50.太湖の都市の宿敵(前編-1)
「こら、レン! 甲板を走り回らない! ハナ、マストに登らない! カリア、勝手に魚を獲りに川に飛び込まないで!」
商人の都市を出発し、太湖の都市へ向かって中央大河を下る船上。魔術師団長ラーラの金切り声が響いていた。レン、ハナ、カリアは、初めて乗った船をそれぞれの方法で満喫していた。
設備は壊す、規律は守らない、トラブルが起こればカリアが暴力で解決しようとする始末だ。ラーラも水夫たちも困り果てていた。
「ラーラさん、あの連中をいつまで船に乗せなきゃならないんですか?」
「……すみません、もう少しで太湖の都市につくので、それまで辛抱を」
ラーラは、水夫たちに対して、彼らが勇者と聖女であると伝えていなかった。勇者と聖女の噂は、今や王都にまで届いている。謎の司祭が、勇者と聖女が起こす奇跡をあることないこと吹聴して回っているという情報があり、それが噂を広めているようだ。しかし、その正体はこんなポンコツたちなのだ。勇者と聖女に希望を感じている人々を、幻滅させたくなかった。
ラーラはいつの間にか、勇者と聖女の幻想と欺瞞を守る立場になってしまっていた。
「レン殿、ハナ殿、大物が獲れたぞ!」
びしょ濡れで下着姿のカリアが、大きな魚を持って甲板に戻ってきた。なぜこいつは、最大船速で川を下っている高速船に追いつけるのか。
「大きいね、さすがカリアだ!」
「レン、早くお魚を焼いて食べましょう!」
レンが、目にも止まらぬ速さで、甲板に向け剣を振るった。甲板から火が上がる。本人曰く、摩擦熱で火を起こしているらしい。
「やめろーっ! 甲板で火を起こすな!」
ラーラが叫び、水夫たちが消火活動を始める。甲板は一気に騒々しくなった。レンたちはそれを意に介さず、魚をさばき始めた。
てんやわんやの状況で、川を下り続ける船。遠くにうっすら、太湖が見えてきていた。
太湖は、対岸が見えないほど巨大だった。その湖畔に、太湖の都市がある。トーマン将軍が駐屯している都市だ。
ーーー
太湖の都市の国王軍駐屯地。演習場を騎馬隊が駆け回っている。一糸乱れず隊列を保ったまま疾駆するその騎馬隊は、相当な練度であることが見て取れた。
演習場の一角に簡易な椅子と机が置かれており、一人の男が書類群に目を通している。
歳は30代だろうか。やや童顔だが、小柄で目つきが悪く、剣呑な雰囲気をまとっている。胸の隊章は、彼が将軍であることを示していた。そこへ、伝令兵が紙束を抱えて男に駆け寄り、直立した。
「トーマン将軍、また被害報告です! さらに3つの集落が燃やされました!」
「どこが燃やされた?」
「麦の村、鍛冶の町、放牧の村にです!」
「太湖の都市に、徐々に近づいてやがるな。攻勢が来るかもしれない。全部隊に、武具と物資の点検をさせろ」
男の名は、トーマンという。”特別認識個体”を討伐した経験もあり、人類で最も優れた将軍と噂されている。トーマンは、黒き魔術師から度重なる襲撃を受けながらも、太湖の都市と中央大河の制水権を8年間守り続けていた。
トーマンは、あの気まぐれな面もある黒き魔術師の性格を徹底的に分析していた。そして、この広範囲にわたる集落への焼き討ちは、黒き魔術師が大攻勢をかけてくる兆候だと睨んでいた。
「……この焼き討ちは、前菜ってことか。クソったれめ」
黒き魔術師を殺す。――それがトーマンの使命であり、悲願であった。戯れのように村々を焼き尽くすこの敵を討伐する方法を、トーマンは何年も考え続けている。
別の伝令兵が駆け寄ってきた。
「報告します! ラーラ魔術師団長が到着しました!」
「よし、すぐに会うぞ。ここへ通せ」
ラーラの動向について、詳しい報告は受けていなかったが、彼女は勇者と聖女を探す任務を受けて商人の都市へ向かったはずだ。ラーラがトーマンに会うため戻ってきたということは、勇者と聖女に関する何らかの手がかりを掴んだのかもしれない。
あの、黒き魔術師の腕を斬り飛ばしたとされる勇者と聖女。
にわかには信じ難いことだった。しかし、届けられたあの腕は、間違いなく黒き魔術師のものだった。
しばらくして、遠目に、演習場へ歩いてくる一団が見て取れた。ラーラの他に、少年と少女、それに戦士がいる。少年と少女は、あちこち駆け回ったりわき道に入ったり、軍事設備に近寄ったりして、落ち着きがない様子だった。それを、ラーラが叱っているようだった。
「……なんだ、あいつら?」
――あの少年と少女が何者なのか、トーマンには見当がつかなかった。