったら海斗君が貰ってくれるかしら?」
「え? や、ちょっとそれはどうなんだろう……」
この人は時々、冗談とも本気ともつかないことを言う。今回もそうだ。
擦り寄って来るレイナから一定の距離を取りながら、海斗は先ほどから不気味なほど静かなルナの様子が気になった。
「それにして本当に懐かしいわねえ。あの頃のルナちゃんはいつも海斗君にいつもべったりくっついてたわよね。寝る時もお風呂に入る時も」
「お、お母さん!」
レイナの発言に、ルナが顔を赤くして動揺する。
「そんなことをわざわざ本人の前で言う必要ないでしょ!」
「何よ、私が海斗君と二人だけでお風呂入ろうとしただけで物凄く怒ってたクセに」
「あ、あれは子供の頃の話で……!」
何だか気まずい会話になりつつある。海斗はルナに助け舟を出そうと口を挟んだ。
「そ、それに昔のことだからあんまり覚えてないし」
「そうなの? 私が身体洗ってあげたことも忘れちゃった?」
忘れる訳がない。レイナの白くて滑らかな肌は、今でも記憶に焼きついている。
『ウフフ……恥ずかしがらなくて良いのよ海斗君。私がちゃんと前の方も綺麗にしてあげるからね……』
あの時、初めて女性という存在を意識した。
芸術的とさえ言える豊満かつ均整の取れた裸身は、まだ幼かった海斗にはあまりにも刺激が強過ぎた。
今もこうして当時とほとんど変わらないレイナの綺麗な姿を見ていると、あの頃の光景が目に浮かびそうになる。が、そんなことは口が裂けても言えない。特にルナのいる前では。
「ハハハ……そ、そういうことはあんまり言わない方が良いと思うんですけど」
「どうして?」
「……いやあ」
海斗は恐る恐るルナの方に目を向けた。
不自然なくらい興味なさそうに夕飯を食べ続けている。それが逆に恐怖を感じる。
「ごちそうさま」
妙に冷たい声でそう言って食器を片付けようとする。
「お、俺もそろそろ部屋に戻ろうかな……」
海斗も慌てて食事を完食しようとする。
「そうだ、せっかくだからまた昔みたいに私と二人でお風呂に入りましょうか?」
「へ?」
「ちょ、何馬鹿なこと言ってんのよお母さん!」
レイナによるいきなりの爆弾発言に、ルナが取り乱す。
「やーねぇ冗談に決まってるでしょ。何をそんなムキになっているの?」
「……ぐっ」
完全に弄ばれている。
結局、風呂には一人で入ることになった。
当然と言えば当然のことだが、正直ほんの少しだけ期待してしまった自分がいるのは内緒である。
すっかりリフレッシュした気分になって風呂上がりに水を飲んでいると、玄関の方からルナが段ボール箱を抱えて歩いて来た。
「それどうしたの?」
「ああコレ? 前にネットで注文した商品が届いたの」
「ふーん……」
段ボール箱にはオラクル運輸のロゴがデザインされていた。
それを見た海斗は、ふと嫌な予感に囚われた。
昨日、自分の家に送り届けられた爆発物と、箱の形や大きさが酷似している。
考え過ぎだろうか、しかし万が一という可能性も排除出来ない。
そう思った海斗はいても立ってもいられなくなって、気がつくとルナの手から段ボール箱を引ったくっていた。
「ちょ、何してるの!?」
「ごめん、ちょっと貸して」
抗議するルナを余所に、ガムテープを強引に剥がして段ボールを開封する。
「……これは」
中身は女性用の下着だった。爆発物らしき物体はどこにもない。
「何ジロジロ見てるの?」
背後からルナの冷ややかな声。
これはまずい、見てはいけないものを見てしまった。
「ち、違うんだ、これはその……」
何か弁解しようとした時、偶々通り掛かったレイナが横からこう言った。
「あら、ルナちゃんったら、また大きくなったのね」
言われてみれば以前より一回り膨らみが大きくなったような。
そんなことを思いながら、自然とルナの胸元に視線が吸い寄せられる。
ルナは軽蔑の眼差しを向けながら、海斗の手元から下着を奪い取った。
「あ、あの……」
「フンっ!」
海斗が何か言う前に、ルナは鼻を鳴らして自室へ戻って行った。
初日から最悪の出だしとなってしまった。




