86.ニューヒーロー
ごりごり。筋繊維の解れる音が聞こえるようだ。
体のメンテナンスは重要だ。鍛錬・食事・睡眠。この三つで体が出来たとしても、“使えなければ意味がない”。
柔軟性という意味合いでもそうだが、力の発揮という面でもそうだ。宝の持ち腐れにならぬよう、常に百パーセントのパフォーマンスを可能にする為に身体の整備を行う。
戦闘者の心得と言えた。
円柱状のストレッチ器具に体重を乗せる。筋肉と皮膚の癒着、及び筋組織自体の拘縮を防ぐ。形骸化せぬよう目的を果たす為に痛みを伴いながらもしっかりと体に器具を当てていく。
電話が鳴り響いた。亜莉紗からだった。現在、彈は自宅に居る。
「ハーイ、坊や。今日は来ないの?」
「亜莉紗。うん、オフにして体を休める。もちろん活動はするけどさ」
メンテナンスを終え、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける。中には必要最低限のものしか入っていない。二リットルの水を取り出す。そして棚に置いてある大量のサプリを手に取る。栄養素のバランスを考えた内容だ。特に疲労回復系が多い。
「相変わらず精力的ね。それにしても、いやぁ〜一件落着! 世界に平和を齎したわねっ。坊や」
「協力してくれた皆のおかげだよ」
そう言って八粒程の錠剤を水と共に流し込む。
電話口で聞こえる仲間の声を背景に、勤務先での出来事を思い出す。血の鎧の男が客として来ていたなど、亜莉紗がひっくり返る案件だ。
しかしもう脅威の去った今、何もこちらから事を荒立てる必要はない。武燈習碁は無害な人間だ。このままの付き合いを続ければ良い。それに、亜莉紗に教えれば情報を他に流してしまう可能性も考えられた。
信用しているのは確かだが、“前例”がある。加えて、習碁には厄介事には巻き込まないように言われている。
「工事のある場所とか、諸々の修正いれたマップ送っといたから後で確認しといてね」
「わかった」
(よし、切り替えて今日も外に出よう)
インプレグネブル・ゴッズのボス。アイギャレット・シェルシャルルの打倒に成功し、組織は事実上の壊滅に至った。残党の殲滅は警察がやってくれるだろう。もちろん、見掛ければ容赦をする彈ではないが。
平和、というような安住かは分からない。だが少なくとも、麻薬組織の元締めが居なくなったことによる恩恵は大きい筈だ。悪人を穿つ日々に終わりがくることは無いが、一先ずは肩の荷が降りた彈であった。
『彼にはやってもらわねばならない役目がある』
以前そう言っていた胎田の言葉を思い出す。少しやり過ぎなのではないか。館端はそうよぎった考えをほのかに巡らせながら、ジンゴメンの設備の一つであるトレーニングルームへ入った。そこには先客がいた。
「ふっ! ぬぅっ! っふう……お、館端」
アイギャレットの病院襲撃での負傷から現場へ復帰した奏屋慎次だ。
「回復したか」
「ああ。万全ってわけにはいかないがな」
同僚であり、浅い間柄ではない。故に、沈黙が生まれた。
それを破ったのは奏屋だった。
「お前も、知っていたんだってな」
目線を下にやる館端。話がスーツの副作用のことであることは明らかだった。寿命を擦り減らす呪具。知らずに使っていいものでは当然ない。しかし奏屋としては、そのことを隠していたことよりも気になっていたことがあった。
「あの事実を知ってれば、黙ったまま俺らを顎で使うことも出来た筈だ。でもスーツはお前も使用していた。お前だって負担はあるんだろう? そこが解せねえ」
手放しで糾弾するような人間ではないと知っていたものの、奏屋の言葉はやけに優しいものだった。
「……俺は胎田さんが好きだ。尊敬しているし、なんなら心酔していると言ってもいい。あの人の剣になれるなら、命だって惜しく無い」
時代錯誤な考えだ。それでも、過去の行動からその発言に嘘は無いと言える。
「それほどまでに入れ込んでるのか……。合理主義なお前だから余程の理由があるんだな。梃子でも動かなそうだ。ははっ」
奏屋は冗談混じりに答えた。外連味の無い館端に邪推は不要と心得た。
「心から賛同したんだ。だから、俺は生涯あの人の味方でいる」
「ふっ」
愚直な生き方は警察の代名詞だ。体現する者も多い。
「お前は、まだ居るんだな」
探るように聞いてきた館端。奏屋はあっけらかんと答える。
「もともと“張った”命。燦護達が続ける以上、情け無い背中は見せられねえよ。それに、結果が実績の高さを物語ってる。無駄にはなってねえってことだ」
「そうか……」
それだけで命を賭すに値する。互いに矜持に殉ずる人間だからこそ、それ以上は話さず、トレーニングに集中した。
彈は指定された場所へ向かっていた。齊藤を仲介に、スムーズに話が決まったのは喜ばしい事だった。
積もる話はたくさんある。体だって心配だ。背筋を正し、足を速める。通り過ぎる人々の顔は見えずとも、どこか穏やかな感じがした。空気が澄んでいる、そんな気さえする。自分の行動に、“意味”が付いてきたようで嬉しくなった。
ふと、右横を女性が通過した。長い茶色の髪は自分とよく似た色をしていた。どこかで嗅いだことのある匂いだった。
「……!」
衝撃が駆け巡る。
振り返り、走った。脳をハンマーで殴られたようだった。雑踏のみが視界を埋め、女性は消えていた。速まる鼓動と、寂寞だけが心に残っていた。
日本料理屋、『自愛』。
以前山下に勧められた店の個室。座敷の上、彈と燦護は向かい合っていた。
「注ぎますね」
「あ、俺は大丈夫です」
「あれ? そうなんすか? もしかしてお酒あんまり?」
苦笑いで答える彈。酒は飲まないが、今日は腹を割って話すつもりだ。
「そっか、じゃ」
グラスに注がれた日本酒を一口で飲み干す燦護。
「っくう……!」
ゆっくりと置き、目を合わせる。
「気軽に食べましょう。同い年なんだしっ」
「ですね……」
ぎこちのない返事を返す。いざ面と向かって一対一で警察と話すのは齊藤以外では初めてだ。それも何度か交戦した人間と。
「年齢聞いたときはびっくりしたなあ。まさかラプトルがねえ。正直、仕事を抜きにすれば一人間として尊敬してる部分もあるんすよ?」
燦護はヒーローを前にして私見を述べた。技能はもちろん、膂力で圧倒的に勝る強化スーツを相手に、一切臆すことなく戦っていた彈に敬服していたからだ。
「あ、ありがとうございます。俺も、常良さんには何度も助けられました。齊藤さんに通じるものを感じるし、感謝してます」
お互い探り探りの社交辞令は決して表面的ではなく、本心からの言葉だった。
「さっそく、聞いてもいいですか?」
彈は本題をぶつける。冗長な世間話で場を繋ぐ程、余裕のある状況ではなかった。
「……もちろんす」
燦護が会ってくれたのには、こちらの質問に答えることが出来る、そういうことなのだろうと彈は思っていた。ごたごたしていた警察も一通りの落ち着きを見せたのだと。
「スーツのこと聞きました。元々はあのペスティサイドが使っていたものを流用したことも、副作用という弊害のことも」
二人で同じ敵と相対した時の記憶が甦る。
「……俺もびっくりしましたね。まさかこんなデメリットがあったなんて」
「死を前提とした者が使うもの……。あのマキビシという武器商が作ったものと分かった時点で警戒しておくべきでしたね。何でも、激しい痛みを伴い、その反動は寿命を縮めるとか」
「ええ。その認識で間違いありません」
燦護は申し訳なさそうな顔をしていた。それは、自分だけでなく仲間にまで及ぶ危険性に気づけなかった不甲斐なさからきていた。マキビシ本人を追い詰めた自分なら、いち早く推察出来たことだと。
「体の具合は……?」
「え? ああ、船ではひどいもんでしたが、一過性のものです。今じゃピンピンですよ」
その場の痛みが無くなっても、体を蝕んでいる事実は変わらない。空元気にも見える返答は、彈に虚しささえ感じさせた。
「俺に手を貸してくれたばっかりに……」
彈を見て、燦護は声色を変えた。
「俺や鑑さんがラプトルに助力したことを知ってるのは、奏屋先輩くらいっす。別に警察内の立場がどうこうとかはなってないんで安心してくださいっ」
燦護は頼んでいた茄子の揚げ浸しを頬張る。
「ん〜っっ! うまい!」
気を遣わせていたことに気がついた彈も、目の前の料理を見る。ほくほくと湯気の立っているほっけの塩焼きを口に運んだ。温かな身が口の中でほぐれていく。ふわふわの食感は、噛む程にその旨味を舌の付け根に至るまでに広がらせた。
「今。警察、いやジンゴメンの状況は?」
燦護は口いっぱいに詰めたものを味噌汁で流し込む。
「っぷう……あの後、俺達のことは伏せられたにしても、副作用の話は責任者の胎田さんから全員に通達されたんす。もちろん反発はあって、一時はひどい状態でした。現在、脱退者が後を絶たず、ジンゴメンは残り二十人にも満たないって現状です」
予想を超えた内容だった。
「世論も厳しく、事実上の崩壊へと向かっているって感じっすね……」
芳しく無いことは分かっていたが、数段悪い答えだったのだ。彈には同情しか出来ない。そこで、燦護本人の胸中が気になった。
「常良さんはこれから……?」
燦護は目を丸くした。
「これからも何も“これまで通りですよ”。この仕事に誇りを持ってるし、スーツの機能性だって必要不可欠です。辞めたりなんかしないですよ、ラプトル」
微塵も疑念を抱いているようには見えなかった。彈を含め、彼の周りには己の信念と命を秤にかける人間が多く存在する。そして自らのやりたいことに従い、何より優先する。そうしなければ、生まれてきた意味が無いとでも言うように。
「あなたは本当にすごい……」
「やめてくださいよ! ラプトル」
お世辞でもこうは喜ばないだろう。互いが“同じ人種”だと理解している。拳を交えたこともある。その上でのリスペクトがあるからこそ、燦護は胸を躍らせた。
「彈でいいですよ」
「あ、本名でいいんですか?」
「同い年ですし」
にこりと微笑む彈。
「じゃあ……震条さんで」
「お堅いなあ」
「そっちこそ」
十月。大学生の休みも終わり、あらゆる人の群れが朝の景色を形成している。
温暖化のせいか、残暑という中で満員電車に詰め込まれる人々。皆が一様にスマートフォンの画面から目を離せずにいる。それは常日頃のことであったが、今日は皆が“同じ内容を目にしていた”。
画面上の記事やSNSの書き込みにはこう書いてある。
『回送電車暴走 車両内は完全な無人 経路上全線ダイヤ乱れ』
暴走した車両は時速八十キロメートルで走っていた。
「やばくない?」「そのうち止まるでしょ」「会社に遅延の連絡しなきゃかなあ」「事故とか起きたら結構な被害になりそうだな」「ほんとに無人なの? それで動くん?」「杜撰だなあ。管理体制どうなってんだよ」
ある車両は緊急停止され、押し詰め状態の中、踏切付近で止まっていた。その中のサラリーマンが独りごつ。
「あれ、もしかしてこの横通る……?」
リアルタイムで暴走車両の現在地点を届けているサイトを見る。向かいからやってくる小さな点は、まさに“それ”だった。
減速することのない車両は、すぐに横を通り過ぎるだろう。なんてことはない。
「あれか〜?」「向こう側ならさっさと運転開始してくれよ」「暑ぃ〜」
そんな時だった。窓際の人々の視線はある一点に釘付けになる。ぎょっとする光景だった。
子供。降りた遮断機を小さな背丈で潜り抜け、線路内に侵入した。サッカーボールを落としてしまったようだ。転がるままにその影を追う。
「おいおい!」「まじかっ」「運転士さん!」「きゃー!」「嘘でしょ!?」
満員の車内は行動を迅速にはさせてくれない。もはや、暴走車両は子供の目の前だった。電車を降りて助けることも間に合わない。
「誰かっ……!!」
眩い太陽の下。ふわりと羽の一枚でも落ちるように大きな体躯が横に立つ。逆光で顔は見えない。子供は影の中に隠れてしまった。
車両が全速で迫る。面妖な格好の男は右手を真横に突き出し、ただ悠然と立ち尽くす。
そして、大きな金属音が辺り一帯を包み、人々の耳を劈いた。
男はマントを靡かせ、数瞬前と同じ姿勢を維持している。右手は先頭車両に減り込み、電車の“顔”がひしゃげていた。
電車は、完全に動きを止めた。
「なんだ、あれ……!?」「どこから現れたんだ!?」「人が、電車を止めた?」「夢でも見てるの?」「おい、子供は無事だぞ!」「もしかして……本物の、超人?」
騒つく人々。日常は、非日常の現実に塗り潰されることとなる。
「違う……“ヒーロー”よ……」
一人の女性の呟きと同時に、喝采は男へと向けられた。
口元を露出させた覆面。薄くピンクがかった真珠色のヒーロースーツが、青き快晴の日差しに煌めいていた。




