62.太湖の都市の宿敵(後編-7)
ハナは、今すぐにでもレンを治癒しに駆け出して行きたかった。しかし、レンとハナの間にも魔物が充満しており近づけない。それどころか、ハナを守る周囲の兵が次々と魔物に踏み潰されている。ハナは、ガタガタと震えていた。
兵士の悲鳴。魔物の吠え声。剣がぶつかる音。人が潰れる音。
ハナは、深く深く閉ざしていた記憶の奥底から、似たような情景を思い出した。
あれは、自分がもっと小さい時のことだ。家族が、魔物に襲われた。いきなり魔物に頭を喰われた父。子供を庇って死んだ母。お前だけは逃げのびろと言い、魔物へ向かっていった兄。
自分だけが助かり、孤児寮に預けられた。何も考えられず、毎日ぼうっと窓の外を眺める日々の中で、レンに出会った。レンもハナと同じく、魔物により家族を失いここに来た人間だった。心を閉ざしていたハナに、レンはしつこく声をかけ続け、いつしか仲良くなり、ずっと一緒にいるようになった。
農作業をさぼって裏山で遊んでいたときに、木登りをしていたレンが落下した。岩の上に落ちて、全身が折れ曲がり、血を吐いていた。ハナは、もう二度と大事な人を失いたくないと思った。泣き叫びながら強く祈ると、緑の光が出てきて、レンを治癒した。それが、最初の治癒だった。
「右から来ます、防衛を厚く! 正面は、私が食い止めます!」
ラーラの声が聞こえ、ハナは顔を上げた。肉薄してくる亀の魔物を相手に、ラーラが戦っている。魔物の群れの向こう、レンがいると思われる場所からも、カリアの叫び声が聞こえる。
ハナは考える。遠い記憶の彼方、父と母と兄がいた。大好きだった、と思う。いるのが当たり前で、失うことなど想像をしたこともなかったが、失われた。――今はどうだ? カリアを、なによりレンを、ついでにラーラも、自分は失おうとしている。
……ハナは、杖を持って立ち上がった。
そして、魔物の方へ歩いていく。
「ハナ、こっちは危険です! すぐに下がって!」
ラーラの声を、ハナは無視した。
ハナは目をつむり、杖を額に当てた。レンが誕生日にくれたお気に入りの杖だ。そして、強く祈る。もう二度と、大事な人を失いませんように、と。
何か、今までにない感覚が自身の中に湧いてくる。それはまるで、幼い頃に夢中で遊んだ宝物を、何年ぶりかに見つけ出したような、懐かしい気持ちに似ていた。
「――過剰治癒」
ハナが、青い光に包まれる。そして、魔物の群れへ踏み出して行く。
「ハナ、逃げて! ハナ!!」
ハナの前には、”特別認識個体”不壊の大亀がいた。周囲の兵士たちを噛み殺し踏み殺し切った不壊の大亀が、ハナを踏み潰そうとしてくる。
「――もう、逃げませんわ」
ハナが、不壊の大亀を見据えて言う。ハナの放つ青い光に触れた不壊の大亀の足が、枯れ、縮み、風化し、土くれのようにボトリと落ちた。不壊の大亀が、動揺したように足を止める。
ハナがずいと足を進める。不壊の大亀は後退しようとするが、亀の魔物が密集していて下がれない。ハナの放つ青い光が、不壊の大亀の頭へと到達する。不壊の大亀は、首を甲羅に引っ込めて避けようとする。
ハナの光が、不壊の大亀の甲羅を包んでいく。光に触れるや否や、甲羅にヒビが入り、割れ、崩れていく。そしてハナは、さっきまで不壊の大亀だった残骸を踏みしめ、進んで行く。
亀の魔物は、密集しすぎて逃げられない。ハナが歩く。ハナの放つ光に触れた魔物が崩壊していく。密集した魔物の中を、ハナはゆっくりと歩いていく。ハナの軌跡には、さっきまで魔物だった土くれのようなものが転がっている。まるで、海を割って歩いていくような、超常の光景だった。
「……これが、聖女の力か」
トーマンは、騎馬隊の足を止めてその光景に見入っていた。いや、戦場の全てが、黒き魔術師すらも、ハナを見つめている。
そしてハナは、レンのもとへたどり着いた。光に触れたレンと、ついでに瀕死のカリアも、たちまち回復していく。
レンが、パチリと目を空けた。
「……さぁ、レン」
ハナがレンへ語りかける。その微笑みは、まるで世界を救済する聖女のそれかのように、慈愛に満ちていた。
「――あなたの番ですわ」
レンは、涙の痕を残し埃にまみれたハナと、その後方に浮かぶ黒き魔術師を見て、自身がやるべきことを理解した。
「うん、わかった」
瞬間、レンが跳ね起きあがり、すぐそばに転がっていた強弩を拾う。通常の弓の倍の大きさがあり、数人がかりで扱うその弓を、レンは弓が壊れるほどに引き絞り、即座に黒き魔術師へ向けて放った。
風を斬り裂き、唸りを上げて矢が走る。凄まじい矢の速度に、黒き魔術師の反応が遅れた。矢が轟音を上げながら、黒き魔術師の右腿を貫き、黒き魔術師の足が半分千切れた。矢はそのまま、地平線の向こうへ飛んでいった。
「――あいつを、倒すね」
レンが跳躍し、黒き魔術師へ向けて飛んでいく。それを見る黒き魔術師の顔が歪む。いや、それは笑っているようにも見えた。
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