57.太湖の都市の宿敵(後編-2)
太湖の都市の駐屯地の外、太湖を囲むような長大な防衛線。軍勢が整列していた。兵士たちは、戦を前にして、みな固い表情をしている。トーマンはその中央で、作戦の最終確認をしていた。
太湖の都市および太湖周辺は、たくさんの土塁や柵などの防衛線がある。中央大河の制水権を守るために、長年をかけてトーマンが整備したものだ。
しかし今度の戦に至っては、トーマンは防衛線の中に籠るつもりはなかった。黒き魔術師を討伐するには、野戦を仕掛ける必要がある。また、レンやハナは籠城戦には向かないだろう。彼らはじっとしていることが苦手だ。
防衛線の外に全軍が展開され、兵士たちの緊張は高まっていた。太湖の都市の駐屯兵の損耗率は、”最前線”に次いで高い。籠城戦でも、毎回相当の死者が出る。ましてや今回は野戦だ。兵士たちは、自身の死のにおいを感じているだろう。
魔王勢力の出現により、死は昔よりもずっと身近な存在になった。兵士たちは人類のために死ぬということを叩きこまれており、たいていは覚悟ができてる。ただ、やはり奥底では生きたいという気持ちがある。
今のこの兵士たちの緊張感は、あまり良くないものだとトーマンは思った。どこかで恐慌状態に陥る可能性がある。しかし、どうにかできるものでもない。
入念に作戦を確認していると、突然、周囲がざわついた。整列した軍勢を押しのけながら、息を切らした伝令兵が駆け込んでくる。トーマンのそばまで来た伝令兵が、馬を降り膝に手を当て荒く息をつく。周囲のざわつきが強まっていく。通常の様子ではない。
そして、伝令兵は、いちど息を大きく吸い込み、言った。
「――太湖の都市に、黒き魔術師が出現!」
「まさか、都市が焼かれたのか!?」
場が、しんと静まり返る。トーマンの背中に、冷たい汗が走る。ここの兵士の家族の多くは、都市に住んでいる。都市に被害が出ると、兵の絶望がさらに深まる。
伝令兵が、もういちど大きく息を吸う。そして、叫ぶように報告した。
「――都市にいた勇者と聖女が、黒き魔術師を撃退!! 黒き魔術師は退散!!!」
原野に、伝令兵の大声がこだまする。それ以外の音はない。皆、何も言えなかった。
――そして歓声。地鳴りのような歓声だった。兵士の家族が住む都市を襲いに来た黒き魔術師を、また勇者が撃退したのだ。勇者と聖女がいれば、勝てるかもしれない。生き残れるかもしれない。兵士たちの恐怖がかき消えていく。みな、武器をかかげ、叫ぶように歓声をあげている。戦う前になのに、まるで勝ったかのようではないかと、トーマンは思った。
二頭の騎馬が駆け込んできた。巡回兵が、レンとハナを乗せてやってきた。レンとハナは、馬に乗れることが嬉しいのか、はしゃいでいる。戦を目の前にしてこんな表情をできるやつはいない、とトーマンは思った。兵士たちには、物語の主人公のように見えているだろう。
「……さすが、勇者と聖女だな」
トーマンは呟いた。兵士の恐怖は消え、むしろ戦意が固まっていた。演習場から出るなと命じていたレンとハナが、なぜ都市にいたのかは疑問に思ったが、もはやそんなことはどうでも良かった。
「……勝てるかもしれない」
これまで何度も黒き魔術師との戦闘を続けてきたトーマンが、初めてそう思った。
◇◇◇
黒き魔術師は、魔物の群れが太湖へ向けて移動していくのを、上空から眺めていた。先ほど太湖の都市で、勇者の攻撃を受ける一幕はあったが、耳を斬られただけだ。戦闘を止める気はなかった。
眼下を移動しているのは、自身の配下である300体の魔物群である。別方向から、さらに200体の亀の魔物が、不壊の大亀に率いられ太湖に向かっている。合計500体。通常の侵攻の二倍の戦力を以って、トーマンと勇者を倒さんとしていた。
しばらく進むと、太湖の都市の駐屯軍の姿が見えた。防衛線に籠らずに、原野に全軍を展開している。
「ああ、やはり、わが友だ……!」
黒き魔術師は、トーマンと自身の思いが通じているのを感じ、笑みを浮かべた。やはり、今度こそ、お互いを殺し合おうとしている。黒き魔術師を殺す機会を伺うため、トーマンは撃って出ているのだと、黒き魔術師は確信した。
原野に展開している駐屯軍の先頭に、最精鋭の近衛騎馬隊がいる。トーマンの姿が、その百騎の近衛騎馬隊の先頭に見えた。指揮官には二つの種類がある。後方から全軍を指揮する指揮官と、前線で兵の先頭に立つ指揮官がいるが、トーマンは後者だった。
お互いが、視認できる距離に入った。黒き魔術師は、魔物に総攻撃を命じた。魔物の群れが速度を増して行く。特に動きが機敏な犬の魔物の群れが、他の魔物を置き去りにして突出していった。
ーーー
盛大に土煙を上げながら、魔物が突進してくる。犬と熊と猪の魔物の混成魔物群だ。トーマンは軍の先頭で、その圧力を感じていた。
トーマンの隣には、大きな白馬に乗ったカリアがいる。白馬は、トーマンがカリアに与えた駿馬だ。
トーマンが、片手をあげ、号令をかける。
「――強弩、撃て!」
通常の倍ほどの大きさの弓から、太く長い矢が放たれた。矢は唸りをあげ飛んでいき、何体かの魔物に突き刺さった。強弩は、対黒き魔術師用にトーマンが開発した平気で、通常の弓よりも遠くへ攻撃が可能だった。魔物は、構わず突進を続ける。
「弓、撃て!」
通常の矢も放たれた。魔物の頭上へ、雨のように矢が降り注ぐ。何体もの魔物が倒れていく。それでも、魔物は足を止めない。魔物の血走った目が見えるほどに、距離が詰まってきた。
トーマンが、剣を振り上げた。兵士たちの視線が、トーマンの剣に集まる。剣を振り上げるのは、突撃準備の合図だった。
「カリア、おまえが先頭だ」
トーマンがカリアに告げた。カリアが、口角を大きく上げた。笑っているらしい。
「ほほう、心躍る命令だな。この大戦の、名誉ある先鋒を命じられるとは」
「――突撃!」
トーマンが剣を振り下げ馬腹を蹴った。近衛騎兵隊が一斉に駆け出す。先頭のカリアが、ぐんぐん突出していく。カリアの跨る白馬は、兎のように飛ぶように駆けていた。
魔物の群れ。ぶつかる。前方を走るカリアが強烈な殺気を放つのを、トーマンは感じた。
カリアの雄叫び。長剣を振るう。凄まじい斬撃だった。犬の魔物が、まるで普通の犬かのようにカリアに斬り飛ばされる。近衛騎兵隊もカリアに続いて、魔物の群れの中に飛び込んでいく。
――こうして、血みどろの総力戦が始まった。