レーヴの謎行動
カフェモカを持ったシェリは裏庭を訪れた。
ヴェルデはいなかった。毎回いるとは限らないので今日はいない日になる。
適当な場所にハンカチを敷いて座ったシェリは、1人静かな場所で飲めるカフェモカの美味しさに安心した。
食堂でミルティーに同席を誘われた時の衝撃と緊張は、此処にいると風化してさらさらと消えていった。
王家主催のパーティーは明日。婚約者のレーヴが迎えに来て、入場する際はエスコートをしてくれたが明日からは1人だ。
青みがかった銀髪によく似合う礼服を着たレーヴを間近で見るのが数週間前の夜会が最後だと知っていたら、脳裏に焼き付くように凝視していた。
冷めない内に飲もうとカフェモカを何口か飲んだ。香ばしいコーヒーに甘いクリームとチョコレートシロップがかかり、個人によっては非常に甘く感じる。
時間が経ってもヴェルデが来ないのを見ると今日は別の場所で一時を過ごしているのだろう。彼がいたら丁度いい話相手になってくれたが、いないならいないでのんびりと過ごす1人の時間も悪くない。
「明日のパーティーが終わったらお父様に次の婚約について話を切り出しましょう」
娘の我儘を叶えてくれた父を1日でも早く安心させたい。
オーンジュ公爵家は王族に次ぐ力を持つ家。予想だがシェリの我儘がなくてもレーヴと婚約していた可能性は恐らく高かった。
大人しく待っていたら、幸福の糸はシェリへ向いてレーヴと結ばせてくれただろうに。己の我儘が誰かを不幸にさせてしまった。
相手が誰だろうと受け入れる所存。気持ちを切り換えようと程好く冷めたカフェモカを一気に飲み干そうとした時だった。
乾いた靴音が響く。人気のない裏庭へ来る相手――ヴェルデだと思ったシェリは「あら、今日は遅い登場ね」とややからかった口調で話し掛けた。
だが、待っても相手は返事をしてくれない。怪訝に思ったシェリは振り向いた。
――手に持っていた紙コップを落とさなかった事を誰でもいいから誉めてほしくなった。
「……レ……王子、殿下……」
長年の癖からレーヴと呼びそうになったのを咄嗟に王子殿下と言い直した。長い睫毛に縁取られた紫水晶の瞳は大きく開いていた。
ヴェルデだと思った相手は、明日ミルティーとの婚約が正式発表される王国の第2王子――レーヴ・クロイス本人だった。
青みがかった銀髪は気のせいか乱れており、王族だけにしか受け継がれない特殊な宝石眼は冷徹な青でシェリを見下ろしていた。睨んでいると表現してもいい。婚約解消を決めた時から、必要最低限しかレーヴの前には姿を現さないでおこうと決めたのにこんな形で出会ったしまうとは……。
この6日間――決めた日を入れて16日間――の努力が水泡に帰した。
ハッと、なったシェリは今更ながら立ち上がって淑女の礼をしてみせた。王族への礼儀は大切だ。たとえ、平等を掲げているクロレンス王立学院内であったとしても。
頭を下げて願う。早く何処かへ行ってくれ、と。待っても待ってもレーヴに動く気配はない。声を発する気配すらない。
どうしたのものかと困っていると――
「……シェリ」
「!」
反射的に顔を上げそうになったのを理性で抑えた。会いに行っても常に嫌そうな顔を向けられ続け、何を話しても呼び掛けても名前すら呼んでもらえなかった。国王夫妻や王太子夫妻に叱られても意地でもシェリと良好な関係を築こうとしなかったレーヴが初めてシェリを呼んだ。
スカートの裾を握る手に力が入ってしまった。
婚約が消えて呼ばれる程皮肉な事はない。
レーヴの意図は分からないが歓喜に震える心を強制排除するべく、シェリは冷静な振りをしてこの場を乗り切る作戦に出た。
「恐れながら、王子殿下。もう、わたしとあなた様は婚約者ではありません。ミルティー様に申し訳がありませんのでこの場は失礼します」
――言えた……! とっても冷静に言えた……!
声に異変もなく、態度は今までレーヴに見せてきた必死さは鳴りを潜め別人へと化したシェリを……
「……」
青い宝石眼を見開き、茫然とするレーヴは傷付き途方に暮れた幼子な相貌を見せていた。
――何故……そのようなお顔をされるのですか……?
態度から発せられ続けたシェリ大嫌いオーラを纏っていたレーヴと目の前にいる彼は同一人物なのかと疑いを抱くも、宝石眼を持つのは王族のみ。加えて、偽ることも不可能。紛れもなく本人。それが余計シェリを混乱させた。
目の前にいる相手の本物偽物説は置いておき。今になってシェリに会いに来たレーヴの思惑を推理してみた。
結果――完敗である。そもそも、推理をする材料が無さすぎた。
交流はシェリが一方的に会いに行って、常に嫌そうな顔をされても返事をされなくてもめげずに話し続けただけ。役割として誕生日プレゼントや定期的なプレゼントは贈られても、彼本人の心の籠ったプレゼントは予想するまでもなく1度もない。
嫌われてると自覚しながらも、恋はいつか実ると信じた。恋愛小説に夢を抱き過ぎていた。現実は物語の世界と違う。物語は読者が満足するよう、主人公とヒロインは必ず結ばれハッピーエンドとなる。自分のようなお邪魔虫は馬に蹴られて死ねと罵られるだけ。
好きで悪役に生まれた訳じゃないのに。幸運なのは、我儘だった娘を見捨てず溢れんばかりの愛情を注いでくれた父がいてくれたこと、優しい使用人達に囲まれていたこと。たった1つでも欠けていたら、人としてもシェリは終わっていた。
今やるべきはこの場をどう乗り切るべきか、である。
他人行儀に接せられてショックを受けて呆然としているレーヴ。
あれ? とシェリは内心首を傾げた。
(これ、チャンスでは……)
レーヴの謎の衝撃は解釈のしようがないが逃げるなら今が絶好の機会。試しに顔の前で手を振ってもレーヴはピクリともしない。
考えるよりも最優先事項は体を動かし、裏庭からの逃亡――否、レーヴの前から消えること。
「……これ以上お話がないようであれば、わたしは失礼致しますわ」
完璧な淑女の礼を見せると彼が我に返る前に素早く逃げ出した。
走らず、だが急いで、次は図書室へ向かう。追い掛けて来る気配がない。彼は一体何をしに裏庭へ来たのか。
……何故、今更になってシェリの名前を紡いだのか。
「……っ」
正直に明かそう。
心が破裂せんばかりに嬉しかった。初めて名前を呼んでもらえて。身嗜みには気を遣う彼が髪を乱してまで探す相手はミルティー以外いない。
隅っこへ移動したシェリは読みもしない本を取ってページを開いた。読んでいる振りをしながら、ゆっくりと思考していく。
シェリの前にレーヴがそうまでして現れたのは、ミルティー絡み。シェリが大きく関係しているから、今回嫌々ながら探しに来たと推理出来た。我ながら完璧な推理だと鼻が高くなった。
……激しく落ち込んだのは言うまでもない。
机に顔を突っ伏したシェリ。周囲に誰もいなくて良かった。
「……仮にミルティー様絡みだとしても、どんな用件だったのかしら。
昼食でのやり取りを見ていた? なら、食事中に注意をしてくるわね。それとも、わたしが食堂を出るのを狙って待っていた? ああ……これが1番しっくり来るわ」
婚約解消の話は当然シェリの耳にも入っていると知るレーヴが想い人であり、新たな婚約者となったミルティーの心配をしない筈がなく、彼女を害する可能性が最も高い相手に危機感を抱くのも道理。
「はあ……」
分かっている。分かっていても辛い。
どんな悪意からも守りたくなる庇護欲のそそられる、純粋で可憐な少女になりたかった。生まれたかったは決して言わない。産んでくれた母に失礼である。
母譲りの波打つシルバーブロンドはシェリの誇りだ。幼い頃から毎日手入れは欠かさない。侍女達のお陰で傷みも癖もない美しい髪。
容姿が良いのは自分自身知っていた。中身が駄目なら、せめて見た目だけでも好印象を持たれようと思い付いたのが始まり。
結果はお察しだ。
お昼を食べた後、ぽかぽかな陽気、丁度良い高さの本が枕代わり――。
昼寝をするには持ってこいの条件が重なってしまい、押し寄せた眠気に逆らえずシェリは重たい瞼を抵抗なく閉じた。
規則正しい寝息を立てて眠ったシェリの元に近付く人。
「おやおや……風邪を引いてしまいますよ」
日光に当てられ自然の色を彷彿とさせる緑の瞳に若干の呆れを宿しつつ、制服の上着を脱いだヴェルデは華奢な体にそっとそれを掛けた。
凄艶な寝顔を欲の制御出来ない男が見たら、無防備なせいであっという間に美味しく頂かれてしまう。
詳しい経緯は全く聞かされてないが、恐らくだがシェリとレーヴの婚約解消は後者に原因がある。
向かい側の席に座ったヴェルデは、頬杖を突いて無防備な寝顔を眺めた。
「殿下の異常な意地っ張りの原因は何だったのでしょうか」
それを知っていたら、彼の友人であるヴェルデでも少しは手伝えたかもしれないのに。
第2王子とオーンジュ公爵令嬢は不仲だと有名な話だった。話し掛けても無視をされ、会いに行っても無視をされ、兎に角無視をされ続けてもめげずにレーヴを慕い続けたシェリの鋼の精神に敬意を表したい。
一方で、態度以前に全身からシェリが嫌いオーラを発していたレーヴの心情が1番の謎だ。
クロレンス王立学院を卒業したら、レーヴは婿養子になりオーンジュ公爵家を継ぐことと決まっていた。オーンジュ公爵家は王家に次ぐ権力を持った家。
王子が婿入りする家としては最上級といっていい。
シェリはレーヴにこそ嫌われているが他からは好印象を抱かれていた。
本人は確実に知らない話である。
シェリが自身を評価するなら、冷たく我儘な傲慢令嬢、とするだろう。
学院内で何度か、ヴェルデが好意を抱くミルティーやマナーに不馴れな子女を見掛けるとキツく注意をしていたのを目撃した。
内容を聞いていると言い方はキツい上に、元々のシェリの人間離れした美貌のせいで余計恐怖心が生まれそうだった。
ただ、言っている事は正しく相手に対する気遣いも忘れていない。
言い方と見た目のせいで冷たく恐ろしい人認定されるのだろう。これでシェリを苦手に思う人もいれば、ミルティーのようにもっと上達してシェリに誉めてもらいたい人もいる。
他にも、男爵家の娘が侯爵家の娘や取り巻きに虐められている時は注意をする時以上の冷徹さと言葉の鋭さに両者揃って震え上がっていた。学院は平等を掲げている。能力が高ければ、平民だって入学出来るし、下位であろうと女性であろうと文官になって出世出来る可能性だってある。
家柄しか取り柄のない者に将来有望な人材の芽を潰されるのは国にとっても痛い。
ヴェルデの抱くシェリの印象は、見た目と言葉のキツさのせいで遠くに見てしまいがちだが実際はとても話しやすく、話題や知識も豊富で長くいても飽きない魅力を持った女性、といったところ。
レーヴがシェリを嫌う理由をヴェルデは聞かされていない。毎日毎日、会いに来てはレーヴに無視をされ悲しげに悔しげに戻って行く姿を何度も見ていたので同情の念を抱いていた。
1度、理由を聞いても教えてもらえなかった。
『殿下が思うより、オーンジュ嬢はあなたに相応しい方かと思いますが』
『……ヴェルデ。お前には関係がない』
『……』
頬杖を突いてシェリの寝顔を眺めてもレーヴの心を読むのは無理である。
まず、本人がいないので。
婚約が解消されてからは、自分からシェリに会いに行っているらしいが面白い事に1度も会えていないと聞く。彼女が逃げているのではないか、とヴェルデは予想する。
「毎日殿下の事を思っていたオーンジュ嬢なら、多分だが殿下が今何処にいるかを言い当てそうだが……殿下になると全く違う場所へ行きそうだな」
これが2人の思いの差、なのか。
相手がシェリからミルティーになる。【聖女】の生まれ変わりなら、公爵令嬢である彼女と婚約解消となっても仕方ないと周囲は認識する。【聖女】は王家が保護をしないとならない貴重な人間。義務ではないが【聖女】と結婚した王子は少なくない。
瞼を閉じたヴェルデは少し思案する。
王家主催のパーティーが終わった日からは、父に従い見合いを受ける。
……相手の選別に口を出して良いのなら――
読んでいただきありがとうございます。