89.咎
吐く白い煙は外の寒さを表してはいない。まだ冬には早かった。
ここは穴場の喫煙所だ。
「チキン……ねえ……」
肺を循環する快感が思考を落ち着かせる。
ここ数日、世間は賑わいを見せていた。ネガティブな意味合いではない。しかしながら、昨日震条彈から聞いた話が頭から離れないのも事実だった。
『まだ邪推の域を出ないので話半分で聞いてください』
『当たりめえだ』
突如として現れたスーパーヒーロー、チキン。ふざけた名前に反する人間性と実績が、その人気を確たるものにしていた。
彈の話の通り、裏で暗躍しているフィクサーがいるなら問題だ。あれほどの力を持った存在を操っている。本人が抵抗出来ない程の弱みを握っているのか。超人高校生・美波野誠を助けたことのある善人らしいが、不憫というだけでは片付けられないだろう。
インプレグネブル・ゴッズはもう居ない。空中分解したようなものだからだ。他の目星は、皆目見当がつかないというわけではない。裏の世界の人間達。そして、他にも斉藤が怪しんでいる人間は居た。
立ち込めた煙が一つの逃げ場を見つけ出す。
「ん?」
冴えない顔をした男が入ってきた。斉藤を見て、少しだけ目を丸くしている。
「お。まさかここで知り合いに会うとはな」
「は……鑑にフラれちゃいまして」
溜息のような乾いた笑いに斉藤は疑問符を浮かべる。
奏屋は普段あまり吸い慣れていないであろう煙草に火をつけた。手持ち無沙汰になったからなのだろう。
「……」
沈黙。斉藤は毅然としていたが、奏屋は背筋に力が入っている。
「ジンゴメン。お前は続けてんのか?」
深い関係者ではない斉藤ですら、その話の程は聞き及んでいた。
その質問に、目を左斜め上に向け答える奏屋。
「つ、続けてますよ。けど、色々と働き方は変わりましたね」
深みを持たせて言う奏屋に斉藤は続けて聞く。
「というと?」
「ウチ……組織としては活動を継続してるんですけど、現在ジンゴメンスーツは運用停止となってます。燦護みたいに合意した上で使用を求めてる人間に対しても、倫理的な観点から現時点で容認は出来ないらしいです」
「そうか……。そんななら、責任者の胎田さんや時任さんは厳しい処分を?」
至極当然な質問だった。しかし、奏屋は首を横に振った。
「あの人達こそ変わらないですよ。立場の強さが桁違いなんだって思い知らされました」
半笑いでそう言う。
「ほ〜、なるほどねえ……」
斉藤は首を左手で摩った。
パトロールとして街を巡回中の彈。
亜莉紗達と共有している問題に頭を悩ませている。常に思考の中に存在するのだ。
チキンと呼ばれる超人は、抱えるにはあまりにも巨大だ。単なる膂力という意味でもそうだが、その背後が脅威として未知数と言える。
数々の事件や事故を解決、及び未然に防ぐ。にも拘わらず、“犯罪増加”そう判断するには“弱い悪”の連続だ。チキンをヒーローに仕立て上げている存在というのも気になる。
「少し、寒いな」
気温は過ごしやすい適温。心地よい夜風が吹いている。寒く感じるのは悪い想像ばかりしてしまうからか。
ラプトルとモノクローム。犯罪を探す者と犯罪者を探す者。どちらも広く網を張っているが、毎日の活動の中でチキンに遭遇することは無かった。その不可解な謎を考えると、暗い空に浮かぶ星が見えなくなる。
ふわり。
ビルの屋上、そんなところで一枚の羽が落ちたような気がした。彈は左を確認する。真珠色の装甲が月明かりに照らされていた。
「!」
驚愕の光景に言葉を失う彈。
「お。君は……」
まさに今、思い浮かべていた人物がそこには居た。
「チキン……!」
彈同様、あちらも少なからず驚いているのが見て取れる。ただ移動していたに過ぎなかったのだろう。
「なんというか、いずれ会うとは思っていたけど、いざとなると少し緊張するな……。初めまして」
これがテレビで見ていたチキンなのか。もっと声が大きく、少し暑苦しささえ覚えるような印象だっただけに彈は訝しんだ。あの画面越しに感じたヒーロー然とした圧が無い。歌舞伎役者のような物言いも。
(キャラづくり……?)
そういえば亜莉紗もモノクロームと手を組んでいた際、口調が変わっていたと言っていた。それは一種の切り替えなのだろう。だが、目の前の男は違う。そう、言うなら“気が緩んでいる”のだ。
「なんだか、テレビで見るより落ち着いてますね」
「え? ああ……カメラが無いからな」
プライベートの芸能人に遭ったようだった。
それから二人は少し話した。たわいもない世間話だった。お互いを探っていたとも言えるかもしれない。安易に手の内を見せるということは無かった。
「ラプトルなんて有名人も、実際にはただの若い兄ちゃんだなっ。私刑人だって言葉のせいで少し構えてたんだ」
彈は思った。話してみると、やはり習碁と同じ匂いを感じる。力という意味でも、人間性という意味でも。
とても悪人とは思えない。その思案が、彈に一つの話題を切り出させた。
「一つ、都内の犯罪を見てきた一般人の戯言を聞いてもらえますか?」
チキンは彈の真剣な様相に、沈黙で応えた。
「最近、やけに犯罪や事故が多い。この国……特に近年の東京で犯罪増加の波があるのは珍しいことじゃあない。けど、大きな組織を潰して減少傾向にあった時にこれだ。少し不可解なんです」
「……悪人がこれみよがしに付け上がっているのかもね」
彈はチキンの表情を確認しながら続ける。
「それにしても、犯罪のプロによる犯行は少ない。無名の突発的な犯行ばかり。そして何より、“事故が増えるのはおかしい”」
核心に迫った発言をしたつもりだった。そしてその彈の考え通り、マスクの下のチキンの顔が少し強張った。
「……何が言いたいんだ?」
影に潜む存在を明るみにする。その為には心を鬼にして訊かなければならない。
「———“自作自演って可能性は”?」
彈は、ひやりと背筋に冷水が流れるような感覚を覚えた。超人の気配が変わった。逆鱗に触れた、それが空気を伝って理解る。
心優しきスーパーヒーローの言葉を待った。
「…………死傷者は居ない」
信じ難い返答だった。
肯定を意味する言葉に、驚きより先に憤りがきた。それも、チキンの言葉は本心ではなく妥協が見え隠れしているように見えたからだ。
「本気で言ってるんですか!? だとしても損壊はあるし、人自体に怪我が無くても心に傷は残る!」
彈は怒りを露わにする。
「……」
口を噤んだままのチキン。組んだ両手を眉間に当てている。
あれだけ世間で持て囃されているヒーローが、こんな悪事を認めた。そして、理解していながら活動し、いけしゃあしゃあと公共の電波に姿を届けている。
武燈習碁と同じと評した人間が、苦しみながらも己の義に反している。その事情を知る必要がある。
「何様かと思うかもしれないですが、あなたは“善い人”だ。そんな人が何故……」
露出した口元が震えていた。歯を食いしばっているのがわかる。
彈とて、余程の理由がなければ許容は出来ない。そもそも彈の意にそぐわない時点で、既に対立関係にあるといえるのだが。
「……妻が危篤なんだ」
「!!」
寂寞の中紡がれた言葉。
「難病でな。大金が要る。それも継続的に」
深い溜息を吐くチキン。
「一介の町工場の人間には厳しい額だ」
金銭を積まれているというごくシンプルな背景。だがそれ故に、即座に解決出来る問題ではない。
極論、この世は金。大小はあれど、物事の大半は金があればどうにかなる。だからこそ、稼ぐ職業は注目を集め崇められ、そうでない職業は蔑まれる。
富豪と貧困層の差が埋まることは無い。
「お金の為に、家族の為に他人を危険に晒し、社会を不安に陥れていると?」
「そのバランスを保つ為に俺が居るんだ……国民の希望の光、として」
ふざけた話だ、彈はそう思った。自分も大義を掲げているような人間ではない。欲の捌け口というほうが相応しいだろう。しかし社会全体を巻き込んで私情の犠牲には出来ない。何もしていない一般市民を。
「それでもっ……」
「娘を」
「……?」
「この力を手に入れて少しした頃、娘に怪我を負わせたことがあるんだ。あまりに危険な力だ、力の加減が上手くいくまで他人との関わりは避けたつもりだったがそれでも難しかった。慣れたと思った時、近くの食器棚のガラスに手が当たって……」
チキンは小刻みに揺れる自身の右手を見つめている。
「妻の手術代と定期治療。加えて、忌々しいこの体を元に戻してくれる約束をした。その為なら……俺はなんでもする」
それだけを言い残して、またふわり、と屋上を破壊しないように飛び去ってしまった。彼なりの配慮であり、力のコントロールも充分出来ていると見えた。彼は飛翔る鶏なのだ。
彼は超人であることを手放したがっていた。それが悲痛な声に伝ってきた。
彈に心の奥底からチキンを憎むことは出来なかった。
敵意が足りなかった。
暗い会議室に二人の男。
「チキン……あれがお前の隠し球か? あれが大日本帝国再興とやらの鍵とでも?」
時任は皮肉を込めた言い方で胎田に問うた。世間を賑わせている国の犬ならぬ政府の鶏。馬鹿げた姿名前をしているが、その力は脅威そのもの。今までの常識を覆す存在だ。
非核を謳っている日本には過ぎた武力と言える。かえって戦争の引き金に為り得ない。そう時任は常日頃思っていた。
「そうだ。綺坂情一郎は国力増強の要であり、旭日旗の権化だ。事実、マーケティングとしてこれ以上ないほどの効果を発揮している。刷り込みも順調だよ」
初めて耳にするスーパーヒーローの本名に動じることはなく、時任は依然力強い瞳を向けている。
「やめよう。この話は追々詳しく話すよ。きっと納得出来る筈さ。それより」
「お前、何か良からぬことで奴を操っているな? 俺とお前の仲だ、それくらい分かる。ただの協力関係ではない。……隠すべき力を無闇矢鱈に露見させ、世論を味方につける。総理大臣にでも擁立する気か? ふざけるな。“大事なのは国じゃない、人だ”。国を蔑ろにする気は無いが、その前提を履き違えるな。立場的にも、俺の友としても。……でなければ俺はお前を止めるぞ」
時任の意見を背中で聞く胎田。時任からその表情は窺えない。
「やっぱりこうなるか…………ほら」
胎田は小声で何かを呟いた後、鞄からあるケースを取り出した。
「……?」
時任は机に置かれたそれをゆっくりと近くに手繰り寄せる。高級な装いのケースを開くと、中には一本の注射器が入っていた。
指を二本通す穴が両脇に付いており、中には真黒い液体が見える。
「これは……?」
「それが時任、君への“支給品”だ。試行錯誤を重ねた結果の集大成」
ジンゴメンスーツを着ることなく責任者として組織の指揮を執り続けていた時任に、ようやく専用の装備が渡された。前線を希望していた彼にとっては随分待ち侘びていたことだ。
「……完成したんだな」
「したよ。一応ね」
隊員の身に纏っているものとはあまりにも違う。こんな一本の注射でドーピングを? 時任はその説明を待った。
「特殊調合ステロイド、ミオスタチン肥大超人体質遺伝子、アドレナリン・エンドルフィン過剰分泌、ゾーンの強制突入、脳の潜在能力完全解放etc……個を強くするという一点に重きを置いた末の産物。隊員達がスーツという外的な要因で力を得ているのに対し、これは“肉体そのものを強化できる”。もし上手くいけばジンゴメンのスーツは必要なくなる。それほどの性能なんだ。君一人で事足りるくらいのね。早い話が、あのチキンと比肩する超人に成れるだろう」
胎田は饒舌に完成品のメリットを並べる。
「君の大切な部下達の負担を減らせるんだ。寿命を削るうんぬんももう考えなくて良い……どうだい?」
時任が間髪入れず返事をしようとした瞬間、胎田が言葉を被せるように付け加えた。
「あ、もちろん“治験”は終えているよ」
了承を口にしようとしていた時任の動きが止まる。刹那に憚られたのだ。
「……何? こんな危険なものに対し、被験者が? それも、全て織り込み済みの計画というわけか」
「まあね、検体は都合がついてね。……少し時間をあげようか」
その言葉が何か良くないことの末であることは明白だった。裏に潜む影故の成果であると。
「…………答えなぞ初めから決まっている。時間が惜しい」
部下への贖罪。そんなマイナスの感情を孕んだ決意は、この世界の何よりも固かった。
「流石、僕の見込んだ男だ」
胎田は自らの首元に注射をするジェスチャーをしてみせた。
注射器を手に取り、穴に人差し指と薬指を通す。一呼吸置いた後、右の首筋に当てる時任。
「ふーっ」
ゆっくりとその針を奥深くに挿れていく。
「く……っ」
そして親指で中の薬を押し込み体に投与する。あっという間にその全てを注入しきってしまった。
胎田は固唾を呑んでその光景を見ていた。
「うっ!?」
突如、蹲るように倒れ込む時任。全身に激しい痛みが畝りながら駆け巡る。体の内側から焼けるような感覚が押し寄せてくるのだ。吐き気とも叫びとも異なる開いた口は、殺した声を空気に霧散させた。
「……君は国より個を選んだ。そんなではいつまで経っても大義は成せない。残念だ。良き友人と思っていたのに。…………君のことは好いていたよ、時任。本当だ」
時任は返事をする気力すら持たず、ただ継続的な激痛に身悶えしている。
「今はまだ片翼。揃える必要があった。でもこれで、日本が羽ばたく準備は整った。……“盤石な未来を作ったのは、僕だ”」
胎田は倒れている嘗ての友を見下ろした。その姿は、自分の野望が果たされる確証に他ならなかった。