僕が好きなのは……
重なり合う、シェリとミエーレの唇。
瞠目する紫水晶の瞳と合わさず、深慮を彷彿とさせる碧眼は挑発的感情を宿してレーヴを見た。
シェリは嫌いな相手。アデリッサにずっと影から嫌がらせをしていた最低な女性。
……頭では何度そう言い聞かせても、心が張り裂けんばかりに悲鳴を上げていた。
他人行儀に第2王子殿下と呼ばれた時も、親しみのない無感情な瞳で見られた時も、レーヴの意思とは関係なく大きな刃で心は切り裂かれる。
ミエーレとの口付けは特大の刃物で振り下ろされ、悲鳴を上げる暇も与えずレーヴを痛めつけた。
あの口付けを見せ付けられた日から日数が過ぎた。
愛しいアデリッサと一緒にいられて味わっていた幸福も空虚なもので、愛しい感情はしっかりと心あるのにアデリッサの姿も言葉も何も残らなくなった。涙を堪え潤う栗色の瞳も愛らしい顔も……そこに存在するだけの、愛しい物にしか捉えられなくなった。
どんな時でも考えるのはシェリのことだけ。
朝早くから登校している生徒は少なくない。あの口付けを目撃したのはレーヴとアデリッサだけじゃない。噂は瞬く間に広まった。第2王子の婚約者がヴァンシュタインの天才と恋仲とか、あの2人は昔馴染みにしては親し過ぎるとか、色々。公にレーヴとシェリの婚約解消されていないのでお互いが恋人を作る始末は、当然刺激に飢える彼等の格好の餌となった。
ある日。レーヴは放課後、両手に分厚い本を抱えて歩くミルティーと遭遇した。
「ミルティー……」
「あ……殿下」
ミルティーはレーヴに礼をして見せた。最初に出会った時より、洗練された動作と堂々とした姿に目を細めた。最初、彼女はシェリに随分な言葉を吐かれていると耳にした。【聖女】であるがずっと平民として暮らしていた彼女にとって、貴族の教養を学ぶのは辛い日々だったろう。幸いにも、彼女を養女として迎えたラビラント伯爵家は心の優しい者ばかりで平民だからとミルティーを馬鹿にする者はいない。
レーヴが声を掛けるとミルティーは頭を上げた。
「何だか久しぶりだな。その本は教会から?」
「はい。歴代の【聖女】が残した魔法や日記が記されていまして、今の私に必要なことが沢山書かれているんです」
「そうか。ミルティーなら、すぐに歴代の【聖女】のような立派な【聖女】になれるよ」
「ありがとうございます。……ところで……あの……今日ナイジェル様は……」
最近ずっと一緒にいるアデリッサが側にいないのを不安げに思われ、安心させるように微笑んだ。
「今日は一緒にいないよ。考え事があってね」
「そう……ですか……」
レーヴはある提案をした。
「ミルティー。今から時間はあるかな?」
「は、はい」
「すまないが少しだけ付き合ってくれないだろうか」
「どんな御用でしょうか?」
「……最近の僕は、君の目にはどんな風に映っているのか教えてほしいんだ」
シェリに辛辣な物言いをされてもへこたれず、親しくなろうと前向きなミルティー。彼女の人を信じる心と前向きさは今のレーヴにとって必要だった。言葉を偽らないミルティーに、今の自分がどんな風に見えるのか知りたい。
悩む素振りをしつつも、強い意志を宿した金色の瞳が真っ直ぐ青の宝石眼を見上げた。
「分かりました。図書室にヴェルデ様を待たせていますので、ヴェルデ様も交え話しましょう」
「ヴェルデが?」
ミルティーはヴェルデを恐らく好いている。ヴェルデのことを教えてやると他の誰の話題では見せない嬉しさを浮かべていた。
別の日に、と提案する前にミルティーは言い切った。
「ヴェルデ様がいた方がいいです。絶対に!」
押し切られたレーヴは適切な距離を保ちミルティーと図書室に入った。紳士として、本を持つと名乗り出たいが教会が保管する貴重な【聖女】の本は当代にしか持つことを許されていない。
隅に設置されているテーブル席に座って窓から外を眺めていたヴェルデの新緑色の瞳がミルティーとレーヴに向いた。
何故此処に? と言いたげに新緑色の瞳が丸められた。
王家主催のパーティーの際、呆れながらもアデリッサとの進展を望んでくれたのに、いざ両思いになると詰られた。相手が違うと。最初は何を言っているのだと憤ったが、先日のシェリとミエーレの件のせいでヴェルデの知る事実を聞きたくなった。
ヴェルデの前に座り、気まずげにそう紡ぐと……そうですか……と小さな声で返された。
「ヴェルデ様……」
ヴェルデの隣に座るミルティーが難しい表情で見やる。とても言い難そうな顔だ。
「……殿下。殿下は、アデリッサ様の好物が何か言えますか?」
「アデリッサの……? 勿論。アデリッサはカフェモカが好きだ。特に、生クリームをたっぷりと載せたのを好む」
「…………私が知っている限りでは、アデリッサ様はラム肉のソテーが好きだったと記憶してますよ」
「え」
基本好き嫌いはせず、甘味が大好物のアデリッサのお気に入りがカフェモカ。なのにヴェルデはラム肉のソテーと全く違う種類の違う料理名を出した。
「アデリッサは甘い物が好きで……」
「ええ。多分、好きでしょうね。他には?」
「ハチミツを入れたホットミルク……」
「アデリッサ様はミルク嫌いで有名ですよ」
「ミルク嫌いなのはシェリの方だ」
「いいえ。殿下が挙げる好物は、全てオーンジュ嬢の好物です」
衝撃が走った。アデリッサとシェリの好物を入れ替えて認識しているのかと。違う、違う、と力なく繰り返すがヴェルデは構わず続けた。
「なら、次です。ミエーレの昔馴染は誰ですか?」
「当たり前のことを……アデリッサだ。ヴァンシュタイン公爵とオーンジュ公爵は……」
オーンジュ公爵?
アデリッサはナイジェル公爵令嬢。オーンジュ公爵令嬢はシェリ。
ヴァンシュタイン公爵とオーンジュ公爵は幼い頃からの友人同士。父親繋がりでお互いの子供が仲良くなるのは良くあること。
思考が追い付かない。
アデリッサの事が全てシェリへと変わる。
「……ヴェルデ……僕は……今までずっと思い違いを……?」
「いいえ。決して。……殿下、今から話すことを信じるか信じないかは殿下次第です」
「ヴェルデ様……」
ミルティーが心配げな面持ちでヴェルデを見つめる。彼女も何かを知っている。自分に起きている異変に。
ヴェルデとは付き合いが長く、誠実で他人に決して偽りは申さない。信頼を寄せる彼が真剣な眼差しで告げるのだ。
「……信じる」
レーヴがヴェルデを信じるのは信頼の証。
「ありがとうございます。では――――」
ヴェルデが語り始めようとした矢先。
「レーヴ殿下あ……! やっと見つけましたあ……!」甘ったれた可愛らしい声が静粛を重きとする図書室に響いた。声を聞いただけで込み上がる愛しさは本物なのに、華奢で可憐な姿は庇護欲をそそられるのに……
心の空洞は塞がらなかった。
要の時間になると邪魔が入るのは、古来から続く悪しきタイミングである。レーヴがいるのを見るなり、此処から連れ出そうと腕を引っ張るアデリッサ。沸き上がる愛しさや可愛さは本物なのだろうが、ミエーレとシェリの口付けのせいで信じられなくなっていた。
「もう、探しましたわ殿下」
「すまない。ミルティーに今度教会で行われるバザーについて話していたんだ」
「ヴェルデ様がいるのは?」
「ヴェルデも何度か参加しているから、参考までに意見を聞きたいと思って呼んだんだ」
咄嗟に紡いだ嘘をアデリッサは見抜けなかった。教会では定期的に孤児院で作られた商品や料理を販売するバザーが開催される。【聖女】に目覚めたミルティーも1度参加済み。国王から【聖女】を見守るよう言い付けられているレーヴが教会関連の行事にミルティーと相談するのは、なんら問題ない。
「そうだったのですね。わたくしも同席していいですよね?」
「いや、アデリッサは席を外してくれ。もうすぐ終わるから、教室で待っていてくれないか?」
「そんなあ……!」
拒絶され、悲しげに顔を歪められ、心が揺れる。チラリとヴェルデを見ると小さく首を振られた。
屈するな、と。
レーヴは心の痛みに気付かない振りをし、立ち去るようアデリッサに告げた。
「お願いですっ、わたくしも同席させてくださいませ! 決して、お邪魔はしません!」
「アデリッサ。君は聞き分けの悪い人じゃなかったのに、急にどうしたんだい? 第一、君はバザーには無関係だろう」
「そ、そうですが……」
頑なにいたがるアデリッサに不信感が募る。早くヴェルデから話を聞き、事実を知りたい。
「アデリッサ様」ヴェルデが助け舟を出した。
「殿下が困っておいでです。殿下を想うなら、大人しく引き下がってくれませんか」
「っ、酷い、酷いわヴェルデ様っ、わたくしのことが嫌いだからって除け者にしようとするなんて」
「正直言うとアデリッサ様には、特別な感情は何も抱いていないのでご安心ください。一般論を申しただけです」
「なんですって!!?」
除け者にされた挙句、全く興味がないと言われ、悲しげな相貌から一転――怒気溢れる形相にレーヴが面食らう。彼女はこんな激情を誰かに見せる人じゃない。
レーヴの視線を釘付けにしていると察し、はっと怒気を消し、大粒の涙を流したアデリッサは図書室を飛び出して行った。
勢いよく席から立ち、追いかける勢いのレーヴを「行ってはなりません!」とミルティーが止めた。
聞いたことのないミルティーの大声には、ヴェルデも驚いていた。
ミルティーは、此処が静粛を重きとする図書室だと思い出すと、瞬く間に顔を赤く染めて「……すみません… …」と縮こまった。
「殿下。ミルティーの言う通りです。どうか、彼女に免じて留まってくれませんか」
「……分かった」
アデリッサを今すぐに追い掛けたい衝動を抑え付け、レーヴは再び椅子に座り直した。
――改めて、聞かされたヴェルデの話にレーヴは暫くの間何も考えられなかった。
レーヴが好きだったのはシェリ。
シェリへの好意が“転換の魔法”によってアデリッサへと強制的に変えられた。
アデリッサ本人は“魅了の魔法”と思い込んでいること。
「これが全てです。殿下。オーンジュ嬢に冷たくされるだけ、殿下の気持ちが揺らぐのが、そもそもの好意の元であるオーンジュ嬢に嫌われたと認識するからです」
大地に太く突き刺さる巨木も、根っこが揺れれば木も揺れる。
アデリッサに感じる愛情は全てシェリの物。
何度か感じた違和感の正体が漸く分かったところなのに――
「で、殿下!?」
ミルティーが慌てる。ヴェルデも然り。
視界が霞み、頬が擽ったい。テーブルに透明な雫が幾つも落ちる。
あの時の浮かれた自分を殴りに行きたい。
シェリに酷い言葉を吐き捨てた自分を殺したい。
解除方法のない魔法を掛けられ、ずっと好きだった相手への好意を全く好きでもない相手に向けられ、好きだった人には……嫌われてしまった。
しかも、シェリの隣にはミエーレがいる。
レーヴは昔からシェリのことでミエーレに相談していた。昔馴染みで誰よりもシェリと親しいミエーレ。
自分とは違い、学力も魔法の才能も群を抜いて優秀なヴァンシュタイン公爵家の3男。
知ってる。
昔から知ってる。
ミエーレがずっとシェリを好きなのを知っている。
「……もう……僕には……僕は……どうしたらいいんだ……っ」
読んでいただきありがとうございます!




