92.衝動
「ちょっと待てって!」
有無を言わさず彈は拳を繰り出した。それを間一髪、対角の手で逸らす習碁。
「お、おいっ。こんなやり方っ」
「手段を選んでる時間も余裕も無いんですっ。あなたの協力以外に……道は無いっ!」
彈は続けて数発の手を繰り出した後、頭を下げて後ろ回し蹴りをする。
「手荒なヒーローだっ!」
「!」
習碁は蹴りを受け止める。円環を助けた時点で体術が優れていることは分かっていた。それでもここまで動けることに驚いた。
(強い! 一般人のくせしてなんて“やり手”だよっ)
長い脚を伸ばして蹴りを放つ。
(ジンゴメンにだってすぐ入隊出来そうだ……。けど、流石に格闘は俺に分がある……!)
習碁の攻撃を叩き落としつつ、前に進み反撃に転じる。技量はもちろん、私服の習碁がフル装備の彈に敵う道理は無かった。
形勢は覆ることなく、彈有利のまま横蹴りで飛ばされる習碁。デニムジャケットの両袖に埃が付く。極力怪我を負わせないように習碁のガードの上からのみ攻撃を当てていたからだ。
「くっ……!」
膝をついている習碁。多少なりとも息が上がっている。
「はあ。……諦めてもらう、必要があるな」
習碁の呟きを聞いて彈はより一層気を引き締めた。
(力づくで屈服出来るなんて思ってない。ここからが勝負だぞ……!)
空気が様相を変える。
時間が止まったかのような、季節が変わったかのような錯覚を覚える。雪は降っていない。
習碁は胸元から何かを取り出した。はじめは夜闇のせいでうまく分からなかった。
きらりと月明かりに反射した。折り畳み式の小型ナイフだった。
「……!」
拳大のそれを習碁は徐に自らの手首に当てた。
「何を……」
そのまま、返した手首を断ち切らん勢いで切り裂いた。
「!」
左手首から吹き出した血は地面に落ちることなく、習碁の周りを漂い始めた。
鮮やかな赤が習碁を取り巻く。流動的に動いているそれは、やがて一つの意思を持ったように習碁の全身に張り付いた。
自身の血液に包まれた習碁。まさに血の結晶。ぴたりと、全身を縁取り、その輪郭を浮かべる宝石の鎧。
構造色。
光の当たる角度によってその彩を何色にも変える。虹という表現では足りない。彈は“初めて遭った時のことを思い出した”。
鋭利に飛び出た後頭部は、まるで地球上の生物ではないかのよう。
(こういう風に“変貌る”のか……)
有無を言わさぬ圧力。
「……」
目の前の赤い異形の存在は、ただその場に立ち尽くした。何をするでもなかった。
彈は大きく深呼吸をする。この壁を乗り越えなければ、“事態”の収拾・解決は不可能だ。意を決し、拳を握りしめた。
「……うおぉっ!」
全力疾走で習碁を目指す。目一杯の力を込め、左拳を振りかぶる。
大きな音がした。確かに、彈の拳は習碁の頬に直撃している。しかし、ダメージを負うどころか、微動だにしていない。体が寸分も動いていないのだ。
体重の全てを乗せた。それも助走をつけて。それなのに無抵抗で、一ミリの揺れも無い。まるで巨木を殴っているようだった。
「……力の差は分かったろ。絶望したか?」
習碁の問いに彈は答えなかった。その実、胸中では喜びを覚えていた。
(これなら、この人なら! 必ずチキンを止められる……!)
交渉だけでなく、自らの手で習碁の実力の程を確かめる意味合いも兼ねていた。その為、彈の力が全く敵わないことこそが望ましかったのだ。
「ふっ!」
二撃、三撃。攻撃の手を休めることなく、次々に五体という武器を存分に繰り出していく。
「はあっ! くっ!」
動かない習碁と、手足を滅多打ちと言わんばかりに当てる彈。
急所を的確に狙う。正中線にある眉間・人中・顎・喉・鳩尾・金的はもちろん、重心を崩す為の足への攻撃や、腱を狙った関節の横方向攻撃もした。通常の人間なら反射的に守る部位だ。かなり悪どい狙いと言える。
「……無駄だ」
それでも相手方の消耗は見られない。彈の息だけが上がっていく。ダニエルの装備のおかげで、拳や脚にはそこまでのダメージが無いのが幸いだった。
(硬い。鉄でも殴ってるみたいだ)
段々と鈍る動き。数分か数十分か。止め処なく攻撃していた彈は、既にふらふらになっていた。
しかし拳は、体が千切れようと肺が破裂しようと習碁に届けた。
「もういいだろ、充分だ。帰るぞ」
彈には一つの確信があった。“習碁は揺らいでいる”。事前の性格からの推測もそうだが、何より今の問答を経て、彼という人間を見た。逃げの一手に徹すれば、逃走など容易な筈だ。なのにそれをしない。
つまり、自分次第で協力は仰げるということ。後は、こちらの執念を示すだけなのだ。
「まだだ」
「……はあ。付き合ってられない。平穏を脅かさないでくれ」
「待ってくれ」
「……」
やはりすぐに姿を消しはしない。言わなくてもいい一言を彈に敢えて聞かせる。まるで自分が協力する理由を欲しているようにも見えた。
武燈習碁という男の中で、正直になりきれない気持ちの鬩ぎ合いがあるのは確かだった。
血の鎧の男。チキンに対抗する程の存在と戦うとなれば、被害は小さくないだろう。そうなれば、習碁とて露見する。そのデメリットは彈にも充分に理解出来た。
「はあっ、はあっ」
習碁の中の天秤を傾ける。その一心で死力を尽くす。
「もう止めるんだ! こんな事、無意味だと言ってる!」
彈は止まらない。ラプトルは止まらない。“ヒーローは止まれない”。
「……痛い目を見れば、諦めるか?」
置物のようだった習碁が右手をゆっくりと上げ、対角の顔の左側に持ってくる。
「!」
警戒はした。しかしここで止めてしまえば、習碁の力が手に入らないのは確実だった。
彈は両腕をクロスさせ、顔の前に十字をつくる。万全の体勢を整えた。緩やかに振り払う習碁の手が迫る。
「!」
衝撃が響いた感触は無い。反面、彈の体は“宙に浮いていた”。さながら羽毛の如く、歩道橋の端まで足を着かせることなく飛ばされていたのだ。
刹那、理解が追いつかないままでいると、背中に耐え難い激痛が走った。鉄のひしゃげる音、周辺や橋の地面のひび割れる音が耳を劈いた。
「ぐ……がはっ!!」
後頭部も打ち付けたようで、頭部からの出血を伴った。
一撃。たった右手の一撃だけで、彈は戦闘不能と呼ばれるまでに追いやられた。口に鉄の味が、鼻に錆び臭さのようなものが広がる。
「……っつ……ごほっ、ごほっ!」
目測五〜六メートルは飛ばされてしまっただろうか。今まで対峙した相手だって同様のことは出来るだろう。しかし、彈の経験で感じたものとは明らかに威力の質が異なった。人の持ちうる膂力ではない。
武燈習碁、現在は血の鎧の男。血で覆われた顔の表情は分からないが、逡巡が伝わった。追撃は無い。加えて、後悔をも孕んでいた。
「……震条くん。君ももう疲れたろ。死ぬつもりは無い筈だ。さあ、終わりにしよう」
彈は応えた。
「なら……協力してくれますか?」
頑とした姿勢の彈。全身に走る痛みと疲労感が心を折りかけた。だが、“ラプトルを曲げるわけにはいかなかった”。
「……意固地だな」
習碁が呟く。
「い……いいのかよっ! こんなことを繰り返させて!」
荒げた声。習碁は清聴している。
いずれ被害が大きくなった時の保証は無い。そしてあれだけの力を持ったスーパーヒーローを操る真意。その人間が警察の人間。あらゆる懸念が火急の事態として重くのしかかる。判断が遅れれば、対策が間に合わなければ。きっと救えない命が出てくる。
実際、明星みづきという個人の命が蔑ろにされている。
フラッシュバックする勇希の笑顔。人の命をぞんざいに扱わせはしない。激情が彈を包み、ラプトルへと変貌させる。それは血液よりも、ずっと強固に。
「何故諦めない? 力の差は歴然だ。どう足掻いたって埋めようが無い。なのに……なんでお前は諦めようともしないんだ!」
震えた膝。噛み締める歯。ゆっくりと、だが確実に、二本の足で立ち上がる彈。膝に両手を突きながらも、その眼光の鋭さは失われることが無い。
「諦める。なんて選択が出来るのは、理由や目的のあるヤツだけだ。俺は理屈で動いてるわけじゃあない。俺を動かすのは———衝動だ」
逆転の有り得ない状況で、習碁は背中に寒気を覚えた。“ヒーローを、そこに見た”。
思わず声を漏らす習碁。
「……っっ!」
右拳を握りしめる彈。千鳥足で習碁に向かう。
「ふっ……ふっ……っっ! ……るァ!」
血の鎧を砕かんと、殴る動作をとった瞬間。糸が切れたように足元から崩れ落ちた。
「!」
限界だったのだ。意識が途切れれば、体は言うことを聞かなくなる。当たり前のことだった。
倒れたまま動かなくなる彈。習碁はそのまま彈を見つめた。
「俺は……」
鬼気迫る執念が習碁の感情に微かな変化を齎す。
「彈!!」
突如。背後からの大きな声が体を突き抜けた。
「!?」
振り返り対象を確認しようとすると、“それ”は習碁を横切った。
真っ先に彈の元へ駆け寄ったのだ。
「彈! しっかりして! ひどい…………でも息は、ある!」
スイーツ店で見かける姿に驚いた。彈へ必死に声をかけている。
(この姿の俺に臆さず、真っ先にこいつを助けに?)
即断即決の行動に目を丸くする。
「……電話を掛けてたんです」
「?」
「何度掛けても出ない。すると、とっても大きな音が聞こえたの。物騒な世の中だし、こんな夜中に確認することも無い。けど……来て良かった。あなたが誰か、何か知らないけど、“彈にもう手出しはさせない”。消えて」
円環の瞳は彈のものと酷似していた。
「……」
僅かに肩が震えているのが分かった。
習碁はため息を吐き、心を決めた。一目で分かる程、鎧は瞬時にその硬度を弱めた。流動的な液体へと姿を変え、左手首に収納されていく。
“血を拭い”現れた姿は円環に衝撃を与えた。
「! 武燈、さん!?」
習碁は円環に背を向け、橋の反対側へと歩き出した。
「待ってください!」
そして制止を聞き入れることなく消え去ってしまった。彈の体重だけが両の腕に乗っている。
「まど、か……?」
かすれた声が振り絞られていた。
「彈!?」
「左耳の……」
声が段々と小さくなっていく。再び気を失うのも時間の問題だった。
「何!? うん、うん……」
円環は訳も分からない状況で、とりあえずは彈の指示に従うことにした。
話し声が聞こえる。数人居るのが分かった。
「そんな……そんなことって」
円環の声が耳に入った。
「うっ、つつ……」
重たい瞼を開けると、心休まる光景が広がっていた。
「!! 彈! 良かった、目を覚ましてくれてっ。平気?」
拠点だった。円環と共に亜莉紗とダニエルも居た。
気を失う前に、オフにしていた通信機を使って亜莉紗に連絡させたのだ。上手くいったらしかった。こうしてなんとか拠点に戻れている。円環に協力者が露呈することになったのは不本意だが、成り行きと言ってしまえば仕方がなかった。
「そうだ、あの人は?」
こうしている場合ではない。習碁のことを思い出した。全身に走る激痛。交渉はどうなったか。
周りを見て理解に努めようとした。すると、亜莉紗の前の数個のモニターが目に入った。
「……考えってこのことだったのね。まさか血の鎧の男本人を知っていて、それを隠されてるとは思わなかったわ」
尤もな意見に口を噤む彈。
「ま、今はそれは置いといて。坊や、大変なことが分かったわ。血の鎧の男こと武燈習碁は、坊やとガールフレンドの円環ちゃん、二人とも面識がある」
円環の存在が受け入れられていると見ていいのだろうか。彈は止めはせずに話を聞きに徹した。
亜莉紗は神妙な面持ちだった。
「彼の存在が分かっていればもっと早く辿り着けた事実よ。純粋な身体的能力の超人性。チキンと“同質”の力を持つ存在として、この情報は大きいわ。———彼、武燈習碁は、“五年前に超人になってる”」
「……それって」
ダニエルも円環もその表情は固い。
「今までを思い出して。超人は先天的なもの。それを上手く使いこなせるようになるのが幼少期ってだけ。でも彼は違う。なら、前にした“チキンは最近力が発現したんじゃないか”って推測は当たってるかもしれないってこと。……続けるわね」
彈は生唾を飲み込む。静かな室内に響いたように思った。
「彼は五年前、ある事故に遭っていた。それは……彼女、小春円環さんのご両親が乗っていたバスの転落事故よ」
耳を疑った。
以前、店前で習碁を見かけた際に円環が漏らしていた言葉を思い出した。
「彼はその唯一の生存者だったってわけ」