63.太湖の都市の宿敵(後編-8)
トーマンは、手を強く握り震わせていた。レンとハナが、やった。”特別認識個体”不壊の大亀を討伐し、黒き魔術師の足を矢で貫き、そしていまレンが黒き魔術師に止めを刺そうと跳躍している。
――ここだ、ここが千載一遇の機だ。
トーマンは、近衛騎馬隊を置き去りにして、あらぬ方向へ馬を疾駆させた。そして、大岩の陰に隠れ、草原の一点に向けて強弩を向けた。
黒き魔術師は、レンの攻撃を避ける。上や横へ避けるのは間に合わないから、落下して避けるはずだ。その時、ここに着地する。絶対――絶対にだ。
トーマンは、自身の読みに賭けた。草原の一点を見つめ続ける。
穏やかな風を受けて、草がたなびく。後方から、戦闘の喧騒が微かに聞こえる。太陽の日差しが、草原を照らしている。トーマンの顎に、汗がしたたる。
――視界の端。何かが映った。それが何かも確認せず、トーマンはためらわずに強弩を放った。
―――
レンが迫ってくる。黒き魔術師は浮上して避ける時間はないと判断し、上空へ向け黒煙を放った。黒煙の勢いと重力が合わさり、凄まじい速度で落下していく。そしてなんとか、レンの斬撃をかわした。
……負けた。高速で落下しながら、黒き魔術師は思う。勇者への対策として、不壊の大亀を動員した。宿敵の読みを外すために、黒穿という新たな魔法も開発した。しかし宿敵たちは、それを小細工と言わんばかりに、さらに強大な力で弾き返してきた。
黒き魔術師は、笑っていた。力を尽くして戦ったことが、楽しかったのだ。
地上が迫ってくる。黒き魔術師は、黒煙を使って着地しようと地上へ手を向けようとした。
――ドシュ、という、聞き覚えのある音が聞こえた。
強弩の射出音だ。近い。なぜだ。気配はなかった。黒き魔術師は反射的に音の方向を見る。矢が、黒き魔術師に向かってきている。その奥に誰かいる。トーマンだ。
……ああ、読み切られたな。
トーマンの放った一矢は、まるで未来を予知して放たれたような、完璧な一矢だった。
黒き魔術師が、矢に手を向け、防ごうとする。しかし黒煙が出る前に、矢が黒き魔術師の掌を貫く。そのまま、黒き魔術師は落下した。
体中に、衝撃が走る。もはや体のどこを負傷していて、どこが無事なのか黒き魔術師にはわからなかった。
蹄音が地を震わせながら近づいてくる。トーマンが、剣を構え疾駆し、黒き魔術師に迫ってくる。
黒き魔術師は、微笑んだ。
――良くやったな、宿敵。さあ、私の首を獲れ。
黒き魔術師に、もう戦意は残っていなかった。
ーーー
強弩を放つや否や、トーマンは黒き魔術師へ向け疾駆した。
止めを刺す。トーマンは、剣を握る手に力を込めた。
黒き魔術師に、近づいていく。黒き魔術師と目が合う。彼は、すべてを受け入れるのかように、微笑んだ。それは、何かから解放され、ほっとしているような様子にも見えた。
――わかった、宿敵。望み通り、首を飛ばしてやる。
トーマンは、剣を振りかぶった。決着の時が近づいている。あと数歩、三歩。
「……これで、決着だ、黒き魔術師!」
トーマンは、剣を振りかざそうとした。――その時、稲妻のようなものがトーマンの頭の中を走った。耳鳴りが頭を割くように響き、視界はぼやけ、現実感が剥がれていく。頭が、割れそうになる。憎悪が、悲しみが、そして恐怖が、頭の中を染めていく。
宙を浮いている。いや、落馬している。耳鳴りがひどい。視界は、何かを見ているようで何も見えていない。なぜか、首筋に剣があった。自分で自分の首を斬ろうとしている。ひどく怖い。死んでしまった方が楽だと思うほどに。
……この状態は、経験がある、とトーマンは思った。10年前、”最前線”での魔王との決戦。そこで”特別認識個体”魔王に浴びせられた、”魔王の意思”による精神汚染だ。”魔王の意思”は精神に干渉する魔法で、魔物を”特別認識個体”に変質させる力を持つとともに、人間の認知を狂わせる力も持っていると仮説が立てられていた。
トーマンの頭の中は、恐怖をはじめとする様々な感情でグチャグチャになっていた。しかし、冷徹な将軍であれというトーマンの信条と、過去に一度これを経験したことが、”魔王の意思”の干渉を食い止めた。トーマンは、自ら首筋に当てていた剣を無理やり引きはがし、自身の腿に深く突き刺した。
激しい痛み。吹き出る血。それが、トーマンを冷静にさせた。
「……そうだ、黒き魔術師は――!?」
視界が戻ったトーマンが周囲を見渡す。黒き魔術師がいない。羽ばたく音。空を見上げると、大きな鷹の魔物が飛び立っていた。口に、黒き魔術師を咥えている。
「”特別認識個体”、戦空の大鷲……」
黒き魔術師を確保し去ろうとしている戦空の大鷲は、主に”最前線”に出没する凶悪な”特別認識個体”だ。追いつける相手ではない。
遠く小さくなっていく戦空の大鷲と黒き魔術師から目を離し、トーマンは戦場を見渡した。
戦闘は、終結しつつあった。”特別認識個体”が去り、統率を失った魔物を、レンとカリアが狩りまくっている。ハナが、副官の馬に乗せられ、治癒して回っている。
戦場のあちこちが、黒煙と黒炎に覆われている。兵士や魔物の血と肉が、そして死骸が散らばっている。それは、この総力戦の凄惨さを物語っていた。
……勝ててはいない。
トーマンは思った。
――死ななかっただけだ。お互いに。そうだろ、宿敵。
トーマンは、もう見えなくなった黒き魔術師の方をずっと見つめていた。